2010年5月6日木曜日

ヴェルコール 『海の沈黙 星への歩み』

ナチ占領下のフランス国民は、人間の尊さと自由を守るためにレジスタンス運動を起こした。ヴェルコールはこうした抵抗の中から生まれた作家である。ナチとペタン政府の非人間性をあばいたこの二編は抵抗文学の白眉であり、祖国を強制的につつんだ深い沈黙の中であらがいつづけ、解放に生命を賭けたフランス人民を記念する。

古本屋で買った途端に復刊されてしまったヴェルコール。『星への歩み』は加藤周一が訳したのですね。
『海の沈黙』が1942年、『星への歩み』が1943年ですから、まさに「抵抗文学」と呼ぶにふさわしいだろうし、フランスの「国民文学」といってもいいかもしれません。画家であったジャン・ブリュレルが、抵抗運動のなかで、作家ヴェルコールとなる。こうした最中に書かれる作品が、誰に向けて書かれたものだったかといえば、「フランス国民(民衆)」だったであろうし、彼らを目覚めさせ、解放運動へと駆り立てていく、それがこうした作品の果たした役割だったかと思います。

何が言いたいかといえば、それがこの作品の魅力であると思うのだけれど、そのせいでいまいちこの小説に入っていけなかったんですね。フランスの描き方が、特に「あるべき」フランスの姿というのが、あまりにナルシシスティックというか、鼻についてしまった。しかも、それを「他者」に仮託している点にも違和感を抱いてしまった。具体的に言えば、『海の沈黙』のドイツ人将校フォン・エブレナクは、フランス文化に深い愛情を抱いており、ドイツによる侵攻の結果としてドイツとフランスが融合することを夢想している。『星への歩み』のトーマ・ミュリッツはフランス、特にパリを愛するあまり、フランスに帰化したユダヤ系(?)チェック人である。どちらからもフランスはこよなく愛されている。そしてその愛ゆえに、彼らは戦争の犠牲となっていく。それに対して、じゃあフランス人はどうする? こうヴェルコールが迫っているように感じてしまった。『海の沈黙』においてフランス人の「私」と「姪」は沈黙を守り続ける。最後の最後になって、彼らは口を開くことになるのだけれど、彼らのしたことと言えばそれだけである。フランス人の沈黙や無抵抗さをヴェルコールは挑発的に掻き立てているのではないか。
もちろん素直に読めば、ナチスとペタンなどそれに迎合したフランス人への弾劾なのだろうけれど、この2作が書かれた背景が、そうした読みに留まらせてくれない。彼らが抱くフランスへの愛こそ、フランスをまとめあげ、フランス国民を結びつける理念のあるべき姿であるにも関わらずそれが台無しにされてしまったこと、そしてそれを「フランス」が守るどころか、それを踏みにじったナチスへ迎合する姿勢すら示していること、ヴェルコールが弾劾しているのはまさにこの点なんだろうと思う。トーマやヴェルネル自身を描きたかったのではなく。

個人的にはいまいちでした。

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