ベルクソン、フロイト、ベイトソンの思想、モリエール、カフカ、サルトルの文学、チャップリンやタチの映画などの新しい読解から、この永遠の謎の解明に一石を投じる、ブルデューとともにLiber叢書を立ち上げた現代フランスの知性による画期的な哲学エッセイ。
とても薄い本。注釈と訳者解説を除けば60ページちょっと。ジリボンという著者のことも知らず、タイトルにつられてなんとなしに読んでみました。
「フロイトとベルグソン」という副題になっているけれど、ほぼベースになっているのはベルグソン。特に『笑い』を、滑稽さと不気味さの共通点/分割点を考察する、という観点から再評価しようとしています。
文章も平易で読みやすいけれど、きっちり練り上げられた本、という印象はあまりしない。思いついたことをとりあえず繋げていった「研究ノート」といった感じ。論旨もやや錯綜しているし、ところどころに飛躍があるようにも思う。特にラカンの〈現実界〉を巡る議論を持ち出しかけ、手に負えない、とそれを撤回するところなんかはおいおい、と。ジリボンとしてはそっちに落としたかったんじゃないか、とも思えるのだけど。ただ、そうすると枠化=象徴化で、枠化できない残余=不気味なものということになって、それ自体整理としてはとってもシンプルで分かりやすいけれど、別にそんなに面白い話でもないし、喜劇=滑稽さ/悲劇=不気味さというそれまで依拠してきた二項対立の議論とは少しズレてしまう。そのせいだろうか? ただ、Ⅺ以降を読むと、やっぱラカン方向に落としたかったように読めるのだけど。
喜劇は滑稽さをもたらすものでそれを観る私たちは劇のなかに引きずり込まれることはなく、他方で悲劇は不気味さを伴うもので、そうした不気味さが私たちを劇の世界に引きずり込んでいく。こういった二項対立的な構図をベースに置きながら、それを少しずつジリボンは掘り崩そうとする。実は滑稽さと不気味さが対極にあるものというよりも、一つの反応の2つの有り様としてあるのだと彼はいう。つまり、ある枠(認識枠組み)と対象との乖離ゆえに滑稽さが生じ、枠が宙づりにされるときに不気味さが生じるのだと。しかしその閾を決定付ける因子とは何なのだろう。そもそも枠が「宙づり」になる、とはどういうことなのか。『モダン・タイムズ』の滑稽さと、アウシュヴィッツの底知れない不気味さ。この二つを同列に分析することができるのか(これは極論じゃない)。それは不可能ではないだろうし、必要なことと僕は思うのだけど、〈枠〉という概念がその分析装置として妥当なのかはよくわからない。
最終章の結論部分については、ちょっと意味が分からなかった。枠化(ここでは「意味づけられる」ことを意味する)以前の、生の豊穣さ(ベルグソン)やら不条理さ(カミュ)やら不気味さ(サルトル)やらに触れた後に、彼はそうした枠化されえない世界、意味消失の世界には別のヴァージョンもあるのだ、という。そこでは枠は依然として存在しているが、それらの審級(枠とは審級である)は特権的な存在ではなく、脆弱な、「消失のふり」をしたものであると。そしてそこでは滑稽さと不気味さが両立する。なんだか手順をすっ飛ばしたずいぶん強引な脱構築のような気もするけど。そしてその後には笑いは簡単に低俗化してしまうから私たちはそうした堕落から笑いを守らなきゃいけない、笑いは神秘に近しいものとなりうる(「笑いは夢の親戚であり、神秘に接して花を開き、熱狂のさなかにそれ自体が神秘に達する」)、などとよく分からない話になっています。ちょっとむりやり落とそうとしすぎな感があります。これはよくない。
この本は完成された本、というよりもやっぱり研究ノートなんでしょう。気になるところや面白いところもあるのですが、いかんせん……
何れにしても、ベルグソンの『笑い』は読みたいですね。岩波文庫でしたか。
2010年6月6日日曜日
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