2010年4月6日火曜日

藤野豊 『強制された健康—日本ファシズム下の生命と身体』

ファシズム―それは人間を資源として戦争に動員する。十五年戦争下に推進された、心身の健康を強制する政策と病者・障害者たちへの差別を論じ、「存在に値する命」を選別する国家体制を追及する鮮烈なファシズム論。

品切れ状態のようです。面白いのに。
ハンセン病や部落問題の歴史的な研究で名高い藤野さん。本書では日本のファシズムにおける厚生運動、健民運動について考察をしています。
ファシズムと健康の結びつきは、よくナチスの文脈で語られますが、日本においても類似した運動が見られたのですね。そうか、厚生省の設立も1938年だったのか。国民の健康を国家が積極的に管理・涵養していく体制の成立とファシズムへの移行が重なるようにして立ち上がってきたこと、そのなかで国民を人口学的な「人的資本」とみなし、活用できるものは活用し、不要なものは排除していったこと、これらを丹念に論じています。
とはいえ、彼は戦時体制とファシズム体制の間に明確に線を引こうとしています。曰く、

単なる戦時体制では説明できない、生殖段階から国民の健康と体力を国家が管理し、「人的資源」として利用もすれば廃棄もする体制、「存在に値する生命」と「存在に値しない生命」を国家が選別した体制、それをわたくしはファシズムのファシズムたる所以とみなすからである。

これが、彼の独自性であり、同時に批判の対象となりうるところだと思います。ファシズムと戦時体制(総動員体制はこちらに位置づけられるでしょう)を区別することは妥当なのか、という問いを必然的に喚起します。これはつまりファシズムをどう捉えるのか、という問いなのだと思いますが、ファシズムを近代における「特異」として論じるべきなのか、それとも近代の「帰結」として捉えるべきなのでしょうか。
個人的には後者として捉えられるべきだと思いますし、そう認識した方が、藤野さんが注目する国民の健康と国家の関係というものもより明確に位置づけられるのではないでしょうか。フーコーのことはよく知りませんが、そうした個々人の健康に国家が介入し、積極的に健康な身体を作り上げようとすること、更にはそれを一種の「人的資本」とみなして活用しようとすること、これはファシズムに特異な問題というよりも、近代という文脈の上で考えるべきなのではないか、と思います(北欧やアメリカなどでも「断種」は行われていたわけですし)。

こうした厚生省を中心として成立した体制やその活動は、(もちろん多少の変化はあったでしょうが)戦後へと引き継がれていきます。「健康な」身体のための個々人への国家の介入もまたそのまま今日へと引き継がれていると思います。特に戦後という文脈では、そうした「厚生」と強く結びついたのは「労働」ではないでしょうか。「24時間戦えますか」ではないですが、労働に耐えうる身体を涵養するために国家の身体への介入は止むことなく、むしろある意味では強化されたようにも思えます。とはいっても死んでは元も子もないですから、死なない程度に最大限身体を搾取することが求められたし、それに耐えうるような身体が要請されたのではないか、とも勝手に思っています。その最も象徴的なものが「厚生労働省」という名称・体制それ自体ではないでしょうか。

もちろん安易に現代に結びつけるべきではないと思いながらも、どうしても関連づけずにはいられませんでした。まぁ反・禁煙ファシズムということで。

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