戦後思想史において独特の光彩を放ち、ナショナリズムやアジア主義の問題を考える上で不可欠な仕事を残した思想家、竹内好(一九一〇~七七)。いま、われわれはその遺産をいかに読み、いかに継承すべきか。魯迅、周作人、武田泰淳、京都学派、毛沢東、岸信介…6つの出会いをとおして竹内の思想をアクチュアルに問い直す。
今年生誕100周年の竹内好。みすずからも竹内関係の新刊があったなぁ。竹内の再評価が進んでいるのはここ10年ぐらいのことなのだろうか。
来週末に彼の本をもとに勉強会的なことをするらしく、なんか糸口になれば、と思って手に取った。丸川さんが竹内好論を書いた!という期待もあって。
僕が竹内の著作を読むようになったのは、学部生の時だったろうか。ちくまの『日本とアジア』を初めて読んだ時の驚きは今もよく覚えている。それはポスト・コロニアルなんて言葉が流行する遥か以前に、こんな根源的な思考をしていた思想家がいたのか、という驚きだった。とはいえ、その時は実は、竹内を「読んだ」というよりも「読み損ね」ていたのだ、と気付かされることになる。
そのきっかけとなったのが、僕が大学院に進学したときに、客員教授としていらしていた孫歌さんの授業。まさしく一流の研究者であり思想家でもある(そして人柄もとても素晴らしい)孫歌先生の授業を受けることができたこと、これは大学院に行って本当に良かった、と思うことの一つだった。テクストを読むということにかけて、彼女ほど抜きん出た方に出会ったことはないと思う。特に竹内を読むということがいかなることなのか、このことをまさしく実践的に思考していく、そんな授業だった。
竹内の文章は、ぱっと見るととても読みやすく、すらすら読んでしまいがちだけれども、実はとても難しい。彼は必死に言葉を見つけ、あるいは作り上げ、自分の思考を表現しようとする。けれども表現しきれない、そんな苦闘やそれゆえの飛躍が随所にあって、それを見落とさずに、あるいはそんな飛躍を埋め合わせながら、果たして彼は何を言わんとしているのかを理解しようとしていく、そうした過程が必要になるのだろうと思う。
彼はなによりも借り物の言葉に頼らない。あるいはたとえ借り物の言葉であっても、最後は借り主にそれを返すか捨てるかして、その本質を自分のものとする。そうした言葉の積み重ねから竹内の論文はなっている。だから、竹内を読むときには、ある意味で竹内に成らなければいけないのかもしれない。けれどもそうして読み手が竹内と一体化しては、そこから有効な思想をくみ出すことなどできない。だから竹内から最終的には離れなければならない。「出会う」こととはこうした運動に他ならない。
竹内が魯迅と出会い、また孫歌さんが竹内と出会ったように、いつか僕も竹内に出会いたい、そう思ってはいるのだけれども。
そんなこんなで丸川本。
竹内好の6つの出会い、に注目した章立てになっている。魯迅、周作人、武田泰淳、京都学派、毛沢東、岸信介。
さすがというかなんというか、なかなか質の高い議論が展開されていて、しっかり読み込んでいるなぁといった印象。思わず見逃してしまいそうな竹内がさらっと述べているところをしっかりとつかみ取り、咀嚼しながら論を組み立てていて、なるほどなぁと唸らされる。
とくに4章、5章は抜群に面白い。「世界史派」との関係に注目して「日本の近代と中国の近代」を読み解くあたりは、新鮮な発見が幾つも。
本書は改めて竹内好の魅力を教えてくれる本だと思う。したがってかなりおすすめ。
竹内好の生涯、研究姿勢、発言、視座、行動と彼のもつ思想は一貫していて、不可分なものなのだと思う(僕の竹内への関心は—恐らくは他の竹内に関心を抱く人々と同じように—彼の思想への関心と同じ位、彼の思想にも向けられている)。そして「思想」というものはこうあるべきなのだ、とも。借り物の思想と言葉に頼らないこと。そして「思想」がその人にきちんと「根付いている」ということ。竹内の思想が強靭なのは、彼の思想が彼自身にしっかりと根付いているからなのではないでしょうか。だから、本当のところ彼の思想だけを抜き出すことなどできない。彼の思想に近づきたいのであれば、彼自身と出会わなくてはならない。そしてその苦闘をするだけの価値がそこにはあるのだろう。まだまだ竹内好という思想資源はくみ尽くされてなどいないのだろう。あるいは今こそ竹内好が必要とされているのかもしれない。
そういえば「人と思考の軌跡」とタイトルの横に書かれているけれど、これは河出ブックスのシリーズなんだろうか。だとしたら、次にどんな本が出るんだろう。
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