2010年7月17日土曜日

ナンシー・ヒューストン 『暗闇の楽器』

現代のマンハッタン/暗黒の中世フランス、二つの世界が時空を超えて交錯する奇跡のパラレル・ストーリー。高校生が選ぶゴンクール賞受賞作。

ナンシー・ヒューストンです。『時のかさなり』に続いて二作目。本書は1996年の作品。『時のかさなり』は2006年の作品ですから、少し前に書かれたものですね。どうりで若書きなところも……と言いたいところですが、訳者あとがきによれば本書が書かれたのは小説家としてデビューして15年目なんだとか。うーん、それにしては随分と肩肘張っている感じ。

この『暗闇の楽器』は2つのパートが交互に重ねられ、同時進行的に進んでいくスタイルをとっています。「復活のソナタ」は17世紀フランスを生きる双子の運命をたどった小説で、「スコルダトゥーラの手帖」はその小説を書いているナディアを追ったもの。だから読みながら、バルナベとバルブという男女の運命に翻弄される生き様を追いながら、それを同時進行的に書き進めていくナディアの回想、友人や元恋人、家族との関わりも追っていくことになります。メタ小説とでも言うんでしょうか。更にナディアは小説を書き進めるために悪魔ダイモーンの力を借りていて、ダイモーンの語りとナディアの書く小説が次第にズレていきます。これを面白いと取るか陳腐と取るか。
「復活のソナタ」だけ独立して読んでも面白い小説だと思うけれど(佐藤友紀っぽい?)、ナンシー・ヒューストンがやりたかったのはむしろ「スコルダトゥーラの手帖」なんでしょうね。

作家が創作を進めている場面、これは裏方(裏-局域?)のところであまり見てはいけないというか、見せたがらないところなんじゃないかと思うけれど、彼女はそのブラックボックスをあけすけに晒してしまう。創作とは単に作家が作品を書くことじゃないということ、作家はゼロ地点から創作をスタートするのではなく、悪魔的なものの力を借りつつ物語を始め、その物語が作者に交感し、作者は作品を動かしていく。そんな過程をこの「スコルダトゥーラの手帖」のパートはうまく描いている。この悪魔とのやり取りは、ちょっといかにも過ぎて寒々しいけれど、目次の前にこう書かれていることを忘れてはいけないのでしょう。

『復活のソナタ』のエピソードの多くは、アンドレ・アラベルジェールが『ペリーの耕作人たちの日々』(セルクル・ジェネアロジック・デュ・オー=ベリー出版、1993年)の中で語っている実際の出来事に着想を得ている。

こんな本があるかどうか、こんな出版社があるのかどうか、こんな著者がいるのかどうか甚だ疑わしいところですが。何かのアナグラムなのでは?と疑ってしまいます。また「実際の出来事」などという不用意な言葉遣いをするとも思えませんし、きっとこれもナンシー・ヒューストンの創作なんだと思います。そのことは話を複雑にさせてしまうので、とりあえず脇に置きましょう。

この但し書きに従えば、本書に登場する悪魔ダイモーンというのは、結局のところアンドレ・アラベルジェールに他ならないし、悪魔の語りとはこの『ペリーの耕作人たちの日々』なる本ということにならないでしょうか。単に悪魔の語りに従うのであれば、それは単なる口述筆記でしかないし、以前の何かの剽窃ということになってしまいます。このパートから僕が学んだことというのは、先も触れたようにまず、創作というのはゼロ地点からスタートするものではないということ。そしてもとにある「何か」が次第に運動し始め、その運動と作者の筆致、生き様などと共鳴を始める。その共鳴によって、「何か」が元来であれば導いていくであろう方向から逸れていく。この逸脱こそが創作なのではないでしょうか。(余談ですがジャック・ランシエールが「人間は文学的動物である」というのは、まさにこの逸脱とも深く関係するように思います。)

これはナンシー・ヒューストンのお師匠さんに対する一つの回答なんでしょうね。

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