ユルスナールの中編小説。岩波文庫版で読みましたが、現在は白水社のユルスナールコレクションに「アレクシス」などとともに収録されているようです。
小説の前に、映画の話を。この『とどめの一撃』は1976年にフォルカー・シュレンドルフによって映画化されています。シュレンドルフといったらニュー・ジャーマン・シネマを代表する映画監督の一人ですね。本作や「ブリキの太鼓」など文芸作品の映画化を得意にしている印象です。トゥルニエの『魔王』やムージルの『テルレスの青春』も映画化しているんですか。
この映画が日本語字幕付きでYoutubeに落ちていたので、ついでに観てみました。個人的にはそこまでいい映画とも思いませんでしたが、いつ消されるかわからないので、気が向いたら観てみてください。
ちなみに(真偽はさておき)この映画を観て、ユルスナールは「フェミニズム映画だ」と発言したらしいです。確かに言わんとすることは分かる気がします。エリックの一人称の独白もあって、小説ではエリックの葛藤やら抑圧やらが巧みに描き出されています。しかし、それを映画は表現できません。更に1970年代半ばという時代背景も相まってか、ソフィーの振る舞いや行動が映画の進行の鍵となっていきます。ひょっとしたらその点を指して、「フェミニズム映画」だと評したのかもしれません。
更にそれよりも大きな相違がこの映画と小説のあいだにはあります。映画においては、エリックは露骨なくらい明らかに、コンラートに対して恋愛感情を抱いています。むしろこの三角関係とその末路を描き出すことにシュレンドルフは執心しているように感じられました。このエリックのコンラートへの愛というのは、小説ではほとんど前景化していません。そして、そのせいでラストシーンの魅力が大いに減ぜられているのも事実です。
個人的な印象としては、エリックは自分の独白以上にソフィーを愛していただろうし、ともすればそれ故に彼女を遠ざけ続けたのだと思います。他方で、コンラートに対してもエリックが強烈な愛情を抱いていたのだろうとも。
とはいえこのことは置いておいて、まず、ユルスナールがわざわざ付けた「序」について。
この「序」はオリジナルの刊行当時(1939年)にはなく、1962年に書き足されたものあったもの、とのことです。どういう経緯なのかは分かりません。でも、これがあとがきではなく冒頭に置かれているがゆえに、読者は本文を読む前に、この解説めいた「序」を読まなくてはいけなくなります。丁寧にも、本作の背景、構成、形式、主題、鑑賞のポイント、などをあらかじめ教えられることになります。
これがエリックの独白(待合室での聞き手を想定しない語り)によってなされていること、そしてそれ故に必ずしもその語りをそのまま鵜呑みにしてはならず、読者は語られたことに注目するだけではなく、語られなかったことにも注目しなければならない、と警告されます。そんなことをいわれるとどんな読者だって注意深く彼の独白に耳を傾けることになるでしょうし、(ときに過剰なまでに)その行間を埋めていこうとするはずです。
その「序」から1カ所だけ引用すると、
『とどめの一撃』の中心主題は、なによりもまず、同じ窮地に立たされ、同じ危険にさらされたこれら三人に見られる種族の共通性であり、運命の連帯感なのだ。なかでもエリックとソフィーは、自分自身の極限まで行き着こうとする一徹さと情熱的な趣味によって似通っている。ソフィーが過ちを犯すのは、誰かに身をまかせたい、誰かの気に入りたいという欲望よりもはるかに、身も心も捧げ尽くしたいという欲求からなのである。コンラートに対するエリックの愛着は、肉体的行動以上のものであり、感情的態度を超えるものとさえいえる。
残念ながらエリックはコンラートについて多くを語らなかった。その語らなかったことが何を意味するのかは、様々な捉え方があるだろう。最後にソフィーは命を落とし、それを「悔い」として引き受けたエリックのなかでソフィーは生き続けることになる。いわばソフィーは身も心もエリックに捧げ尽くすことを貫徹し、それによってエリックのなかで「生きる」ことになるんだろう。エリックはコンラートにとどめを刺すことができなかった。何度もその誘惑に駆られながらも、卑怯さ故にそれを達成することができなかった。しかし、ソフィーに対してはそれが可能だった。ソフィーにとどめを刺すことができたのはソフィーがそれを望んでいたからで、コンラートにとどめを刺すことができなかったのは、それを望んでいるかどうか分からなかったからなのかもしれない。この三者の関係は愛と憎悪と死と沈黙が入り交じっていて、とても捉えにくい、というのが正直なところ。ユルスナールの解説以上のことを書こうとしたけれども、僕の技量ではとてもできませんでした。
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