2010年3月14日日曜日

トーマス・ベルンハルト 『消去 上・下』

オーストリアの作家トーマス・ベルンハルト(1931-1989)の代表的長編小説をここに刊行。主人公フランツ‐ヨーゼフ・ムーラウが両親と兄の死を告げる電報を受け取るローマの章「電報」と、主人公が葬儀のために訪れる故郷ヴォルフスエックを描く章「遺書」からなる本書は、反復と間接話法を多用した独特の文体で、読者を圧倒する。ベケットの再来、20世紀のショーペンハウアー、文学界のグレン・グールド。挙げ句には、カフカやムジールと肩を並べる20世紀ドイツ語圏の最重要作家と評価されるベルンハルトとは、いったい誰なのか。

〈死神の鈎爪にがっしりつかまれているのが分かる。死神は私が何をしていても、片時もそばを離れない〉
ベルンハルトが本書のモットーに掲げたモンテーニュの言葉である。彼のどの作品においても死と自殺のテーマがライトモティーフのように、繰り返される。ベルンハルトの世界は死に浸潤されている。希望や愛など肯定的価値を帯びたいっさいのものが生息する可能性を奪われた作品世界は、極小にまで切り縮められている。当然、狭く息苦しい。しかし、ベルンハルトの小説が徹頭徹尾暗く重苦しいかというと、そうではない。ここにベルンハルトの文学の奇跡がある。そこにはまるで別世界からさしてくるような透明な光が満ち、妙なる音が響いているのだ。世界を呪詛し自己を否定する独白は通奏低音のように暗く強いうなりを発しつづけるが、耳を澄ますと、その上に幾層にも積み重なった倍音が響いているのが聞こえる。その響きの中に、あるべき世界のイメージが浮かび上がるのだ。

なんと言えばいいのか、うまく言葉が見つからなくてもどかしい。圧倒的な小説。
改行は上巻と下巻の間の1回だけ。あとは改行なしに一気に続きます、ひたすらに。

しかも、内容もすさまじい。家族、故郷、祖国などに対する呪詛が延々と書き付けられる。というよりもあらゆるものに彼が恨み辛みを投げ付ける。もちろん自分自身にも。自己顕示と自己否定の間でもがき苦しむ様が痛々しいまでに伝わってくる。読むしんどさを幾度となく感じ、だけれども読み続けなければならないとも思う。なかなか区切れない彼の文体に、崇高ささえ感じ、ひどく魅了されてしまう。
閉塞感、絶望、不満、憤怒……しかし、なぜだろう。読んでいて主人公が自死を選ぶのではないか、と思うことはなかった。これは本当に奇妙なことで、彼の人生はどこまでも「出口なし」に見えるのだけれど。彼が唯一希望を抱くローマでの生活さえ、息苦しさからは免れえないのに。

けれども、そうした激烈な呪詛がときに読者の笑いを誘うのも事実で、閉塞感の行き着いた先に笑いがある、というのはとても面白い発見だった。こうしたベルンハルトの屈折したユーモア精神も見落としてはいけないのではないか。

最近の(特に日本の)小説の傾向として、ポリフォニックな形式を取ることによって、ある現象の多様な側面、あるいは全体性を描こうとすることが挙げられる。しかし、ベルンハルトはここでひたすらに独白を続けることによって、社会などに対する透徹した徹底的な批判を加えることに成功している。どこまでも自己を通して世界を見ることによって、「世界像」を形作っている。それはひどく醜悪な歪んだ世界の姿なのだけれど、それは世界の一面を凄まじいエネルギーで徹底的にえぐり出している。

彼は、自身にも向けられるこうしたあらゆる呪詛を「消去」という本に結実させようとする。全てを書き付けることによって、彼は全てを消去させようとする。この本は読んでいる途上では、決して書かれえないのではないかと読む者に感じさせる。彼は小説を書かない小説家であり、論文を書かない哲学者であるのだと。
しかし、彼は遂にそれを書き上げる。それは、あるいはこの本そのものなのかもしれない。
そして、書き上げることによって、彼は彼が呪った対象全てを消し去り、彼は生き続ける。この小説のラスト数ページはとても素晴らしい。それ(あるいはこの小説そのもの)はある種の文学的奇跡とさえ思える。

読者を呑み込むほどの圧倒的な力を持つ小説。喫茶店でこの本を読み終え、顔を挙げたとき奇妙な感覚に陥った。それを無理して言葉にしようとすると、とても陳腐になってしまうし伝えられることができないと思うから、言わないけれど。
たまには本に呑み込まれるのもいいものです。

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