町をあげての婚礼騒ぎの翌朝、充分すぎる犯行予告にもかかわらず、なぜ彼は滅多切りにされねばならなかったのか?閉鎖的な田舎町でほぼ三十年前に起きた幻想とも見紛う殺人事件。凝縮されたその時空間に、差別や妬み、憎悪といった民衆感情、崩壊寸前の共同体のメカニズムを複眼的に捉えつつ、モザイクの如く入り組んだ過去の重層を、哀しみと滑稽、郷愁をこめて録す、熟成の中篇。
やられてしまいます。文句なしにすばらしい、お手本みたいな(でも絶対にまねすることのできない)中編小説。
村人誰もがそのことを知っていた。犯人たちは悠々と刃物を研ぎ、その時を待っていた。けれども、その殺害を誰も止めることはできなかった。なぜだったのだろう?
この小説は(少なくとも表面上は)この問いに向き合い、緻密な調査・インタビューによって、事件前後の村の様子、人々の行動とその背景を分析し、緻密に再構成した、という形をとっている。だからカポーティ的なノンフィクション・ノベルというべきなのかもしれないが、どの程度ガルシア=マルケスが「現実に即して」ということを意識していたのかはよくわからない。非常に強くそのこと意識していたようにも見えるし、それよりももっと共同体や人々の深層を抉り出すことに主眼を置いているようにも見える。
…あるいは、この発想がそもそも間違っているのかもしれない。この事件の「真相」に辿り着くにあたってはどうしてもインタビュー、つまり当事者の語りに頼らなければならない。こうした語りがそれぞれ真実というわけでは無論なく、それは一面的なものの見方で、しかもその根底にはインタビュイーの価値観や限界がどうしても入り込んでいる。とはいえそれらを緻密に組み合わせることによって、真相に接近することくらいはできるだろう。しかも、その組み合わせの素材一つ一つに住民の価値観や感性が入り込んでいるのであれば、それらを組み合わせることによって、住民の心性を排除するのではなく、それを組み込んだまま真相に接近することになる、と考えられる。だから、「真相」に辿り着こうとすることと、共同体や人々の心性、深層を抉り出そうとすることは背反しない。
住民たちの鬱屈や、アラブ人や金持ちに対する反感、憎悪みたいなものがこの小説には見え隠れする。確かにそれはそうで、吐き出し所がない、あるいは吐き出し切れないようなどうしようもない鬱屈さ、やり切れなさみたいなものが人々の言葉には滲んでいる。
それと同じように、この共同体は既に崩壊しかけている、あるいは崩壊している。解説のなかにバヤルド・サン・ロマンが「モダニティ」を体現する人物だ、という指摘があった。言われてみれば確かに。ただ、ガルシア=マルケスの巧みさは、こんなところにも見え隠れしていて、どうやらこのバヤルドは彼の家族の階級からはつまはじきにされているらしい。そしてバヤルド自身も、(恐らくは)金銭的に依存しつつも、自分が属する階級に不満を抱いている。「モダニティ」を体現する人物が実はそれ自体から疎外されているという奇妙な構図がここにある。更に、ガルシア=マルケスはアンヘラ・ビカリオとの再会という後日談も織り込む。バヤルドへの恋心に気付いたアンヘラが書いた2000もの手紙(しかも開封されていない)を携え、バヤルドは23年後アンヘラの前に姿を現す(このシーンは結構好き)。なんでこんな後日談を組み入れたのか、不思議と言えば不思議だけれど。
この小説は無数の語りの積み上げからなっている。過去のある出来事、それが無数の(というか住民数の)解釈によって多様化する。つまり一つの出来事がN個の物語となる。そうしてできたN個の物語、それは30年もの時間のなかで更に変化を遂げていく。そうした物語を再び組み合わせ、伝承を作り出す(祖型化)、ガルシア=マルケスはひょっとしたらそんな伝承生成をこの小説で行ったのかもしれない。
何よりも終盤部、殺害現場が見事に再現される。まるでスローモーションで映像が頭にこびりつくような、圧倒的な筆致、表現力。そう、読者はこの本を読み進めるなかで、凄惨な殺害シーンがいつか再現されることを期待している。そしてその期待が頂点に達するその瞬間に、ガルシア=マルケスはその場面を描き始める。その時に読者が味わう感情の奔出と昂揚感。「カタルシスとは何か?」を問われたなら、この本を読んでもらえばいい。この小説はそれが何たるかを十全に教えてくれるだろう。
小説を読む歓びを改めて教えてくれる1冊。この小説が420円で読めることを私たちは幸福に思うべきなのかもしれない、とさえ思わせてくれる。
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