2010年7月6日火曜日

フラ・トマーゾ・カンパネッラ 『太陽の都』

スペイン支配下の南イタリア独立を企て挫折した自らの改革運動の理想化の試みとして,カンパネッラ(一五六八―一六三九)が獄中で執筆したユートピア論.教育改革をはじめ,学問,宗教,政治,社会,技術,農工業,性生活等人間の営為のすべてにわたる革新の基本的素描が対話の形で展開される.ルネサンス最後の巨人の思想を集約した作品.

この間、ふと「カポディモンテ美術館展—ルネサンスからバロックまで」という企画展を見てきた。その話をここでしようとは思わないのだけど、そのときたまたま読んでいたのがこの『太陽の都』で、なんとも小さな偶然に少し嬉しくなってしまった。というのもこの展示品が書かれたちょうど同時期に、この本は書かれたのだから。一方は、ナポリで学びカラブリアに共和国を樹立しようと蜂起を試みた廉で投獄され、ナポリの獄中で『太陽の都』を著す。他方で、画家たちは教皇を輩出するほどにまで繁栄を遂げたファルネージ家をパトロンとして絵画を描き続けた。期せずして17世紀前後のナポリのもつ、出会うはずのない二つの様相に同時に触れることができた。この二つを重ね合わせ、うまく話を展開することができればそれはとっても面白い話になるだろう。僕にそんな器用なことはできないけれど、もし重ね合わさる部分があるとすれば、それは「キリスト教」であり「カトリック」であり「対抗宗教改革」だと思う。
そういえば、展示されていた作品を見ていてふと「みんな上を見ている」ということに気付いた。それは描かれている人物もそうだし、その絵を見ている人も、なぜか上の方を見上げている。幾つかの絵画には正面の上端に「光」が描かれている。ひょっとしたら、彼らはそれを見ていたのかもしれない。何が言いたいかというと、ここで展示されていた宗教画は「幻視」に関わるものが多かったのではないか、ということ。ストイキツァの『幻視絵画の詩学』を読んで以来、絵画における幻視というものが気になっていて—無論、ストイキツァのあの本はもう少し後のスペインが中心だったけれど—そうした超越的なものを媒介する、そして「現実」を侵犯する幻視絵画がこの時代の南イタリアの絵画群にも見られることはとても興味深かった。そして、ここから飛躍すれば、超越的なものの姿を垣間見させ、人々の日常実践を変革させていく機能を果たす幻視絵画と、カンパネッラが記したようなユートピア論はどこか似ている。つまりカンパネッラもまた獄中でオリエントの理想的な共同体「太陽の都」を幻視し、著述している、という意味において。

訳者も解説で述べているように、ユートピアは単なる夢想ではない。それは現実に存在しているわけではないが、一種の可能性として存在している。それを「来るべきもの」といってしまうのにも少しためらいがある。それはやってくるもの、というよりもこちらから向っていくものだから。それは遂行的であるし、実践と深く結びついている。だからユートピアとは夢想よりも「希望」に近い。あるいはユートピアを論じることは一種の「希望という方法」(宮崎広和)なのかもしれない。


話が完全にそれてしまった。肝心の『太陽の都』の話をしていない。この本はジェノヴァの商人と騎士との対話という形をとっている。ジェノヴァの商人がオリエントにある「太陽の都」の様子を事細かに説明していく。都市の形・大きさから、教育・宗教・政治・科学技術・社会制度まで仔細に紹介し、騎士が時折同意や感嘆の声を上げ、あるいは疑問を差し挟んだりする。文章としても平易なので概ね読みやすく、また面白い内容になっているように思う。ところどころ矛盾もあるし、「俺はこんなとこには住みたかないなぁ」と正直思ったけれど、カンパネッラにとって、これが本当に理想とする社会なのかはよく分からない(きっと誰にも分からないだろう)。ただ、この対極に当時のカラブリアがあったのだろう、ということはよくわかる。また、天文学、技術から政治にいたる全面的な描写も、いかにもルネサンス的な関心の広さを物語っているようでとても面白い。また、解説で訳者が触れているように、カンパネッラの思想と神秘主義との関わりも、気になるところ。そう、解説が面白いんですね。というかカンパネッラの生涯の紹介が。
読んでどうなることもないけれど、何となく面白いので気が向いたらいかがでしょうか。

0 件のコメント: