20世紀初頭、ロシア。人にも獣にもなりきれないミノタウロスの子らが、凍える時代を疾走する。 文学のルネッサンスを告げる著者渾身の大河小説。
初めて読む、佐藤亜紀。海外文学大好きなんだろうなぁ、この人、というのが第一印象。
文章が読みにくい、という話はよく聞きますが、そんなことはない。むしろ読みやすいくらいでしょう。文章が格調高い、という話もたまに聞きますが、まだ僕にはよく分からなかったです。
なんというか、とりたてて書くことはないような気がします。面白い大河風エンタメ+ファンタジー小説、ってことで終わらせちゃだめでしょうか。だめですか。
多分、この小説の面白さの一つは、一人称の回想風の語りにあると思います。ユルスナールじゃありませんが、こうした回想風の語りにおいて、語り手はいつも真実を語っている訳ではないし、彼が語っていること、語っていないことに注目して文脈を埋め合わせていかなければならない、したがって読者の力量が問われることになる。きっと佐藤亜紀はこのことを承知の上で、戦略的にこうしたスタイルを採用したのでしょう。同時に、この一人称の回想風の語りのときに、僕がいつも思うのは、ラストシーンをどんな風に処理するんだろう、ということ。その意味で、この小説のラストシーンはちょっと面白い。死体が語る。そしてラストの一文。不思議な処理ですね。文字通り、些事ですが。
ミノタウロス、ということの意味はよく分かりません。ギリシャ神話?単純に、人間性と動物性の問題を提起したかったのでしょうか。でも、わざわざ内戦状態を(しかも、第一次大戦期の現ウクライナ周辺を)舞台に設定した意図は分かりません。主人公の性向やらが、この内戦状態と深く関わっているのであれば、「自然状態」における人間の動物性を描き出したかったのか?でもそんな感じもしないんですね。単純に少年が「非道」になっていく過程を、つまり転倒したビルドゥングスロマンとして描き出したかったんだと推察してはいるのですが、でも、なんでこの舞台設定?と思わずにはいられません。まぁ、別にどの舞台設定でもいいんでしょうけど。これ、舞台を同年代のアメリカ−メキシコ国境にしたら、コーマック・マッカーシーみたいになっちゃいますね。会話文の使い方といい。思弁性に欠けるコーマック・マッカーシーみたいな。
まぁでも面白かったです。別な本も読んでみます。
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