2010年4月30日金曜日

岡真理 『彼女の「正しい」名前とは何か』

西洋フェミニズムの「普遍的正義」の裏に、異なる文化への差別意識がひそんではいないか―。女性であり、かつ植民地主義の加害者の側に位置することを引き受け、「他者」を一方的に語ることの暴力性を凝視しながら、ことばと名前を奪われた人びとに応答する道をさぐる、大胆にして繊細な文化の政治学。

『アラブ、祈りとしての文学』は優れた書物だった。優麗な文体と、根源的な問題意識と感性に裏打ちされた批評とが高度なレベルで調和していて、読む者の心を打つようなそんな本。装幀も素敵でしたね。あれを読んで以来、「アラブ文学」に親しむようになった。何よりもガッサン・カナファーニーの小説を読むきっかけとなったこと、それだけで僕にとって『アラブ、祈りとしての文学』は大きな意味をもつ著作だった。

そんな岡真理が、2000年に著したのが、本書。といっても『現代思想』などへの掲載論文を加筆修正し、編集したものだけれども(こんな本ばっかり目につきますね)。文章はまだ若書き、というか筆が上滑りしている印象がある。というよりも、ある種の切迫感に追いつめられているような、そんな印象。これはきっと岡真理が、非常に真摯な研究者である証だろう。彼女は、自身の問題意識と現実との間に板挟みになり、そんな中でなんとか自分自身を前に進めていこうとしていたのではないだろうか。もちろん、この本は読者を(つまりこの場合は「日本人」男性、女性を)撃つ、あるいはその基盤を切り崩すことを目指しているわけだけれども、それ以上に自傷的な印象すら受けてしまう。繰り返されるポジショナリティへの反問と出口なしにすら見える非対称的な関係性の弾劾。ひたむき、かつ真摯に紡がれる思考たち。恐らく、「第三世界」フェミニズムを(から、ではなく)思考するというのはこういうことなのだろう。とりわけ西洋化された人間が、「第三世界」の女性たちについて考えるというのは非常に困難なことなのは間違いない。まず自らの土台を徹底的に掘り崩さなくてはいけないのだから。しかし、この土台の切り崩しは貫徹しえないだろうし、非対称的な関係性は完全に消え去ることなどないだろう。それにも関わらず(というよりも、だからこそ)、「第三世界の女性たち」と対話的な関係を取り持たなければならない。「サバルタン」という言葉を岡真理は本書で一度も用いようとしない、恐らくは意図的に。それは彼女たちを「サバルタン」と名付けてしまう暴力を彼女が重々承知しているからなのだろう。あるいは、そもそも「サバルタン」と名付けることなど可能なのだろうか。「サバルタン」とはどこまでも不可視的な存在だろうし、一種の「残余」としてしか位置づけられないだろう。見えない、けれどもそこにいるはずの何かを指す言葉、それが「サバルタン」なのだろう。しかし、見えない、というときの主体は何か。それはやはり「西洋」に他ならない。つまり「サバルタン」とは西洋が、見えないものを可視化させ対象化するための用語に過ぎないのではないか。したがって「サバルタン」はどこまでいっても客体=モノでしかなく、語ることなどできない。いや、語ることができないというよりも、聞き取ってもらえないというべきだろうか。彼女たちは常に語っているのだろうから。
岡が何よりも反発するのはこうした、第三世界の女性たちを客体化していくやり方なのだろう。西洋のフェミニストたちは第三世界の女性たちについて語る。その議論の場を占めるのは西洋の人々だけであり、第三世界の人々に居場所はない。恐らく、西洋にとって、彼女たちは「議題」でしかないのだ。しかし、彼女たちはモノではない。西洋人たちのサロンに押し掛け、その植民地主義的な思考法を、空間性そのものを暴き出してみせる。そのとき、西洋の女性たちは対話を拒否し、彼女たちを前-近代的で野蛮な存在と断ずることによって再び彼女たちをモノへと押し込めようとする……。

そんな中、岡は彼女たちと対話の空間を開くことを目指している。しかし、その中で文学が占める位置とはどのようなものなのか。アラブ文学を研究することと彼女たちとの対話的空間を創出することはどのように関わるのか。この点についての掘り下げは、まだこの時点では十分になされてはいないし、ひたすら「西洋」を、そして自らを弾劾することに留まっている。そうした態度はナイーヴすぎると批判されても仕方がない点だろう。ある意味では本書は過渡的な著作なのだと思うし、『アラブ、祈りとしての文学』においてそれは体現されているのだと、僕は思う。
とはいえ、岡の真摯さに僕自身としては痛みを伴うような感銘を受けた。彼女の真摯な叙述にはやはりこちらも真摯になって耳を傾けるべきだろう。
(ちなみに「西洋」という言葉を幾度となく使ったけれど、この中には当然「日本」も含まれる。)

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