2010年5月7日金曜日

内田百閒 『冥途・旅順入城式』

いまかいまかと怯えながら,来るべきものがいつまでも出現しないために,気配のみが極度に濃密に尖鋭化してゆく――このような生の不安と無気味な幻想におおわれた夢幻の世界を稀有の名文で紡ぎだした二つの短篇集を収める.漱石の「夢十夜」にも似た味わいをもつ百間(一八八九―一九七一)文学の粋. (解説 種村季弘)

百閒、怖いよ百閒……
なんとも、薄気味悪い靄に包まれた小説群、その数47篇。
雰囲気というか、それこそ感覚的なレベルで怖いし、それが何よりも面白い。
冒頭の一節は、ごく日常的な、何の変哲もない描写のはずなのに、それがいつしか、不気味な異界へと移り変わっていく。
何でもない日常なのに、なんかいつもと違う気がする。誰かの気配がする。妙な気分になる。すると、その予感通り、日常の世界が、不気味で幻想的な世界へと変容していく。それが怖くて仕方ないし、もとの世界に戻りたいと思うのだけれども、どうすればいいか分からずに、あるいは何かに導かれるようにして、その世界の深みへと迷い込んでいく。
このいわく言語化し難い、感覚とか気配のレベル、それには誰しも駆られることがあるだろうし、それ故に百閒の小説は薄気味悪い。論理的に理解するとか以前に、その雰囲気が伝わってきてしまう。実際、何が何だかよく分からなかった小説が幾つもあったのだけれども、分かる/分からないの次元の問題ではなく、分からなくても十分怖い(ひょっとしたら「分かってしまう」ほうがもっと怖いのかもしれないけど)。

更に言えば、私たちが気味悪さや恐怖(場合によっては嫌悪感)を感じる対象は、日常と全く同じでもなければ、全く異質のものでもない。全く異質のものであれば、それは異化的な効果を生み出し、むしろ恐怖感から私たちは免れることができる。多分一番怖いのは、日常生活と同じように見えるけれど、どこかがおかしい、そういったときではないだろうか。
それは逆に言えばこういうことだ。ちょっとした細部の違いが恐怖を掻き立てる。そしてその細部に注目することによって、別の世界が姿を現す。このことはジジェクが『ラカンはこう読め!』で説明していた〈対象a〉や欲望の対象=原因を巡る記述と重なる部分があるのかもしれないけれど、だからどうということもないので、措いておく。

怪奇譚の怖さは、その内容によるのは勿論だけれど、なによりも語り口がそれを盛り立てる。百閒はこうした語り口、文章表現、描写、場面設定、効果音などなどが抜群に巧い。たった数行でなんとも面妖な雰囲気を作り出すことができる。だから、怖い。

ともあれ、内田百閒の面白さは日常から非日常へ、現実/幻想、生/死、人間/動物などという図式に頓着せず、両者のあわいを自在に往来しながら、短くてもこちらがむわっとするほど密度の濃い特有の世界を作り出すところにあるのだろう。怖い怖い連呼したけれど、それだけじゃない。「件」の末文にはなんとも脱力させられるし、「白子」のシュールさにはにやっとしてしまう。「冥途」は短いながらもどこかしんみりさせられるし、「山高帽子」の言語感覚には脱帽させられる。
怪奇譚にとどまらない、(カフカをも思い起こさせるような)寓話性にも富んでいる。とても面白い。

なんとも贅沢な短編集です。

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