あっというまに品切れ状態になったらしい、『ミクロコスモス』。こうした野心的な思想誌が刊行されること自体、喜ばしいことだと思うし、それが注目を集め、売れていったことはもっと喜ばしいことだと思う(どれくらい刷ったのだろう。1500くらいかな)。
青土社からも、澤井繁男さんの『魔術師たちのルネサンス』が刊行され、フランセス・イエイツの『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス教の伝統』も近刊予定と聞く。ブームが来るのだろうか。
確かにこうしたジャンルに関心をもつ人々は多いもので、特に出版人にはそんなマニアックな人が多いらしい。平凡社で中世思想原典集成をやった編集者さんの話はよく聞くけれど。また、ちくま学芸文庫でも一時期、こうしたジャンルのものを多数刊行していたことがあるけれど、現在はほぼ品切れ状態のようだ。そう、このジャンルは「難しい」のだ。人文・学術書とはいえもちろんビジネスであって、このジャンルは好きな人はいるけれども、なかなか売れにくい。オカルティズムまで完全に振り切って(方向付けを変えて)しまえば、また違う人たちを集めることができるのかもしれないけれど、オカルティズムとこうした本は明らかに違うのだ。だから、そんななかで『ミクロコスモス』が刊行されたこと、そしてそれが意外なほど良く売れたこと、それはとても素晴らしいことだと思う。
ここまで書いて、「このジャンル」とか「こうした本」という言い方を多用していることに気付く。そう、こうした『ミクロコスモス』や『魔術師たちのルネサンス』に典型されるようなジャンルは、とても名付けにくいのだ。どう呼べばいいかいつも困ってしまう。錬金術とか、占星術とか、というと誤解を招くし、パラケルススとかだよ、といっても知らない人には伝わらない。それらの研究は非常に横断的なものなので、特定のディシプリンに押し込むこともできない。だから、この本の副題を見て、「そうか、そういう命名の仕方があったのか」と得心した。
「初期近代精神史」
ここに2つの驚きがあった。ただ、あまりにそれが当たり前すぎるので、こんなことに驚くのは僕くらいかもしれない。
それは一つには、「精神史」という形で彼らの思考の系譜を位置づけることができるということ、もう一つには彼らの思考が「初期近代」であったということだ。
前者についていえば、確かに知の歴史として括ることで、その学問横断的な性格は掴むことができるし、地下水脈として流れ続ける思想の系譜として、あるいはそれらを星座のように位置づけることも可能にしている。他方で、intellectual historyが「精神史」と訳されたときに、少し違う色合いを帯びてしまうことは否めないけれど。
もう一つの「初期近代」という言葉。もちろんこれは15〜18世紀という時期区分を何よりも指しているようだけれど、本書に登場するような様々な思想が「初期近代」として位置づけられる、ということにも注目したい。彼らの思想は、近代における異端というよりも、また近代において排除された前近代的なものというよりも、近代の萌芽そのものであった、ということができるのではないか。まさしくそれは近代に養分を与え、様々な果実をみのらせるような、豊穣な土壌として、あるいはその地下を流れる水脈としても理解されなくてはならないのではないか。その水脈は、地上に湧き上がっているのかもしれないし、ひょっとすると大地の奥底に沈み込んでいるのかもしれないが。
だから、とても重要な研究であるし、僕は興味深くこれらの論文を読んだ。多いに面白がりながら、時に(頻繁に?)わかんないなぁ〜、と呟きながら。
ゴルトアマーの論文やフィチーノの『光について』、はとても面白そうなんだけど僕にはハイレベルだった。というか、冒頭から庭園の論文までのところは、面白い面白いといいながら読んでいたのだけれど、だんだんよく分からなくなってきた。それはたぶん僕が息切れしたせいなんだろうけど。なんだろう、ものによっては精神史というかもっと表層的な素描に留まっているものもあったりして、それは少し残念だった。
とはいえ、知ることは面白い、とつくづく。第2集
追記:第2集も話は進んでいるようです。
(以下参照http://twitter.com/microcosmos001)
それにしてもみなさんツイッター好きですね。僕はあまり気が進みませんが。
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