2010年4月18日日曜日

熊野純彦編著 『日本哲学小史—近代100年の20篇』

明治初年にフィロソフィーという考え方が移入されて以降、日本哲学にはいくつものドラマが生まれた。例えば漱石や鴎外のように、文学と混淆していた黎明期、西田幾多郎が『善の研究』で日本中の青年を魅了し、田邊元や和辻哲郎が西洋の哲学者と切り結びつつ独自に思想を花ひらかせた頃、西田とはまったく異なる文体で大森荘蔵や廣松渉が哲学を語り始めた戦後…。本書によってはじめて、近代日本哲学の沃野が一望される。

いってしまえば日本哲学の見取り図のような感じ。新書でこれを出しますか。
僕が感じたこの本の印象をまとめると、大きな衝撃とある種の不可解さ、ということになるだろう。

何が衝撃だったかというと、ここに登場する哲学者のことを僕がほとんど知らなかったということ。20人のうち、半分ちょっとしか知らなかった。もちろん、それは僕の無知に帰せられるべきことではある。けれども、20代の人々にアンケートを採れば、それが単純に個人的な問題に還元されないことが明らかになると思う。恐らく彼らもまたここに登場する人物のことをほとんど知らないだろう。和辻、大森、西田、田邊、九鬼、このあたりまで、名前を聞いたことがある程度ではないだろうか。あるいはもっと少ないかもしれない。これはともすれば40〜50代の人には信じ難いことなのかもしれない。

つまり、僕が言いたいのは日本思想、あるいは日本における「哲学」の系譜に断絶が生じているのではないかということだ。若い世代の人々にとって日本の哲学は西洋のそれよりも縁遠いものとなっているのではないだろうか。例えばフランスのここ100年の代表的な思想家を20人挙げたとして、ほとんどの人が名前程度であれば全て知っていることだろう。あるいはここ100年の日本の代表的な作家を20人挙げたとしても、ほとんどの人は答えられるだろう。
ではなぜ?なぜたかだか数十年前の思想家たちがこんなにも忘れ去られてしまったのだろうか。
その理由を考えているのだけれども、いまいち明確な理由を導き出せないでいる。
彼らの思想から新たな何かを引き出すことができない、というわけでは決してない。そのことは本書を通じて強く感じたことでもある。独特の語彙ばかりで理解できない、ということはあるかもしれないが、独特の語彙の使用は日本の哲学に限定される話では全くない。また、田中美知太郎のように、ごく平易な言葉を通して思索を深めた哲学者もいるのだから理由としては脆弱だろう。現代思想ブームの中で、彼らの思想が時代遅れと決めつけられ、忘れ去られていったということは考えられるかもしれない。しかし、それはそんな決定的な要因だろうか。考えれば考えるほど、よく分からなくなってしまう。

しかし、少なくとも言えることは、彼らの思想は受け継ぐに足るものだ、ということであり、まだまだ多くの思想をそこから引き出し発展させることができる、ということだ。例えば「日本語で哲学をすること」という問題。これはどうしても日本文化論へと横滑りしてしまいがちである。不思議なことに、ある語彙の含意を探るためにフランス語やラテン語の語源を辿る、というのはよくあることだけれども、日本語でそれをやろうとするとどうにも怪しげな印象を抱かせてしまう(そう感じるのは僕だけかもしれないが)。これはそうした営み自体に問題があるのか、それとも怪しさを感じ取ってしまう僕のほうに問題があるのだろうか。「日本語で哲学をすること」とはどういうことなのか。今日の日本の哲学者たちは本当に「日本語で哲学をしている」と言えるのか。それとも「日本語で哲学をする」こと自体が否定されていったのだろうか。そもそも…「日本語で哲学をする」とはどのような営為なのだろうか。
とりあえず僕は、彼らの思想に少しずつ触れていきたいと思ったのでした。

もう一つ、不可解さについて。
これは単純な話で、なんでこの新書はこんな分かりにくい形態を採ったのか、ということ。
2部構成になっていて、前半では熊野さんが日本の「哲学」の歴史をざっくりと素描している。これはとても勉強になり、ありがたかった。
で、後半部では、20人の代表的な思想家の論文をそれぞれ20人の研究者が8ページずつ割いて解説している。解説によっては、えっ?と思うものや意味分かんない…と思ってしまうものも。というか、基本的に中途半端な印象でした。これだったら、第1部をもう少し加筆して、それだけ1冊の新書にまとめてくれた方がありがたかった。もしくはある論文の解説ではなく、それぞれの哲学者の思想を素描してみせるとか。あるいはもとの論文だけ載せてくれる方がまだよかった。はっきりいって意味が分からないうちに終わってしまうし、それぞれの思想家の全体像が全く見えてこない。しかも論文だから、もとの文章に当たるのがなかなか厄介。最悪、その思想家の主著にして欲しかった。
これは本当に残念なことで、わざわざこんな形態にした意味を明らかにして欲しいくらい。しかも、それぞれの論文を解説した人がどんな研究をしていて、どこで研究をしているのか、どんな本を書いているのか、とかの情報が全くなく、不親切と言わざるをえない。年表やら索引やら役に立つものがついているんだから、第2部ももっと頑張って欲しかったなぁと思う。いや、頑張ったんだろうけれども方向性が間違っている、というべきだろうか。

とはいえ、そんな欠点を補って余りある内容ですし、第2部もそれなりに知識のある方にとってはとても魅力的な内容なのでしょう。(僕には編集方針を間違えたとしか思えませんが)良書であることには間違いないです。

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