2010年3月14日日曜日

フランコ・ベラルディ 『プレカリアートの詩』

70年代のユートピア的反乱はなぜ現在のディストピアへ行き着いたのか。自殺、自傷、ひきこもりの先に見える未来なき現在のために。ネグリとともに闘い、ガタリとともに歩んだ、今、最もアクチュアルな思想家/アクティビストがイタリア・アウトノミア運動といまを結び、現在の資本主義を分裂分析する。

上智の白石嘉治さんがどこぞで絶賛していたけれど、なるほど面白い。
内容を整理しようとしたけれども、なぜか挫折してしまった。
扱っていることはそんなに難しいことではない。むしろ大雑把とすら思えるほど、ざっくりとした議論のように思う。ざっくりしている、というのは、ここ数十年の流れ、転換を幅広い文脈からうまく抽出している、という意味だ。粗い部分がない訳ではないが(というよりかなりあるように思うけど)、かなり重要な一面をえぐり出しているように思う。

彼がまず注目するのは1977年という転換点。ユートピアからディストピアへの滑落を再現してみせる。その後過去30〜40年間の社会や労働環境の変化から、彼がコニタリアートと呼ぶ者たちの出現に至る過程に注目する。更にこの数十年間、メディア・情報圏において2つの決定的に重要な転換が起こったことに注目する。一つは60〜70年代に生じたビデオ電子圏の形成であり、もう一つが90年代以降に起こった、グローバルなインターネット圏の形成である。彼らはそれまでの世代と決定的な相違を生まれながらにして抱えている、とビフォは考え、この世代に蔓延するとされる精神病理へと分析のメスを入れていく。そんな彼の議論に通底するテーマはやはり自律性(オートノミー=アウトノミア)である。TAZではなく、Non TAZ、つまり永続的な一時的自律領域の確立を彼は論じている。あぁ、そういやハキム・ベイも積読したままだった。

これじゃあ伝わらないなぁ。とりあえず個人的に面白いと思ったところをいくつか抜き書きしてみよう。

世代という概念の意味するのは、テクノロジー的、認知的、想像的な形成環境によって規定された時間性を共有する人々の集合体である。過去の近代的時間においてはこの形成環境が時間とともにゆっくりとしか変化しなかったのに対して、生産関係、経済関係や社会階級間の関係のほうがもっとはっきりと変化したものだ。しかし、ひとたび文字文化的な諸技術がデジタル化へと移行するや、この転換が介在して学習、記憶、言語交換のモードを根本的に変更させ、形成過程における世代的属性の濃度こそが決定的なものとなってきたのである。…世代とは技術的かつ認知的な現象であり、意識の共有地平と経験的可能性を自己構成する横断的主体化の概念なのだ。認知技術的環境の変容が、個体化の可能性と限界を再定義するのである。(14−15ページ)

77年を資本主義支配に対する最後のプロレタリア運動だったということもできるが、それはまた近代の終焉を告げる年だったということもできる。…あの年の文化が含んでいたのは資本主義社会批判だけでなく、近代性批判でもあった。(40ページ)

「プレカリアート」という言葉は一般に、労使関係、賃金、そして労働日の長短に関連づけられた固定的ルールにはもはや規定されえない労働領域を象徴してある。しかしもし過去を分析するなら、労使関係の歴史においてこうしたルールが機能したのはごく限られた期間だけだったことがわかる。…労働運動の政治力が衰退したのにともない、資本主義における労働関係の本性的不安定性とその残忍さが再び出現したのである。(46ページ)

新たな現象であるのは、労働市場の不安定性ではなく、情報労働を不安定なものとしている技術的かつ文化的な諸条件の方なのだ。技術的条件というのはネットワークにおける情報労働のデジタル再結合のことであり、文化的条件というのは大衆的教育と消費への期待のことである。…本質的な点は労働関係が不安定化することではなく、むしろ労働力、能動的な生産主体としての個人の解体にあることがわかる。(46−47ページ)

カタストロフとはギリシア語で、位置の変化によって前には見えなかった物事が観測者に見えるようになることを意味する。破局は新たな可視性の空間を開くものなのだ。そしてこの可能性ゆえに、しかしまたパラダイムの変化が求められる。(234ページ)

テクノロジーの発達はここ数十年加速度的に進展した。これを単なるツールや科学技術の問題として捉えてはいけない、それは「全面的」なものであって、私たちの身体や思想の有り様を根幹から造り変える事態なのだ。しかし、それについての思考がまだまだ貧弱なように思う。それについて説明できるような言葉があまりにも少ない。ビフォがここで様々な用語を生み出すのは、そうした説明のための言葉の欠如を補うためなのだろう。それが読みにくさに繋がっているとしても、何らかの言葉を編み出さない限り、この転換を十分に議論することができない。
個人的な話をすれば、僕はこのビデオ電子世代と接続的世代のあわいに属する。だから、率直に言って彼の議論に対して違和感を感じるところもある。特に、母よりもテレビと関わる時間が多くなった、という下りはジェンダー的にもかなり問題のある議論だろうし、あまりに大雑把な感は否めない。だけれども、だから過去へ立ち戻ろう、という発想をビフォは微塵も抱いていない。それは不可能であり、どこまでも稚拙な発想に過ぎない。
彼は、自律性に何らかの希望を見いだす。それが破局の後にあるものだとしても。

花粉症と薬の副作用のせいで、頭がぼんやりしてまとまらない。もしこれを読んでいる人がいたら、すみませんと謝りたい気持ち。彼の分析は面白いんですよ、本当に。
(ビフォについては洛北出版からも近刊予定あり)

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