父の死を契機にセビーリャへと赴いた少女が出会ったものは……。内戦後の喪失と不安感を背景に、大人へと歩み始めた多感な少女の眼を通して浮かび上がる、家族の秘められた過去。映画『エル・スール』制作当時、エリセの伴侶として彼に霊感を与えたアデライダ・ガルシア=モラレスによる、時代を超えた成長小説。
まさか、あの映画の続きが読めるとは思わなかった。映画『エル・スール』。制作の都合か何かで重要なエストレーリャがセビーリャに赴く前に終わってしまった映画。北と南、共和派と独立派、この両者の交感がエリセの作品において1つのテーマになっていると考えるならば、彼女が南に赴かなければこの映画は真に完成などしないのだろう。この小説にはその後、が描かれている。勿論、小説と映画では隔たりもある。名前も違うし、映画に纏わるシーンも登場しない。何より父と娘の最後の語らいの場所も異なっている。この2人の作家は『エル・スール』をそれぞれ異なるやり方で描き出しながら、最終的には同じテーマを扱っているように思える。「家族」、「父親」、「少女の成長」、そして「緩慢な死」とでもいうべきものを。
「緩慢な死」。「あなた」は途中で自死を選ぶ。けれども彼はある意味では既に死んでいる。そして彼の家も。彼や彼の家は、まさしく「ゾンビー」(身体的な死と象徴的な死の不一致)の領域に位置しているように見える。それではいつから彼らは死に始めたのか。祖母の死でセビージャに行ってからだろうか。それとも予め彼らは死んでいたのだろうか。エリセならばその起源をスペイン内戦に求めるだろう。ガルシア=モラレスにおいても恐らくは。「緩慢な死」。これはフリオ・リャマサーレスの作品においても重要な位置を占めている。そしてこの「緩慢な死」と「スペイン内戦」との結びつきは『黄色い雨』と『狼たちの月』で取り上げられてきた。『狼たちの月』の解題で木村榮一が述べているように、内戦時には同じ村内部で、更には同じ家内部での血腥い抗争、殺し合いが行われていた。そうした外傷、治癒することが不可能なほど深くまで刻まれた傷、それはエリセやリャマサーレスの一連の作品において、それらを包み込んでいる寂寥感、不安感、そして喪失感としてどうしようもなく立ち顕れてしまう。けれども、それは美しさを伴っている。なぜこうした傷を根に持つはずの雰囲気がこんなに美しいのか。
朽ち果てた庭の噴水を前にして、父は娘に問う、「どうして噴水池に水はないのか」と。娘は答える、みんなが忘れてしまったからだと。そうだ、と父は言う、そして「あんなに見事だったのにみんな枯れ果ててしまった」と続ける。この親子の語らいには全てが凝縮されている。みんな、枯れ果ててしまったのだ。
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