十九歳になったジョン・グレイディ・コールは国境近くの牧場で働いていた。メキシコ人の幼い娼婦と激しい恋に落ちた彼は、愛馬や租父の遺品を売り払ってでも彼女と結婚しようと固く心に決めた。同僚のビリーは当初、ジョン・グレイディの計画に反対だった。だがやがて、その直情に負け、娼婦の身請けに力を貸す約束をする。運命の恋に突き進む若者の鮮烈な青春を、失われゆく西部を舞台に謳い上げる、国境三部作の完結篇。
『すべての美しい馬』『越境』を読んでからだいぶ間が空いてしまった。
どれが一番好きかって聞かれたらやっぱり『越境』って答えるだろうけれど、この三部作を読み終えた人なら、そんなことを尋ねたりなんかしないだろう。なんで、彼がこの後、『血と暴力の国』を書いたのか、それが今ならよく分かる。あるいは、彼は同じことを様々な形(場所、時間)で書き続けているのかもしれない。
前二作のような、メキシコへの冒険、彷徨がない分、自然や動物たちの描写は抑制されており、人間同士の語らいが前景化している。それが一面では魅力を減じさせていることは否定できないが、その分彼特有の会話のスタイル、あるいはこういってよければ、絢爛さを取り払ったドライかつ簡潔な語らいが活かされており、リズミカルな雰囲気さえ生んでいるように思う。自然や動物たちの描写が抑制されているとはいっても、その描き方の挿入は実に絶妙で、やはり圧倒的な存在感を放っている。
解説で豊崎が言うように、恋愛譚だけに注目するならば、それはソープオペラ的で「陳腐」ですらあるのだけれども、読んでいる最中にそんなことを感じることはないだろう。本書の、あるいはこの三部作がもつ思弁的な性格や、描写の美しさ、更には失われゆく世界への哀惜がそうさせるのかもしれない。
オオカミもコヨーテも、そして山犬さえも消えていく世界。消えていくのは動物たちだけではなく、牧場も、そしてカウボーイも消えていく運命にある。牧場が軍に接収されることはまさに象徴的な位置を占めている。辺境としての境界は消え去っていく。ビリーもジョン・グレイディ・コールも、その後に来る世界においては必要とされない存在だったろう。国境に縛られず、自在に彷徨する「無法者」にはそんな世界には居場所がなかったのかもしれない。ジョンはそんな世界に定住し、そこで生きる決意をしていたのだけれども、その願いは果たされることはなかった。ビリーは彷徨を続けた後、ニューメキシコでようやく、居場所を見つけることになるのだけれど。
この作品の基底には失われゆく世界に対する哀惜がある、といった。これは私見なのだけれど、「哀惜」は「ノスタルジー」ではない。「ノスタルジー」はある意味では、過去を存在したことのない理想的な世界へと形象化させることであり、その幻想の世界に住まうことである。しかし、「哀惜」というのは弔いに近しいものだと思う。弔いがしばしば象徴的な殺害を意味するように、「哀惜」というのは死んでしまった世界を悼み、悼むことによってその空虚を引き受ける行為なのではないだろうか。
読んでいるうちに、エピローグの長さに驚くことになるかもしれない。あるいはいっきに半世紀もの時間をすっ飛ばすことにびっくりさせられるかもしれない。この半世紀、本当に沢山のことがアメリカでは起こっていたはずである。だけれども、マッカーシーはそれに触れようとしない。それはビリーにとってこうした出来事が何の意味を持ちえなかったことの証とも捉えられるだろうし、ともすれば、色々なことがあったはずのこの半世紀に実は何の変わっていなかった、でも言いたいかのようにすら思える。
しかし、このエピローグの最も印象的な部分は、ハイウェイの袂での、ビリーと男との語らいだろう。やや冗長とも思えるこのやり取りは、『越境』に幾度となく登場する老人の語らいを思い起こさせるとても魅力的な部分である。この部分で、マッカーシーは小説を書くということをこの二人に語らせようとしているように思える。三部作を読んだ後、この部分を読み返すのはとても感動的な経験だった。
この作品のもう一つの基底である、キリスト教について、特にソドムの市や、マグダレーナ(否応なくマグダラのマリアを連想させる)や、癲癇などについて、気にはなるけれど、考えが至らないので何も書かないことにする。
越境三部作は本当に素晴らしい。ぜひぜひ。
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