2004年のカリフォルニア、豊かな家庭で甘やかされながら育つソル。1982年、レバノン戦争ただ中のハイファに移り住み、アラブ人の美少女との初恋に苦悩するランダル。1962年のトロントで祖父母に育てられ、自由奔放で輝くばかりの魅力に溢れる母に憧れる多感なせいディ。1944~45年ナチス統制下のミュンヘンで、歌を愛し、実の兄亡きあと一家に引き取られた“新しい兄”と運命の出会いを果たすクリスティーナ―。世代ごとに、六歳の少年少女の曇りない眼を通して語られる、ある一族の六十年。血の絆をたどり、絡まりあう過去をときほぐしたとき明かされた真実は… 魂を揺さぶってやまない傑作長編。
昔はみんな子どもだった。当たり前だけど忘れてしまいがちなこと。お父さんもお母さんも、お祖母ちゃんも、曾祖母ちゃんも。みんな6歳だった。6歳というのは面白い歳だと思う。世の中のことを知らず、けどそれを知ろうと必死になる時期。自分の日々の生活が1つの完結された世界全てであり、自分がその中心にいると思ってしまう時期。親の言葉を絶対的なものとして受け止めつつも、どこかでそれを疑問視しはじめる時期。全ての人により愛されようとしてもがき苦しむ時期。何かを失い、違う何かを見つける時期。6歳は一つの世界の終わりであり、もう一つの世界の始まりなのだろう。そんな彼らから見る世界は、どこか歪で、当惑をもたらす、けれどもとても魅力的なそんな世界なのだ、いつの時代にも。
トドロフ夫人は、そんな6歳からみた世界の語りを4層に重ね合わせることによって、一つの歴史(Hi-story)を描き出した。そしてそれを「メメント」ばりに転倒させてみせた。それは単にこの小説をミステリー仕立てにしたかったためではない。人々の人生にはその「核」となるような出来事がどこかに存在していて、それはその人の人生観、生き方、生きる糧などの諸々を、延いては彼/彼女の人生そのものに深く関与していく。そしてその「核」は独立して生じるものというよりも、ある特定の歴史的/地理的/社会的状況―家族もまた一つの「社会」である、とりわけ子どもにとっては―などと関わりあっている。本小説の少年/少女たちはこの「核」となるような経験を6歳のころに経験する。ある「核」が上記のようなものと関わりあうということは、そうした「核」となる経験は家庭の中で世代を通して関わりあい続ける事を意味する。ランダルの経験は、セイディのそれと、セイディのそれはエラのそれとも関わっている。そうした関わりあう経験の根底にはエラにおける「核」―「リューク」との出会い―があり、そこに到達する形で物語を進めていくならば、考えうる内で最良の手段をヒューストンは取ったといえる。
この小説を読み進めるうちに、いくつもの謎が頭を掠める―彼女たちはなぜ人形を奪い合っていたのか、ヤネクとは誰か、なぜエラという名前を選んだのか、セイディが研究に固執するのはなぜか、などなど―そうした謎は最終的には全て解消される。これは非常に丁寧に練り上げられた小説なのだろう。読み終えた後に頁をパラパラと読み返してみると、なるほどこういうことだったのね、と感心することになる。
ナンシー・ヒューストンは本作のほかにもナチスやユダヤ人を巡っていくつか小説を執筆しているようです。いつか読んでみようかと。個人的には彼女がトドロフの夫人だったことに驚きました。どちらもバルトの門下生だったんですね。本作の越境性を考えてみると、なるほど確かに、と思ったりもしました。
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