2010年6月7日月曜日

白石嘉治 『不純なる教養』

資本主義の終わりを、われわれはどのように生きればいいのか?時間と場所を倒錯させ、無数の新たな夢をつむぐための「不純なる教養」。

とても魅惑的かつ挑発的な論集。『超訳なんちゃら』を読んでいる暇とお金があったらこっちを読みましょう。
とりわけ数百万もの借金を背負って大学院を出た僕にとって、とても刺激的な1冊だった。奨学金という名の下に行われる悪質な学生ローン。運良く僕は無利子だったけれど、大多数は利息付きの借金を背負わされることになる。貸与の奨学金なんて語義矛盾もいいとこだろう。将来の自分から借金しているだけで、学生支援機構なる団体は、そんな生活に困窮する学生たちに取り憑いて、利益を吸い上げる寄生虫に過ぎない。寄生虫の割りには偉そうな連中で、自分がいいことをしている、と本気で信じているかのようだ。寄生虫なら寄生虫らしくすればいいのに。ついでにいえば、彼らの奨学金には有利子の第2種と、無利子の第1種がある。貸与人数を見ると平成21年度には、有利子が80万人、無利子が34万人となっている(文科省のHP)。学生のための奨学金なのにそもそも利息をふんだくる神経も信じ難いけれど、もっと深刻なのは誰が有利子で誰が無利子か、という点だ。無利子と有利子であれば、基本的には(有利子の方が高い金額を借りることができるものの)無利子を選ぶのが当然だけれど、3分の2は有利子での貸与を余儀なくされている。有利子については年収制限さえ合えばほぼ受給できるけれど、無利子については学力条件などが厳しい。しかし、この学力条件とは一体何を意味しているのだろう? 僕のいた大学では無利子の奨学金をもらっている人ばかりで有利子の奨学金をあえて受給している人を見たことがなかった。(あえてこう言うのだけれど)「いい大学」→「いい企業」という図式が確固として存在している現状からすれば、将来大企業などで安定的な雇用に就き高い所得を得ることが予測される学生には無利子の奨学金を貸与し、そうではない(つまり、安定的な取り立てが望めないであろう)学生には有利子の奨学金を貸与する、という形になっている。つまり後者の学生の方が、明らかに重い負債を背負わされることになる上に、その返済も前者の学生にも増して困難になることが容易に見て取れる。それに追い打ちをかけるのが、返済滞納者の「ブラックリスト化」だろう。安定的な職にありつけないならば、奨学金など返せる訳がない。そんな人々にもっと懸命に働いてカネを生み出せ、じゃないとお前はクレジットカードも使えないし、家にも住めないぞ、と彼らはいう。彼らは、奨学金を滞納することは、「人間」として生きるにあるまじき行為であって、「負け犬」で「敗残者」である、という烙印を捺そうとしている。このことは学生支援機構が、学生を「支援する」わけでもなんでもなく、学生の不安定さに取り憑くたちの悪い借金取り以外のなにものでもないことを証している。
出発点に戻ろう。なぜ奨学金が借金なのか。しかもなぜその3分の2が利子付きなのか。この制度は誰のために、何のためにあるのか。
もちろん白石氏のいうように、給付型というのが奨学金のあるべき姿であることは間違いない。それがもし本当に困難であるならば(必ずしも困難とは思われないが)、有利子を廃し、ブラックリスト化を撤廃し、無利子の奨学金に一元化することは給付型に至るステップとして考慮されるべきだろう。学生ローンではなく、学生支援機構という名を冠しているのであれば、他の民間ローンとは一線を画したその名に恥じない機構のあり方があるのではないだろうか。
……とはいえこれはやや現実主義的な考えかもしれない。学生、ことに大学院生にとって、研究は「仕事」であるし、労働活動でもある。ちょうど家事労働と同じように、大学院生の研究活動もまた労働なのだ。しかし、この研究活動を行うにあたって、(一部のエリート学生を除き)彼らに対しては一切の賃金が支払われないどころか、大学に何十万(もしくはそれ以上の)学費を毎年納めなければならない。一部を除き、とは学振の特別研究生に選ばれれば、月々生活するに足る給与と研究費が支払われるからである。このことが示唆しているのは大学院生の研究活動は本来それだけの賃金を得るに値する労働だ、ということではないだろうか。だから、大学院生に賃金を!と叫ぶ声を、僕としては簡単に笑い流すことはできない。そして卒業した彼らの多くが非常勤講師という云ってしまえば「パート」労働という不安定な状況におかれていたり、予備校や高専などで生計を立てていくしかないことを考えたときに、もはや一体誰が学者なぞになりたがるだろうか、などと思ったりもする。だからこそ、彼らの研究にかける情熱には、本当に敬意を表したいと思う。

もちろんこの本は奨学金の話ばかりしているわけではない。というか、結局のところ奨学金の話の根底にあるものは、ネオリベ批判と大学とは何か、という2つの問題なのだろう。前者に関していえば、「私たちは経済学者に指図されるために生まれてきたのではない」(192ページ)という一言に集約されるだろう。後者の大学論は、(これは地下大学での西山さん×平井さん×白石さんの鼎談を聞いていても思ったことだけど)抜群に面白い。大学の起源にまで掘り下げながら、大学はどこにあるのか、知識人とは何かを饒舌に語っている。そう、「知識人」とは何かということについて、これまでの自分の認識を転換して改めて考えてみたい、と思った。僕はこの言葉をあまりに啓蒙主義的に捉えすぎていたかもしれない。

笙野頼子論は措いておいて、ベーシックインカムの議論と『来るべき蜂起』についての紹介についても少し。
ドゥルーズ=ガタリはベーシックインカムを擁護するだろうか?という一風変わった問いを提出しながら、彼はベーシックインカムを積極的に肯定する。BIが導入されれば、上記のような奨学金を巡る問題も、ひとまず片がつくわけだ。
しかし、ここで白石氏はBIの導入が労働意欲の減退をもたらすことはない、と断言する。こんなに簡単に断言できるかどうか、僕には少し自信がない。主婦の家事労働や院生の研究活動のように、人々はお金が支払われる/れないの問題に関わらず労働をする、確かにそうかもしれない。けれど、例えば工場でひたすらお弁当を作るような労働に、あるいは清掃に、それでもみながみな従事するのだろうか。これはそこで働いている人への軽蔑でもなんでもなくて、純粋な問いである。結局、誰かが弁当を作らなくてはいけないし、誰かが清掃をしなくてはいけない。それを誰が埋め合わせるのか?労働に貴賤はない、それが白石氏のBIへのあるいは人間の労働への前提にあるようだけれども、本当にそうなのか?(繰り返すけれど、これは修辞的な問いではなく、純粋な問いです。) そういえば現代思想のBI特集にも寄稿してたなぁ。そもそも現代思想がこれまでBIの特集をしていなかったことに驚いたけど。
『来るべき蜂起』は買いました。早く読みたいところですが、読書の予定が詰まっていてなかなか読めそうにありません。なので保留。しかし、やたらにみんなこの本のことに言及するのね。

あと、そう、ヴィルノの「環境」と「世界」の違いについての話とか、スティグレールの話とか結構面白かった。ヴィルノって読んだことなかったかも。スティグレールは『現勢化』がとっても面白かったので気になる思想家の一人です。
とまぁこんな風に読者をいい感じに挑発してくれます。あぁあれも読みたい、これも読みたい、と。面白い。

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