2010年3月7日日曜日

永井均×小泉義之 『なぜ人を殺してはいけないのか?』

14歳の中学生に「なぜ人を殺してはいけないの」と聞かれたら、何と答えますか? 日本を代表する二人の哲学者がこの難問に挑んで徹底討議。対話と論考で火花を散らす。文庫版のための書き下ろし原稿収録。

読み終えてから、どう感想を書き散らかしたものか、と悩んでいて随分経ってしまった。で、悩んでいるうちに、内容をほとんど忘れてしまった。
つまり対談の「噛み合わなさ」ばっかりに引きずられて、肝心の内容をすっかり忘れてしまった、ということ。とはいえこの本を600円で発売できる河出って一体どうなっているのだろう。よっぽどたくさん刷っているのだろうか。まぁいいや。

「噛み合わない」ということは「失敗」ということとイコールではない。この対談を「失敗」と評する人がいるけれども、そもそも対談が「成功」するとは、どんな状態だろう、と思う。こうした成功/失敗を評価する根底にあるのは、弁証法的な発想だと考えて間違いないだろう。テーゼ、ジンテーゼ、アウフヘーベンというお決まりの流れ、これに則っていれば対談は「成功」、則っていなければ「失敗」、と要はそういうことではないだろうか。この対談はそうした流れには明らかに沿っていない、だからこれは「失敗」である、と。また、Amazonレビューに散見される、どちらかに軍配を挙げたがる発想も何だかなぁ、と思う。対談に「勝ち/負け」もあるまいに。

単純に、この問いの立て方が間違っているのだろう。「なぜ人を殺してはいけないのか?」、この問いが発せられる文脈ってかなり特異なものではないだろうか。まず、ここには主語がない。この問いを「なぜ(私は)人を殺してはいけないのか?」と採るか、それとも「なぜ(人は)人を殺してはいけないのか?」と採るか。また、この問いはどこ(誰)に向かって発せられているのか。そして、この問いが本当に問いなのか、単なる修辞疑問に過ぎないのではないか。そもそも「(私or人は)人を殺してはいけないのか?」というこの問いを飛ばして、その理由を問うこと自体、かなり乱暴な問いの立て方という印象を拭えない。
これがこの対談がよく分からなくなってしまう一つの要因。両者でこの文脈の理解がズレている。
だけど、逆に言えばここから彼らの思想とその根本的なズレを取り出すこともできるはず。これは今後の課題。
むしろ、そっちに読み開いていかないと、もったいない。

あと、必ず出るだろうと思っていた、幾つかの話が出なかった。
「戦争」「収容所」「人間/動物の間」。これにはがっかり。「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問い自体が成立しない状況から考えていくやり方もあったのでは(特定の方向ばかりに向かってしまい、話も次々それていくのは対談の魅力であり、欠点でもある)。

面白いと思うかどうかは微妙ですが、600円なら買ってもいいのでは。

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