2010年3月25日木曜日

佐藤俊樹 『桜が創った「日本」—ソメイヨシノ起源への旅』

一面を同じ色で彩っては、一斉に散っていくソメイヨシノ。近代の幕開けとともに日本の春を塗り替えていったこの人工的な桜は、どんな語りを生み出し、いかなる歴史を人々に読み込ませてきたのだろうか。現実の桜と語られた桜の間の往還関係を追いながら、そこからうかび上がってくる「日本」の姿、「自然」の形に迫る。

ちょうど時期も時期ってことで。
岩波新書の隠れた(?)名著です。実に良くできた本で、つくづく感心しながら読んでいました。
桜そのものよりも、桜に関する語り、イメージに焦点を当てています。
面白い点は幾つもありますが、まず古来の人々が「桜」に持っていたイメージ、理想的な桜の有り様を具現化したのが、ソメイヨシノであったということ。このことがソメイヨシノのイメージをそれ以前の(そして今日にもある)桜の多様な有り様に対して押し付けていったということ。それゆえソメイヨシノが登場し、広範に拡大していった後にそれ以前の桜の有り様を見ようとするとどうしてもソメイヨシノのイメージに引きずられてしまう。そうしたソメイヨシノを近代の産物だと見なして、それ以前の、「本来的」な桜の有り様を「ヤマザクラ」に見いだそうとする、つまり人工的かつ近代的なソメイヨシノに対して自然で伝統的なヤマザクラを対置させようとする発想も、まさしく近代的思考に他ならない、と喝破している。
このことがすぐ連想させるのは「ポスト・コロニアリティ」を巡る議論だろう。ポスト・コロニアルな局面において、植民地支配に対する反発として、しばしば、それ以前の原初的な姿を見出し、それに立ち返ろうとする動きが見られる。ただ、それは結局のところ植民地支配下の鏡像に過ぎず、それこそ西洋的な思考に他ならない。こうした矛盾に覆い尽くされた状況が、ポスト・コロニアルな局面ではないか。これについて、酒井直樹は「ポスト・コロニアル」という用語の「ポスト」にはpost factumとしての意味合いがあるという卓抜した指摘していた。植民地体制とはそうした、まさしく取り返しのつかない出来事なのであり、もはやそれ以前に立ち返ることなどできない、ということだろう。

話が逸れてしまった。次に面白いのは、桜と「日本人」が相互参照的に、あるいは再帰的に互いを創出させてきた、という点。「日本人」なる存在が「桜」を育て上げたのではない。ある人々が新たな桜を創出し、桜が「日本人」を創出させていく。そうした連累の果てに、現代の桜を巡る語りは位置している。「桜は日本にしかない」とか「桜のように日本人は……」とか「桜は日本人の感性に合っている」とか「西洋のバラが一輪の美しさであるのに対して、日本の桜は集合の美しさである。これは、西洋は個人主義的性格と日本の集合主義的性格に対応するものだ」とか。
現代の桜の語りの特徴として、個人的な桜に対するイメージが、突然日本人の桜のイメージや「日本」へのイメージへと飛躍していく点を指摘していた。何の論理もなく、情緒的に、あるいは随想的に両者が結びつけられる。こうした語りは確かによく耳にするし、違和感を感じるのだけれども、桜の描写の美しさにごまかされがちなのも真実だった。マイケル・ビリッグがバーナル・ナショナリズムという言葉を提唱していたけれども、確かに彼のいうようにネイションにまつわるイメージはこうした何気ない、日常生活のすぐ近くで機能しているのだろう。

もう一つ挙げれば、ソメイヨシノが接ぎ木によって広がっていくが故に、ほぼ同時期に、同じように咲き、同じように散っていく、ということ。このことが国民国家形成や帝国主義の拡大において一定の役割を果たしていたのではないか、という指摘である。同じような桜を見て、同じように楽しむ、そうしたソメイヨシノを取り巻く空間を地域は違えど多くの人々が共有する。そもそも桜は日本のイメージを密接に結びついている。そんな中でソメイヨシノは「日本/日本人」が形成されるにあたってのいわばイデオロギー装置の一端として機能したのではないか、ということはとても興味深い指摘だった。ソメイヨシノがクローンであるがゆえに、結果的に時間や空間を共有することが可能になった、ということだ。しかも何にも増して興味深いのはその時間、空間の原点ともいうべき地点が靖国神社であったということだろう。この靖国神社と桜の結びつきについて、第2部の前半にかなり紙数を割いて考察を行っている。

桜って面白いなぁとつくづく。桜を巡る語りに改めて注目したくなります。桜に対する著者のスタンスが明確で、単純化や飛躍を自制する語りがとても気に入りました。とても優秀な方なのかな、と勝手に思いました。
ソメイヨシノが咲いているうちに、とはいわないけれどもぜひご一読を。

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