2010年3月22日月曜日

ダンテ・アリギエーリ 『神曲 天国篇』

三昼夜を過ごした煉獄の山をあとにして、ダンテはベアトリーチェとともに天上へと上昇をはじめる。光明を放つ魂たちに歓迎されながら至高天に向けて天国を昇りつづけ、旅の終わりにダンテはついに神を見る。「神聖喜劇」の名を冠された、世界文学史に屹立する壮大な物語の完結篇、第三部天国篇。巻末に「詩篇」を収録。

ようやく読了。ちょうど各篇1ヶ月ペースで、3ヶ月かけてのんびり読みました。
ラストに向かうにつれて、妙な昂揚を感じますね。おぉ、ついに神のところまで!みたいな。とはいえ、天国篇は、ダンテの警告通り、そしてよく言われるように、難解というか馴染みにくい印象でした。口頭試問みたいな問答や神学的(?)な説明が大部分を占めていて、地獄篇や煉獄篇を読むのとはちょっと勝手が違いました。あと、ダンテの「これを詩で伝えることはできない」といった発言があまりにも多いのにもちょっとなぁ、と。たぶん、彼の言う通りなのだろうけれど。天国での出来事は人間には理解できない、といったことは天国の住民にも再三指摘されることだし、そうしたそもそも人間が理解できないということと、更にそれを言語化して他の人に伝えられるようにしなければならない、ということは不可能なことなのかもなぁ、とか。面白いのは天国には遠近法が成立しないということ。遠くも近くも同じように見える。ダンテのこの時代には遠近法は成立していないはずだけれど、あれはどこまでも人間の擬似的な視点(トリック)だものね。きっと逆遠近法の世界なんだなぁ、と。
煉獄篇を読んだときベアトリーチェとダンテの痴話喧嘩にどん引きした、と以前書きましたが、ベアトリーチェ=神学なんだよ、ということを天国篇を読んでいるなかで教わりました。ベアトリーチェとダンテの関係を単なる男女関係と読んではいけないのですね。あれは痴話喧嘩ではなく、俗人ダンテに対する神学からの叱責、みたいなものなのですね。俗人ダンテが神学によって深く自己を省みて、神学に魅了され、探求し、それとともに天国を旅していく、ということなのですね、反省。でも学問だけじゃなくて、観想も必要だということは、聖ベルナールへと導き手が変わることからわかるそうです。だとすると、ヴェルギリウスとは何だったのでしょう。
ともあれ、やはり天国で歓びに満ち、健やかに過ごしているはずの人々も、例によってフィレンツェやら法王庁やらには痛罵を繰り広げるんですね。あまりにも口さがない、そして俗っぽくはないか、と思いますがダンテの政治に対する執念やら怨恨やらが透けてみえて面白いです。

読んでよかったか?と聞かれると「よかったよ」って答えます。やっぱり面白い、あらゆる意味で。よくまぁこんなものを作り上げたなぁ、と驚嘆、です。『神曲』のなかで再三自分でも言ってるからあんま言いたくないのだけれど、この人は天才的ですね。細かな部品14233個を丹念かつ緻密に汲み上げて、恐ろしく巨大で、にもかかわらず均整のとれた構築物を作り上げたダンテというのは常人ではないですね。


以下は完全におまけです。いつも以上に意味不明かついい加減な内容になっていると思われますので、間違っても信じたりしないように。

少し前に、NHK教育でカステルッチの舞台・インスタレーション『神曲』が放映されていて、それを見て思ったこと。
ダンテの『神曲』に霊感を受けて作られた、あるいはそれを翻案したといった感じ。特に考察をする訳ではなく、疑問やら、素朴な印象やらを断片的に書き連ねただけですが。

地獄篇について、ダンテのそれとはっきりと重なるのは、ぱっと見たところでは、作者のカステルッチが冒頭シーンの犬に襲われるところくらいだろうか。ヴェルギリウスに連れられて地獄を順に巡っていく、というダンテのそれとは大いに異なるように思う。ダンテが地獄を明確かつ幾何学的に秩序づけたのに対し、カステルッチの舞台では、ダンテもヴェルギリウスも登場しない。
ただ、冒頭の犬に吠え立てられるシーンでは、カステルッチだけではなく、あたかも観客も犬に吠えかけられているように思う。そしてそれ以降ダンテ=カステルッチが登場しないことを考えたら、以降この舞台でダンテの役割を果たし、地獄を垣間みるのは観客自身なんだろう。
序盤の登場する“INFERNO”の文字がなぜ左右逆なのか。観客席から見るとそれは左右逆だけれども、舞台の方から見ると、それは左右正しく表記されている。つまり、観客こそが地獄篇の世界に入り込んでいるのだ。

また、ヴェルギリウスに相当する人物がいない訳ではない。この舞台に要所要所に登場するアンディ・ウォーホルがそれに近い役割を果たしている。途中、舞台の男女が次々と両手を開いて投身するシーンで背景に登場するテロップに書かれているのはウォーホルの作品とその製作年。なぜウォーホルなのか。ダンテがヴェルギリウスの影響下にあったのと同様に、私たちはウォーホルとともにあるということか?これは謎。

反復について。投身シーンでも、バウンドシーンでも、首切りシーンでも、同じ「ような」行為が何度も繰り返される。けれども、それは同じではない。バウンドの反復は違った光と音の反応を生み出すし、首切りもいつの間にか人数が減っていく。一方、ダンテの地獄では、地獄の住民は「終わりない責め苦」に苛まれる。火に炙られ、瀝青に煮られ続ける。それは同じものの繰り返しであり、違うものを生み出さない。この違いは一体なんだろうか。これも謎。

上映後のインタビューで、カステルッチは、(多分に韜晦が含まれているであろうが)興味深い発言をしている。地獄篇をなによりも彼は「生」や「人間関係」という文脈で捉えているのだという。
確かに、ダンテ地獄篇で際立つのは亡者たちの過去(生の時代)についてのダンテへの語りであり、様々な責め苦を甘んじて受け続ける亡者の強さだったと思う。彼らが語るのは、故郷、祖国、家族、友人たちとの関わりであり、カステルッチはそれを「人間関係」という。私たちは人間関係を切り離すことのできない「必要なもの」ととらえている。だから、私たちは「人間関係」から逃れることなどできない。それは往々にして地獄行きと結びつく。天国に行くことができる人間はごく僅かなのかもしれない。あるいはその僅かの者も本当に天国に行けるのだろうか。

「天国篇」のインスタレーション。あそこに流れている水をレテ川として捉えてみたい。レテ川は全てを忘却させる力をもつ。煉獄をこえ、天国へ向かうものは、この川の水を飲み、全てを捨て去る。
…しかし、このインスタレーションの男は、いつまでもレテ川から出ることはできない。つまり、それ以前の人間関係などを捨て去ることができないのだ。そしてその様はあたかも地獄の責め苦のようにも見えてしまう。天国行きを約束されたはずの男は、忘却を果たすことができず(それは彼を彼たらしめているものだから)、いつまでも天国に辿り着くことができない。天国篇の短さの意図について、カステルッチは本心を隠した回答をしているのは明らかだろう。天国篇の短さの理由は、天国に辿り着くことが不可能だからに他ならない。実際のところ、レテ川の水を飲むのは煉獄篇最終部のことであり、実のところ私たちはダンテの天国篇の世界に踏み込むことすらなく、現実の世界に送り返されてしまう。

あと、アメリカについて。ウォーホル、バスケットボール、そして煉獄篇の舞台。なぜアメリカなのか。これまた謎。ただ、近代(モダニズム)においてアメリカのもつ象徴性とか神話性とかと関係づけることができるかもしれない。また、イタリアにとってのアメリカ、は気になるテーマ。

ダンテの神曲において、地獄と天国が永遠のものであるのに対して、煉獄は過渡的な移行の状態である。煉獄にいる人々は、生前の行いに応じて、様々な苦行を負い、それは生前の行いを贖うに足るまで続く。煉獄は許しの場ではなく、苦行への忍耐の場である。したがって、煉獄では唯一時間が意味をもつ。カステルッチにおいても同様に、煉獄篇だけが、時間をもつ。しかし、この作品の息苦しさは何といえばいいのだろう。煉獄にいるのは誰かすらも分からない。
ただ、こう考えることはできる。煉獄において贖われるべき罪が人間関係に起因するものであり、私たちがそれを避けることができないのであれば、そしてそれでも天国を希求するのであれば、私たちは煉獄においてそれを贖わなければならない。それは、避けることのできないものだから、どこまでも不条理のものに見える。同様に、このカステルッチの煉獄篇も、どこまでも不条理な物語である。だけれども、煉獄とは、やはりこういったものなのかもしれない。

ダンテの『神曲』はどこまでも英雄譚である。彼らは名をもつ存在である。
一方カステルッチの取り上げるのは「匿名」の人々である。だから、それは英雄が不可能な時代における「私たち」なのだ。天国にも、地獄の奥深くにも行くこともない、大多数の「私たち」。

…本当かよって自分でも突っ込みながら、ですが。時間があれば、ちょっと観なおしてみたい。

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