彼は教皇庁に告訴されていた、その肝をつぶすような異端のコスモロジーゆえに。彼は説く、「私が考え信じているのは、すべてはカオスである。すなわち、土、空気、水、火、などこれらの全体はカオスである。この全体は次第に塊りになっていった。ちょうど牛乳のなかからチーズの塊ができ、そこからうじ虫があらわれてくるように、このうじ虫のように出現してくるものが天使たちなのだ……」。二度の裁判を経て、ついに焚刑にされたメノッキオ。
著者ギンズブルグは、古文書館の完全な闇のなかから、一介の粉挽屋の生きたミクロコスモスを復元することに成功した。それは農民のラディカリズムの伝統のなかに息づく古くかつ新しい世界・生き方をみごとに伝えている。
いわずと知れた、歴史学の古典中の古典。歴史学のあり方を根底から覆した著作、ということができるかも?
恥ずかしながら、初めて読んだのですが、思わず読後に「すげぇなぁ……」と呟いてしまうほど。
歴史学についてほとんど学んだことないにも関わらず。
別に歴史学について何か知りたいとか、方法論を学びたいとか、そういった意図がなくても、また何らかの知識を前提としなくても、この本はとても面白く読むことができると思う。16世紀イタリアの田舎に住む一粉挽工がなぜこんなにも特異なコスモロジー(これだけ読んでも面白い!)を会得し、それを論じ得たのか? それを追求していくギンズブルグの叙述には推理小説的な面白さが満ち溢れていて、読み物としても非常に面白い。
まずは裁判史料を読み解きながら、彼はこの謎に踏み込んでいく。しかし、それはすぐに行き詰まってしまう。彼が語ったことを分析するだけでは、このなぜ?という疑問に答えることはできない。誰かに吹き込まれたのか? そう審問官に問われ続けるけれども、粉挽工は人からではなく、書物の中から学んだと答え続ける。次いでギンズブルグは、メノッキオが読んだとされる書物を突き止め(あるいは推測し)、それを読み解く。しかし、そうした書物の叙述とメノッキオの発言には齟齬が生じている……。そこでギンズブルグはその齟齬にこそ注目していく。そうした探求の中で明らかになっていくのは、書物には還元し切れない、農民たちの間に長い間伏流のように流れ続けてきた民間思想(宗教?)の存在である。それは貴族や教会や都市の思想と完全に独立しているわけではないが、完全に従属しているわけでもない。メノッキオの思想とは、そうした民衆の口承によって語り継がれた思想と、書物から得た知見との混合によって形成されたものだと言う(ともすれば本書は一種の書物論として読むことすらできるのではないだろうか)。
こうして、私たちはメノッキオがどのようなやり方でかれの書物を読んだかを見てきた。言葉や文章を必要に応じて歪めつつどのように文脈から取り外し、さまざまに異なる文章を結びつけ、さまざまな恐ろしいアナロジーをあふれ出させたかを見てきた。そのたびごとに、テクストとメノッキオのそれへの反応とのつきあわせはかれが判然としない形で有している解読の鍵について想定するように導いたし、あれこれの異端集団との関係だけでは十分な説明にならないことを示させた。…最も人を当惑させるかれの主張は、マンドヴィルの『旅行記』や『ジュディチオの物語』などの全く無害なテクストとの接触から生まれたのであった。これらのテクストはメノッキオの言うような書物ではないが、書かれた頁と口頭伝承の文化は、メノッキオの頭のなかで、爆発性の混合物を作り出したのである(pp.121)
また、「61 支配者の文化と従属階級の文化」の記述は決定的に重要だと思われる。そこで彼が指摘するのは、支配者の文化と従属階級の文化の複雑な関わり合いである。少なくとも16世紀の段階において単に両者が独立しているとか、対立しているとか、従属しているとか、そんな単純な話ではないのだ。それは一部分だけ取り出すことが不可能なほど複雑な関係なのだと、ギンズブルグは言う。そして対抗宗教改革の奔流のなかで、こうした複雑な関係を断ち切り、従属階級の文化は次第に抑圧されていく。メノッキオの事例はこうした文脈で位置づけられなくてはならない。
メノッキオという一粉挽工の事例ですら、これだけ多くのことを語ることができる。しかし、メノッキオほど十分に裁判史料が残っているケースは稀であり、ほとんど多くの「異端者」たちは何も語ることもできない。彼らについては「私たちは何も知らない。」
そういえば、今月号の『思想』ではヘイドン・ホワイトの特集を組んでますね。『メタヒストリー』の刊行が10月に延びたせいでちょっと間の抜けた感じになってしまいましたが。対談に安丸先生が出ていて、その対談だけでも一読の価値あり、かも。その『思想』所収のヘイドン・ホワイト「実用的な過去」という論文は去年の東洋大学の講演のようです。なかなか面白い講演で勉強になりました。まとめたノートが見当たらないけれど、黒板にふと描いた図が面白かった気がする。この論文にはその図は載っていないけど。その講演の後に、上村忠男さんがヘイドン・ホワイトに「カルロ・ギンズブルグによる批判に対して、あなたはこれまで反駁をしてこなかったように思うが、その点についてどう考えているのか?」という趣旨の質問をしていました。それに対する回答は『思想』の上村さんの論文にまとめられている、というかその回答をまとめたものを論文に仕上げた印象すら受けてしまうけれど。でも、とても興味深い内容ですね。
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