ソ連軍の進攻を背景に、村と家族を奪われた父の苦悩をとおして、破壊と混乱のなかに崩れゆくアフガン社会を浮き彫りにする、映像感覚あふれる現代小説。 カーブル生まれの小説家・映像作家、ラヒーミーの第一作である本書は、アフガン社会の生の内面とイスラームの倫理を描き出して、大きな話題を呼んだ。20 か国で翻訳。
こういった括りが意味があるかはよく分かりませんが、アフガニスタン文学です。イスラーム圏の現代文学については世界的に有名な作家(ヨーロッパで評価される作家)以外はあまり紹介されていないのが現状で、とりわけ日本ではどうしてもマイナーかつマニアックなものとして受け取られがちですが、すばらしい作品がいっぱいあるな、と。岡真理の『アラブ、祈りとしての文学』を読んで以来、関心を持って触れています。カナファーニーのAll That's Left to You(邦題はわかりません)やバラカートの『六日間』も積読中なのですが。
まぁそんな中で読んだ『灰と土』。著者のラヒーミーはアフガニスタン、カブール生まれ。例によってフランスに移住し向こうの大学を出た後、映像作家などとして活躍をしているとのことで、本小説は彼にとって初めての小説ということになるそうです。
長さとしては中篇、といったほど。村を破壊され、家族を失った「きみ」が、砲撃で耳の聴こえなくなった孫を連れて息子の働いている炭鉱へ、家族の死を伝えに行く物語です。こういうとロード・ノヴェルみたく聞こえるけれども、そうではなくほとんど彼らは地理的に移動することはなく、専ら番小屋とカディールという人物のお店の間が舞台となります。物語はそういった実際の移動よりも、「きみ」の思索と幻想と回想が綯い交ぜになった夢想のようなものが中心になっています。彼の連れである孫と対話ができないこと、番人も自分の中に閉じこもっていて会話ができないこと、それゆえに彼もまた自分の世界に籠もってしまう。いや、そうではないのかもしれません。戦争を経験し続け、家族を失った人々はみな、自分の世界に引きこもってしまうのかもしれません。その世界には失ったはずの家族が生きており、以前の生活が残されているわけですから。全ての人々が殻に閉じこもる、そのときヤースィーンがいうように「誰もなにも話しかけてくれない」世界になってしまうのでしょう。それでも、可能ならば人々は殻から出て、誰かと話したいと思う。けれども話すことによって現実と直面しなくてはいけなくなる。ダスタギールが村で起ったことを説明するとき、彼は涙を流さずにはいられない。恥辱よりも名誉の穢れよりもまず、彼には絶望や悲しみに覆い尽くされてしまっている。
息子に彼は村で起ったことを伝えたい、と思う。けれどもそれは息子に恥辱を与え、息子を復讐へと向かわせるものでしかないことも分かっている。彼が息子に会いに行こうとするのは、彼にその出来事を伝え復讐へと駆り立てるためではなく、自分と対話をしてくれる誰かを求めていたからだったのだろう。
ムスリムにとっての名誉の重要性や恥辱の苦痛は、私が感じるであろうものとは違う。ある場合には当惑すら感じることがあることも正直に告白しよう。今岩波ホールで上映中の『シリアの花嫁』においても、アミンと姉の諍いにはこの名誉や恥辱といった問題が介在していて、アミンの態度には当惑を覚えたことも事実だ。けれども、恐らくこれはどうしようもない問題なのだ。考え方や価値観の違いはどこにでもあるもので、それを「西洋人は~」とか「ムスリムは~」と一般化することほど愚かなことはない。西洋人にも、価値観や考え方の違いは無数に存在していて、ムスリムでも日本人でもそれは同じだろう。差異を否定することは単一で正統な価値観や考え方の存在を暗黙の前提とする。そうではなくてすべきことは差異を肯定すること、絶対的に肯定することによってカテゴリー化自体の無意味さを露呈させることではないだろうか(ついでに言えば承認という言葉にはどこか権力関係が埋め込まれていて、僕はあまり好まない)。
完全に話しはずれましたが、アフガニスタン=タリバーン、イスラーム原理主義という連想が蔓延るなかで、こうした現代文学を読むことってとても重要なのかなと思ったりしました。
ちなみに今月中旬から、岩波ホールではマフマルバフ娘による初の長編映画が公開されるみたいですね。舞台はアフガニスタン。どんな感じなんでしょうか。
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