最初の小説「向う側」から近作「示現」まで日野文学の精髄を示す8篇を収録。
ベトナム戦争中、失踪した記者の行方を追う著者初の小説「向う側」、自らの離婚体験を描いた芥川賞受賞作「あの夕陽」等初期作品から、都市の中のイノセンスを浮上させる〈都市幻想小説〉の系譜、さらには癌体験を契機に、生と死の往還、自然との霊的交感を主題化した近作まで8作品を収録。日野啓三の文学的歩みの精髄を1冊に凝縮。
少し前に「風を讃えよ」と「七千万年の夜警」を読む機会があって、それからずっと気になっていた日野啓三。
先日古本屋でこの本が手に入ったので(「七千万年の夜警」は入ってないけど)読んでみました。
向う側/あの夕陽/蛇のいた場所/星の流れが聞こえるとき/風を讃えよ/ここはアビシニア/牧師館/示現(エピファニー)
の8篇、いずれも短編です。これらはほぼ時系列順に並んでいるのかな。
池澤夏樹みたく、これらに通底して日野啓三が扱ってきたテーマ、などというものを掘り下げることなどはできないけど。…というよりそもそも、日野啓三の小説を深く掘り下げていったら日野文学の核心、みたいなものに辿り着けるものだろうか。僕もそれに近いことをやろうとしているのかもしれないけれど、その先に「核」があるというのは幻想なんじゃないだろうか。結局、池澤が取り出してくる「向う側」なんて抽象的なテーマは日野啓三以外の人びとも取り上げていることで、そんなものを「核」だなんて大仰な言い方する必要ないでしょう、とか思ったり。とはいえ、そうした核心をつかみ取ろうとする運動や、「核」のように見えるものを呈示してみせることは必要なのかもしれない。
僕もそれに近いことをやろうとしている、と書いたけれども、違うとすれば、池澤がそれを客観的な「日野文学の核」として呈示しようとしているのに対して、僕のはただ主観的な、「読んで感じた印象」に過ぎないということだろう。
ともあれ、上に挙げた8つの短編のうち、前半の3つは正直言ってそこまで面白いとは思わなかった。デビュー作しかり、芥川賞受賞作しかり。自然の細密な描写とか色彩感覚、光への感受性とかはすごく気に入っているし、僕が勝手に思う「日野啓三らしさ」の一面はそこに描かれている。けれども、この3つであくまで主役なのは「人間」だということがいまいち気に入らなかった。これについては少しあとで考えるべき点かもしれない。
残りの5篇についてはそれぞれに素晴らしい短編だと思う。
「星の流れが聞こえるとき」に登場する少女、「風を讃えよ」に登場する癲癇の少年と風男、ここでも日野は人間を描いているじゃないか、と思われるかもしれない。けれども、彼/彼女らは、「器」のようなものだ。そうした「器」を介して私たちは星の流れる音を聞き、風の呼吸を感じ取る。彼が描きたかったのは、そうした人間そのものではなく「器(としての人間)」を介して聞こえてくる「自然」そのものではないだろうか(ひょっとしたらここにそうした「器への生成」も付け加えるべきなのかもしれないが)。彼/彼女を通して、私たちは雪の降る音を聞き、風の呼吸を聞く。
「風を讃えよ」について、ある精神科医が、この小説は、統合失調症の人間から観た世界を見事に描ききっている、と評したらしい。それについては僕は分からない、としかいえない。けれどこの短編を読むたびに、やはり「風の神殿」に響く風の呼吸が聞こえてくるし、ともすれば光の粒子すら見えるような気がしてしまう。癲癇を煩った人間が、発作時に感じるという恐怖と恍惚の混淆や、幻覚をこの少年は「ハクイ」と呼ぶ。モノも音もすべてが薄れ、溶け合い、透き通るような体験、それを少年と風男は共有している。そして、また彼らはその「ハクイ」を風の呼吸からも感じ取る。とても神秘的で美しい、短編小説。
「ここはアビシニア」もまた、印象的な小説。19歳で写真集を出版し、その後世界を放浪するなかで、カメラを捨てた写真家遠井一を巡る物語。戦災で全てが燃え尽きた東京は、その後奇跡的な回復を遂げる。そしてオリンピックを目前にした昂揚状態のなかで、彼は写真集を出版した。彼は、東京という虚構的な現実を下支えしているもう一つの「現実」を写し出そうとする。それは朽ち行くアパートであり、高架道路の裏にあるむき出しのコンクリートであり、メッキが剥げ落ち、緑青を吹いている流し台であった。そしてそれらは単に東京のもう一つの姿を映しているのではない。それは「現実」であるとともに未来の東京でもある。彼は「現実」を執拗に撮ろうとし続ける。しかし、カメラは現実のごく一面を切り取るに過ぎない。彼は海外を放浪し、アビシニアに辿り着く。そして圧倒的な現実を前に、それをカメラに収めることを放棄し、自分自身がカメラとなり、身をもって「現実」を浴びる。しかし、そうした「現実」に私たちは耐えられない。「現実」に近づきすぎた彼は、もとの世界に帰ることができなくなってしまう。そうした遠井の姿を「私」は「夢の島」で幻視する。そしてそんな彼の姿をアビシニアのランボーと重ね合わせる。私たち(こういう一般化は安易か)は「現実」を執拗に追いかけようとするが、私たちはそうした「現実」に耐えることはできない。恐らく創作というのはこの僅かなあわいの領域においてなされるものなのだろう、彼のように(ランボーを含めていいのかはわからないけれど)帰って来れなくなってきた人びとを私たちは数多く知っている。
「牧師館」は少し不思議な感じ。なぜ終盤部にいきなりキリスト教の話を持ち出したのだろう、またなぜ(教会ではなく)牧師館を幻視したのだろう。手術を間近にして、ふと奥多摩の渓谷に向かった「私」は渓谷で自然の音にじっと耳を澄ませるうちに、とくに夕陽の一瞬に自然と通じ合えたような心地になり、落ち着きを取り戻す。そして彼は駅に戻ろうとするのだが、そのときに森のなかに牧師館を幻視する。そのなかで老牧師は「われわれはもう自然に戻ることはできないのだよ」ときっぱりと言う。「われわれ」のなかには、キリスト教だけでも「男」だけでもなく、私たちも含まれることだろう。「男」と自然との交感をここで自ら否定しているのだろうか。それとも自然に戻ることはできないけれども、交感することはできる、ということだろうか。すこしよくわからなかった。
最後に「示現」について。これはオーストラリアについて書かれた文章のなかでもっともよくできたものの一つではないだろうか、と勝手ながら思う。ガッサン・ハージの『ホワイト・ネイション』などを読んでいて、広漠な自然(アウトバック)に対する恐怖感が白人オーストラリア人に根付いている、というのを少し言い過ぎだろう、と思っていたのだけれど、なるほどな、と納得させられた。日野の観察眼はとても鋭敏で、レストランでの様子や街の夜景からそうした恐怖感や孤独感を具に捉えている。オーストラリアの中心にある空虚、「広大な無」に対する恐怖感。自然の圧倒的な存在感によって、人間(白人)はそこで主役になることができない。
そして「私」は月夜のエアーズロックと対面する。ここの描写の美しさは感動的ですらある。面白いのはその後に「私」が死にそうになるところ。ここに「ここはアビシニア」との近似点を見いだすことができるかもしれない。
最後のアボリジニとの対話。これも、とてもいい。
なんだか好きな小説ばかり。
日野啓三、もう少し読んでみようかな。
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