2010年4月2日金曜日

山森亮 『ベーシック・インカム入門』

近年におけるグローバリゼーションのなかで、約二〇〇年の歴史をもつ「ベーシック・インカム(基本所得)」の概念が
世界的に注目を集めている。
この新しい仕組みは、現代社会に何をもたらすのか。労働、ジェンダー、グローバリゼーション、所有......の問題を、あらゆる角度から捉え直す。

ベーシック・インカムの入門書。歴史、思想的位置づけ、経済学的視点、社会運動との関係など、幅広い観点から考察が行われていて、とてもよくできた本。あまりに幅広いので、ところどころ??と思うところやもっと広げて欲しいとこなんかもあるけれど、新書でここまで学べるのはありがたいことです。

昔VOLで特集してたけれど、BIって面白いですね。

ただ、個人的には(財政云々は除いて)幾つかの点で賛同しかねます。
一つは、メンバーシップの問題。この点について本書では言及はありませんが、BIをもらうのは誰か、という問題です。日本国籍所持者に限るのか、いわゆる永住者も含むのか、定住者は?留学生は?200万人以上の在留資格者もその対象になるのでしょうか、ならないのでしょうか。他方で、国外に居住する日本国籍所持者はどうなるのでしょうか。仮に日本国内に、長期滞在する全ての人々、を対象にするとしても「不法移民/不法滞在者」と名指される人々はもちろんそこから外れることになるでしょう。こうした人々がいわゆる「3K労働」などに従事させられることだって考えられるように思います。
もう一つは、国家による個人の掌握がより加速していくのではないか、という危惧です。近代国家が社会を掌握していったように、個々人が国家による統制の下に今まで以上に置かれるのではないでしょうか。家族や企業といったものを介さずに、国家と個人がより近しく結びつけられることに対する違和感/嫌悪感を感じます。
更に、本書でも廣瀬純による指摘として、BIが逆説的に社会運動を分節化し衰退させるのではないかということが挙げられていましたが、これも気になることの一つではあります。

にもかかわらず、このBIという発想は極めて魅力的なものだと思います。それはBIという視点を導入することによって、労働と賃金との関係の根源的な問い直しが可能になるからです。あくまで「理念としてのベーシック・インカム」に留まるにせよ、それ自体は高く評価されるべきだと僕は思っています。

果たして労働とは何なのでしょうか。
私たちが労働するのは、何のためなのでしょうか。賃金のため?それとも生きるため?賃金なしに労働は成立するのでしょうか、しないのでしょうか。労働は(生物学的な意味合いで)生きるための苦行に過ぎないのでしょうか。それとも単に生きるための糧を獲る活動以上の意味があるものなのでしょうか。もしそれなしに生きることができるならば、私たちはそれでも労働するのでしょうか、働かなくなるのでしょうか。あるいは、お金さえもらえればどんな労働でもいいのでしょうか。

フェミニズムやジェンダー関係の研究者や活動家がアピールしてきたことの一つに、家事労働も「労働」であり、賃金労働と同等、もしくはそれ以上の評価を与えられるべきだ、という点があるかと思います。であれば、外で働く人々(男性)が労働の対価に賃金を受け取るのに対し、家事労働に従事する人々(女性)は、その対価として何も受け取っていない、といってもいいでしょう。つまり、賃金が伴わずとも労働は成立するということになります。これは結局労働をいかに定義するか、という話ですが。

労働の対価を得ることができない彼女たちが生きるためには、男性の労働の対価である賃金に依存せざるを得ない。言い換えれば、女性たちは家事労働によって、男性から生きさせてもらう、という対価を得ることになります。しかしこれはよく考えれば奇妙な話で、更に男性はこのような生活基盤の部分的な譲渡によって賃金のみならず、再生産領域での行い全てを女性から獲得するということになります。こうした非対称性から女性たちを守るためにBIは意味を持ちます。女性たちは、BIによって個人的にお金を獲得することができるし、男性はBIが加わることによって、その増加分、労働時間を短縮させ家事労働の一部を担うことができる、かもしれない。まぁ絵に描いた餅のような話かもしれませんが。

完全に話がそれました。
現代の日本で飢餓という問題がどれほどリアルなものか、ちょっと僕には分かりません。ただ、日本における貧困とは、絶対的なものというよりも相対的なものなのではないか、と思ったりします(貧困研究についてほとんど無知なので間違っているかもしれません)。少なくとも、餓死の恐怖に怯えたことがある人は(特に若い世代には)ほとんどいないのではないでしょうか。たぶん、20世紀後半において(むろん先進国に限定された話ではありますが)初めて、人類は「飢え」というものからの恐怖から解放されたのだ、と思います(これは伊豫谷さんと昔話していたことです)。このことがもつ意味について、ぼんやり考えてはきましたが、BIによってそうした飢えからの解放がますます進んでいくことは間違いないことでしょう。飢えに対する恐怖が、人々を労働へと駆り立て、それが近代化の強力な推進力となってきた、ということは言えると思います。そしてその近代化の進展は、遂に飢えからの解放をもたらします。BIの導入はこの動きを決定づけることになるでしょう。そのとき、人々を労働に駆り立てるものとは一体何になるのでしょうか。
あるいは、この飢えに対する恐怖というのが、いつしか「より良い生を送ること」へと転換していくということは考えられるかもしれません。だけれども、これは以前ほど強力な推進力は持ちえないでしょうし、生きることがある程度担保されればそれでいい、という人もいるでしょう。いずれにせよ、現代において「労働」のもつ意味が問い返されるようになっていて、BIを巡る議論はその問い直しを根源的な形で行うことができるものなのだと思います。BIによって人間が飢えから解放されるとき、「労働」と「活動」とは同義になるようにすら思います。『人間の条件』を読み直したくなりますね。

戦後の日本社会は、社会保障やセーフティネットなど多くの部分を企業に頼ってきたように思います。いわゆる「日本型雇用形態」なるものを再評価しようとする人が結構いるようですが、それは企業に正社員として入社し、勤め上げた人にとっては望ましいところが多いのでしょう。けれど、そこから弾かれた存在に対して、このシステムは異常なほど冷淡なものであることは間違いありません。プレカリアスな状況に置かれた人々がこれだけいる(そして今後もよりいっそう増大していくであろう)なかで、企業を介したシステムはもはや意味をもたないのではないでしょうか。だからこそ、日本においてもBIが必要とされているのだと思います。それはすごくよくわかるのですが…。

そういえば、著者の山森さんはもともとアマルティア・センの研究をされていたようですね。アマルティア・センの研究と本書のようなベーシック・インカムの議論がどのように結びつくのか。ちょっと興味があります。

読みながら考えていたことがいくつもあったのですが、抜けてしまいました。思い出したら追加します。

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