藪で、蛇を踏んだ。「踏まれたので仕方ありません」と声がして、蛇は女になった。「あなたのお母さんよ」と、部屋で料理を作って待っていた…。若い女性の自立と孤独を描いた芥川賞受賞作「蛇を踏む」。“消える家族”と“縮む家族”の縁組を通して、現代の家庭を寓意的に描く「消える」。ほか「惜夜記」を収録。
川上弘美。「神様」とか「ぽたん」とか「惜夜記」とか、断片的にしか読んだことがなく、とりあえず割と初期の作品が入っている『蛇を踏む』でも読んでみようかと思いまして。
「ぽたん」とかの直接的には言及されないけれども、空気感とかちょっとした描写を通して伝わってくるエロスな感じを川上弘美っぽさの一つだと、勝手に思っています。この3つの小説にも端々にそんなところがあってよいですね。
他にも、飲み食いシーンや動物が頻繁に登場する、とか色々あるんでしょうけど、なんといっても文章がいいですね。彼女独特のリズム感、言い回し、かなと漢字の混じり具合なんかがあって、読んでいると不思議な心地になります。フィルターというか霞のようなものがぼんやりとかかっている、実に不思議な文章なんですね。
内容も同じく。無数の蛇に取り囲まれ、体の中に入り込まれても「難儀である。」として片付けてしまう登場人物。蛇が蛇水になって、体内をムズムズしているのに難儀って…と思わず突っ込んでしまう。彼女の小説はどこかふわふわしてつかみ所がないんだけれども、登場人物も同じく、です。人物造形がリアルじゃない、なんていっても意味がありません。そもそも本人が「うそばなし」と称しているわけですから。
第一、この本を開いて、それぞれの小説の冒頭を読んだ瞬間に、読者は自らが住まう世界とは全く違う法則や秩序で組み立てられた世界に踏み込むことになります。
そこでは、人間と動物を分割するはずの線が消え、人間は動物になり、動物は人間になる。両者は互いを自由に行き来する。あるいは現実と空想の世界の境が不分明になる。というよりも現実、非現実という分有が存在する以前の、なんとも形容し難い、混沌とした世界がそこにはある。「蛇を踏む」について言えば、そこに向う側の世界に魅惑され、中身はほとんど向う側の世界にいる人々(蛇だけど)のものとなりながらも、それでも向う側の世界に踏み込むことができず、格闘を続けながらどこまでも押し流されていく主人公の様子に、少女時代をアメリカで過ごした著者自身の経験や苦悩が投影されていることを読み取ることができるかもしれない。けれど、松浦寿輝があとがきで、蛇を何かの象徴だと読み替えるのは止めろ、といっていたのでそんな妄想は止めることにしましょう。確かに、そのまま読んだ方が面白いかもしれません。これはどこまでも蛇を踏んだことによって、可能世界というか、全く異なるやり方で構成された世界に放り込まれた物語である、と。
川上弘美の小説には、様々な動物が登場します。実在のもの、空想のもの、そんな区別はこの世界においてはさほどの意味をもたないのでしょう。「惜夜記」にも多くの動物たちが登場します。
この小説の奇数章では、馬、泥鰌、獅子などという動物名が章題となっています(紳士たち、なんてものもありますが)。そうした動物たちにまつわる幻想が奇数章では繰り広げられます。
一方、偶数章では、章題はすべて自然科学系の用語となっています。例えば、フラクタル、カオス、ビッグクランチ、非運多数死、シュレディンガーの猫などなど。そしてそれぞれの用語は確かにその章の内容にぴったりくるようにしつらえられています。一方に量子力学などの自然科学、他方に動物たち。これは面白い中編小説ですよ。幻想的というのか、夢十夜的というのか、「フェミニンな内田百閒」的というのか。ちなみに最後のは松浦寿輝命名です。言い当て妙なのかどうなのか…
川上弘美いいですね。『ハヅキさんのこと』でも読みたいなぁ。
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