2009年4月30日木曜日

イタロ・カルヴィーノ 『見えない都市』

現代イタリア文学を代表し、今も世界的に注目され続けるカルヴィーノの名作。ヴェネツィア生まれの商人の息子マルコ・ポーロがフビライ汗の寵臣となって、さまざまな空想都市の奇妙で不思議な報告を行なう。七十の丸屋根が輝くおとぎ話の世界そのままの都や、オアシスの都市、現代の巨大都市を思わせる連続都市、無形都市など、どこにもない国を描く幻想小説。

マルコ・ポーロとフビライ汗の間で交わされる、都市を巡る55の物語。マルコの寓話的かつ幻想的な語らいに、時に没入し時に突き放される。そんな経験を繰り返しながら気づいたら読み終えていました。確かに奇妙な小説です。その幾何学的な構成にしても、登場する都市にしても。アルミニウムの屋根や蒸気船や、挙句の果てには空港まで登場するわけですから。「都市」なるものが何なのか、私たちの多くが住まうこの都市とは何なのか。グローバル・シティの画一性について思いを馳せているわけではありませんが、そんなことを思ったりしました。
この小説の面白さ、それは都市を語りながら、現実/幻想、生/死、存在/不在、記憶/忘却などの図式を解体していく語りそのものにあるのではないでしょうか。マルコがある都市を旅行し、それを報告をフビライに報告するというスタイルは、報告が進んでいくに連れて解体していきます。つまり、報告そのものによってその様態が掘り崩されている、けれども表面的には最後までそうしたスタイルで物語が進み続ける。これは一体何なんだろう、と。マルコが述べているのは、彼の幻想の中で練り上げられた都市の報告です。あるいはその幻想のなかには彼だけでなくフビライもともにあるのかもしれませんが。彼は現実に旅行し、現実の都市を報告しているわけではない。自明なことですがこれがこの小説の前提です。いうなれば彼は「幻想」を旅行し、それを報告している。あるいはヴェネツィアについて言及する箇所で触れられるように、その「幻想」は自律したものではなくて、彼自身の記憶にも根ざしている。更に言えば、フビライのアトラスには今日の都市の様子すら描かれているように、あるいはマルコの語らいで飛行機などが登場するようにそれは未来をも含んでいる。不思議としかいいようのない話ですが。そうした全てをひっくるめた「幻想」をマルコは旅し、それを報告するわけです。しかし、55の都市を幻想のなかから引っ張り出してくるのは簡単な作業ではない。読み進めていくにつれて、マルコは55の都市の有様を語っているようで、実は「1つの都市」を様々な観点から観察し、そのディテールを誇張して報告しているのではないか、とか思ったりもしました。そうした「1つの都市」(大文字の都市といってもいいですが)に含まれる多様な側面、特異点、そこにズームアップし誇張することで都市を想像する。あるいは都市そのものが「生き物」のように変化し続けることを考えればその進化の可能性の「種」を見出し、それを発芽させることで物語る。そういうこととしても理解できるのかな、と。深読みか誤読か、恐らく後者でしょうけど。

しかし、まぁ面白いですよね。読んでいて思わず線を引きたくなるような一文があったりして。こういう本ってずっと手元に置いていたいなぁと思います。


2009年4月29日水曜日

平井玄 『千のムジカ』

ドゥルーズとオーネット・コールマンのリトルネロ、サイード/バレンボイムの企て、ジョン・ゾーンの棘、マイルス・デイヴィスとガーヴェイ主義、パレスチナのクレズマー、セックス・ピストルズの空虚、そしてコザ暴動に響く島唄とロック・・・・・・。剥き出しになった資本主義の軋轢を、街頭に飛び散る抗争の唸りとして聴きとるために。大きく転回した時代に立ち向かう新たな音楽/思想の可能性。

音楽論と思想・哲学の交叉点に関心があったので、かなり面白く読みました。あちこちに掲載した連載や論文を加筆修正してまとめただけあって、かならずしも首尾一貫しているわけではないですが。
音楽自体にさほど精通しているわけではない僕にとってはいい取っ掛かりになったような気がします、最近はベント・エゲルプラダのようなヨーロピアン・ジャズばっかを聴いていた僕にとっては、ジャズというものにもっと向き合ってみようと思わせるのに十分でした。1章で提示される、ウェーバー-アドルノ-サイードとシャトレ-ドゥルーズ-ガタリという2つの音楽を巡る思想家の系譜は、面白いなぁと。いや当たり前っちゃ当たり前なのですが。こういう系譜を想定したときに一番アンビバレントな存在はやはりサイードですよね。少なくとも音楽においては明らかに彼は「西洋」的な人間でしょう。彼のことだから恐らくそんなことは千も承知なのでしょうけれど。音楽については彼は「西洋」の普遍性を信じていたのでしょうか。ある部分ではそうなのかもしれない。けれども、例えば、彼がウェスト・イースタン・ディヴァンのワークショップを開いたとき、ウェスト・ブロンクスの音楽家にコーランの英訳を提供しようとしたとき、そしてドゥルーズの思考に賛意を示したとき、彼はもはやその系譜には留まらない存在であった、そう平井は理解しているように思います。「西洋音楽」が非‐西洋にも開かれたものであること、それは「西洋音楽」の普遍性として捉えるべきではない。むしろ開かれているがゆえにその内部において攪乱され、その多義性―あるいは「普遍」とされるものの内部に孕まれている多数の特異点―を呈することになる。そこから無限の広がりを見せるのだ、そう考えるべきなのだと思います。
ギルロイの『ブラック・アトランティック』においても、本論においてもこうした越境的な音楽の交流というのが重要なポイントとなっています。人が移動するときに音楽は常にともに移動する。録音機器やラジオなどのテクノロジーの発展によって人が移動しなくても、音楽はまさに越境的な広がりを見せていく。思いもよらぬ場所で、思いもよらぬ音楽が登場する。その背景にはそうした越境的な音楽からの影響がある。リゾーム?イメージとしてはそれに近いものを感じる。そうした音楽に対して、「近代(資本主義や合理主義をひっくるめた曖昧な表現として)」はそれを掌握しようとする。パターン化し、類型化し、大量生産し流通経路に乗せ、マーケティング・広告を通じてショー化し、最後にゴミ箱かブックオフへ。しかし音楽はそれに抗い続ける。なぜなら、「近代」が音楽を掌握しようとするとき何かがそこから抜け落ちるから。そしてその「何か」こそ音楽の本質をなしているから。その何かを、「近代」は一番掴みたいのだがそれをすることはできない。掌握された音楽はいわば残余であってどこか「死んでいる」、そういったら言い過ぎだろうか。

じゃあ、と誰かは言うだろう。「生きた」音楽にはどこで出会うことができるんだ?と。資本主義から自律した空間で音楽と出会う?そんな夢みたいなこと本気で言っているの、と。確かにその通りだろう。平井もあとがきで述べている通り、私たちはみな資本主義の奴隷なのだ。そこに構成的外部など見出すべきじゃない。
とりあえずヒットチャートをにぎわす音楽のことは脇に置いておこう。それらの多くはからっぽだから。「近代」によって摘み取られ搾り取られた残滓のようなものだから。けれどもこの世にあるのはそんな音楽ばかりじゃない。それだけで十分じゃないか、と僕なんかは思ってしまいます。
音楽から歴史を、世界を眺めると、それらがこうも異なる様相を見せるのか、と。面白いですね。

ちなみに参考文献・ディスクには気になる本やディスクが幾つも載っていて、個人的にはいいリストだなぁと思いました。


2009年4月26日日曜日

古川日出男 『ルート350』

知的早熟児たちが集った夏期講習キャンプに現れた「狙撃手」。僕たちは次なるスナイプの現場を押さえるべく監視を始めた―「メロウ」など、現実とレプリカのあわいに立ち上がる圧倒的なストーリー世界が心を捉えて離さない。あらゆるジャンルを超えて疾走する作家が綴った唯一の「ストレートな」短編集。

さてフルカワです。彼の文体は結構好きです。解説で仲俣がフルカワの小説においては、dance, write, fightが特権的な地位を占めているとかいってましたが。間違ってはいないと思う。けどそれは本質じゃないだろう。それじゃあ本質はどこにある?danceとwriteとfightに通底するもの、それはリズムだ。フルカワの作品において決定的に大事なもの、それはリズムだろう。
彼の作品にはリズムがある。文体上の反復や短い一文にも、あるいは登場人物にも、起こる(あるいは起こらない)出来事にもそれはある。時としてそれは音楽に近い(本短編集でも音楽についての記述は随所に見られる。)たとえば、リバティーンズ。彼の作品は彼らの音楽に似ている。カールとピートの競い合い絡み合うようなヴォーカル。破綻寸前のところで絶妙なバランスを生み出す所。何より切り裂くようなリフ。そう、それはリズムというよりもリフに近い。これを持っている作家はそう多くないんじゃないだろうか。
それに付け加えるならば、「(恋愛に限定されない)愛/近接性(距離の近さ)」と「現実/レプリカ」といったところですかね。
「現実」に対して虚構でも幻想でも観念でもなくレプリカを対概念としてもって来るあたりが彼らしいのかな。レプリカ、すなわちオリジナルに対する模造、コピー。それではオリジナルとはなんだろう?増殖するレプリカの中で「現実なるもの」が次第に消尽していく。そんな中で「現実」はオリジナルはどこにある?「お前のことは忘れていないよバッハ」では「保護区(それは文字通りバカみたいな出来事から彼女たち自身の「現実」を守るためのものだ)」とバッハを介した3人の少女の友情が、「カノン」では男の子と女の子との愛が、「飲み物はいるかい」では僕とナカムラの語らいがそれにあたる。だから彼は「愛/近接性」のすばらしさを高らかに歌い上げるのだろう。誰かが言っていた(あるいはブログか何かに書いてあったのか?)、「旅は距離を縮めるためのものだ」と。誰かとの距離、「現実世界」との距離、それを縮めるために私たちは旅をするのだと。「ルート350」はまさにそのことをそのまま描いた短編だ。
これ以上この短編集について僕が言えることはない。こいつはホンモノだ、『聖家族』を読んだときにそう感じたけれども、やっぱりそれは間違ってなかった。


小森陽一・市野川容孝編 『思考のフロンティア 壊れゆく世界と時代の課題』

世界が大きく揺れ動き,時代は未曾有の転換点を迎えている──こうした言葉がレトリックではなく,実感として私たちに迫りくる現在,思考の向かうべき課題 とはなにか.姜尚中,高橋哲哉,杉田敦をはじめとする「思考のフロンティア」の編集協力者たちが再結集し,危機的状況からの突破口をさぐる.五つのテーマ をめぐって展開される白熱の討論.

きっと辛口の研究者や批評家ならば、予定調和のぬるい対談と切って捨てることでしょう、僕にはそこまでする勇気も知性もありませんが。もちろん読んでいて「やれやれ」と思ったことは幾度となくありました。1章の姜尚中の語らいには辟易しましたし、読むのをやめようかとすら思いました。けれども、それ以降の3章、4章はわりかし面白かったです。5章もそれなりに。

もう少し具体的な話に入ることにしましょう。
まず、「1章 アジア/日本を貫く<近代>批判のために」について。全く面白くなかったです。新しい話がひたすら出ず、どっかで聴いたことがあるような話を延々と繰り返しているだけ。これだけ大層な肩書きをもった学者さんたちが集まって、こんなお話しか出来ないのだから、確かに問題は深刻ですね。しかし、日本と「アジア」を考えるときに、アメリカについてここまで言及のない議論も珍しい。酒井直樹の「日本/映像/アメリカ」、「希望の憲法」などの研究と比較するとあまりに議論が稚拙な印象をうけました。これが姜尚中や小森陽一(彼には1~5章全ての対談でがっかりさせられました)ら、この手の研究を専門としているはずの研究者の議論なのかと。
第2章については全く印象が頭に残っていないため、割愛します。まぁその程度の議論だったってことでしょう。
第3章は一転、上野成利の基調講演から対談までとても興味深い(小森は除く)ものでした。上野、杉田両氏はさすがに頭が切れるなぁと感心しました。主権/権力の問題、あるいは暴力や生政治の問題について、今日の諸問題と絡めつつ面白い議論を展開していた印象です。彼らには明確な視座を感じます。ヴィヴィオルカが言及されていましたが、彼の議論も気になるところです。読んでみたい。
第4章もよかったですね。精神分析を切り口にしながら、そこにおける正義の不在を指摘する。その上で「正義」なるもの、さらには「人間性(あるいは人間の領域)」とは何か、という問いを改めて投げてみる。竹内の指摘した言語の行為遂行性のもつ可能性と、そこに安易に希望を見出してしまうことへの懸念というアンビバレントな評価は分かる気がします。ハーバーマス的な公共圏にも希望を見出すこともできず(彼はまさしく「近代西洋」的な合理的諸個人を前提としているわけですから)、そのオルタナティヴも見出すことが出来ない、そんな情況の中で、それでももがき格闘し続けるのが現代を生きる研究者の使命だと彼女は主張していたのだと思います。
そんなことに真っ向から反発するのが、第5章の金子勝でしょう。彼は、青臭いほどそうした研究者の姿勢に反発します。市野川が途中で本気になっているのが活字からも読み取れて面白かったですが(総じてこういった対談はお互いが気持ちよく終われる様、ぬるい感じで進むものですが。) 基調講演はわりと面白かったかな。もう少しアレントについて勉強しなければなんともいえませんが。

こんな印象です。膨大な脚注があるので(編集者の方はさぞかし大変だったことでしょう)、これだけでも役に立つことがある「かも」しれません。色々な事について考えるいいとっかかりになる「かも」しれません。ちょっと辛口だったかもしれないと、書き終えた後で少し反省しています。


2009年4月23日木曜日

フアン・ルルフォ 『ペドロ・パラモ』

ペドロ・パラモという名の,顔も知らぬ父親を探して「おれ」はコマラに辿りつく.しかしそこは,ひそかなささめきに包まれた死者ばかりの町だった…….生者と死者が混交し,現在と過去が交錯する前衛的な手法によって紛れもないメキシコの現実を描き出し,ラテンアメリカ文学ブームの先駆けとなった古典的名作

読むことの楽しさ、ただ受身になって字面を追うだけでなく、こちらから想像力を膨らませて読む楽しさをひさびさに味わわせてもらいました。ここまで切り詰めた構成にこれほどの内容を詰め込むことができるものなんですね。一読じゃ終わらせない、繰り返し読むに値する小説ですね。『燃える平原』という短編集とこの小説のみという非常に寡作な作家ですが、それだけに完成度が高い。
この小説は全てが「語り」なんですね。そして読み進めていくと、突然に語り手が変わる。それが誰なのかも明示されないことが多い。明示はされないのだけれども、それが誰なのかは必ずわかるようになっている。

この小説には3つの世界がある、そう言えるかもしれません。一つは現在の荒涼としたコマラの廃墟①、もう一つは死者の語らいによって明かされるペドロ・パラモの地主時代の「黄色く酸っぱい」コマラ②、そしてペドロ・パラモや母の語りの中のみに登場する豊饒で緑溢れるコマラ③。このうち、②が主要な舞台となるので、こういった区分はあまり生産的ではないかもしれません。そしてこの3つのコマラ、それは時間的には切断されている印象を与えてしまうけれども、この小説では全てが混淆しています。①における死者の語らいの中で、②や③は存在するし、②の独白の中で③は想起されるわけですし。更にこの小説では、生/死、現実/幻想という二項対立図式は崩壊しており、全てが入り混じっているわけですから、より一層混沌とした世界ですよね。これをまとめ上げたルルフォの筆力には圧倒されます。

総じて、非常にドライな文体だな、と思いました。それゆえ、③のコマラにまつわる語り、とりわけペドロ・パラモのスサナに対する叙情豊かな愛の語らいがとても心に残ります。
登場人物の死生観、宗教観などには困惑を感じる事もありますが、それは当たり前のことでしょう。カトリシズムとこうした死生観やたびたび登場する近親相姦の問題をどう折り合わせて理解できるのか。そうしたものも含めて、面白かったです。
解説で触れられているように、本小説には多様な解釈が可能だと思います。とりわけ、杉山が指摘する次の部分、

「ロバ追いアブンディオの役割が一番大きく、…末尾ではその代理として父親(自分の父親でもある)ペドロ・パラモを殺すのだ」(強調は引用者)

その代理とは、つまり「おれ」であるフアン・プレシアドだ。つまり、杉山はフアン・プレシアドに代わって、アブンディオがペドロ・パラモを殺したのだと理解している。プレシアドは母に代わってペドロ・パラモに会いに行くが、彼の死によってそれは果たすことができなかった。しかし、彼自身が①のコマラで死ぬことによって(あるいはこの街に着くまえから彼は死んでいたのかもしれない)、死者の語らいに耳を傾け、②の世界に触れる。彼の思い(それはそもそも母の思いが転移したものなのだが)がアブンディオに転移し、アブンディオは混沌とした意識の中でアブンディオを殺したのだ、そう解釈しているように思える。この錯綜する転移は、ペドロ・パラモの死の場面のみに生じるものであるだけでなく本小説に通底した点のように感じられる。死者の間で生じるリゾーム状の転移関係。これは面白いですね。

何よりも本小説は「語り」です。「語り」とは常に真実であるわけではない。客観的出来事を述したいのならば、わざわざ「語り手」などをおく必要はない。語り手を置く事によって、彼から観た世界、彼が(時に恣意的に)解釈した世界を提示できる。本小説のように複数の語りによって構成されているならば、そこには複数の出来事があり、世界が、そして解釈がある。どれが本当かどれが嘘か、あるいはどっちも本当でどっちも嘘なのか、そんなことに頭を悩ます必要はないだろうけれども。
少なくとも大切に読み返したい小説である事は間違いないでしょう。


酒井直樹 『希望と憲法―日本国憲法の発話主体と応答』

『死産される日本語・日本人』と『日本思想という問題』で新鮮なデビューをしたコーネル大学教授・酒井直樹氏による日本国憲法論。戦後日本で形成されてく る集団的感傷としての国民主義の限界を分析し、多義的な日本国憲法を応答可能性=普遍性として未来へ開く、壮大な投企。日本国憲法の成立をめぐる時代背景 の分析は、新しい歴史の大きな語りという可能性を示唆する。

この本、実によいです。
「残余」の視座から歴史を紡ぐこと、本書はその一つの試みだと酒井は言います。「残余the Rest」とはなにか?一つは、非‐西洋としての「残余」、つまりthe Westと対に置かれてきたthe Restの位置から歴史を紡ぐこと、それは彼が長年行ってきたDislocation of the West(『西洋の脱臼』、『西洋の脱地図化』)の試みでもあります。そしてもう一つの「残余」とは主権国家の管轄外(例外状態という言葉がこの場合は適切なのかどうかはわかりませんが)に置かれてきた人々のことです。つまり「残余」の視座から歴史を語ることとは、非対称な権力関係において客体化されてきた「残余」に注目し、その位置から、マスター・ナラティヴとは異なる歴史を語ること、そうした位置からこれまでの「歴史」を問い直し、ある意味では書き換えることによってナショナル・ヒストリーそれ自体を解体させる意図が見て取れます。
私見ですが、酒井が「残余」という言葉に拘るのは、単にその暴力性を批判するためではなく、おそらくその言葉によってある基準によって選び取られた人々以外の存在がすべて一緒くたに括られるからでしょう。「残余」には雑多な全てが抛りこまれます。したがってそれは単一ではありえず、常に重層的・多義的なものを孕んでいるわけです。その「残余」のなかにある無数の線、それは「残余」の世界を飛び出し、(奇妙な言い回しですが)「非‐残余」へと放射されます。「残余」に注目することでこうした無数の線の存在、それにあらゆる人が隔てられているということに改めて目が向けられることになるでしょう。

なにより本書の最大の意義は、帝国的国民主義や体制翼賛型少数者といった独特の用語を切り口として、第2次世界大戦後(あるいはそれ以前も含めた「近代」)の日本とアメリカ(西洋)の関係における国民主義の共犯性を明らかにした点でしょう。ウェストファリア条約以降の「国際社会」なるものは結局のところ西洋諸国のみが参与できる枠組みに過ぎず、その「残余」はそこから排除され続けた。そこに日本という非‐西洋とも見える国家が参与していく。その際に国際連盟に日本が提出した「人種平等」条項の追加案は西洋諸国に大きな影響を与えることになる。そこにはたとえば日本人とアメリカの黒人が西洋に対して共闘する可能性が秘められていた(現にデュボイスらはこの日本の姿勢に協調のメッセージを送るわけですが)わけです。けれども実際には日本は西洋に対峙するポーズを示しておきながら、実際にはアジア諸国の人々や国内のアイヌ人や沖縄人らに対して人種差別的な姿勢を強化していた。つまり、日本は西洋に対峙するというよりも、彼らの一員に加わろうとしていただけでした。その後、日本の敗戦後、アメリカによる占領が始まり、これ以降日本は「新たな植民地主義」下に置かれることとなります。植民地主義下の政策について先ず押さえなければならないのは、そこで行使される暴力がなければないほどそれは統治が有効に機能しているということです。被植民者が自らが統治されているとは気づかないほどにその統治が成功しているケース、それは戦後日本以外にありえないのではないでしょうか。本書に付されているライシャワーの覚書、彼は1942年の時点で日本の敗戦後の統治の有り様について極めて重要な点を幾つも指摘しています。まず、日本にはドイツのナチ党及びヒトラー、イタリアのファシスト党及びムッソリーニのように、「都合のよい」スケープ・ゴートが存在しないこと、それゆえ日本を統治するためには(それはアジアにおけるアメリカの存在を確固たるものにするには不可欠なものでした)、極めて周到に用意された「思想戦」を展開する必要があることを指摘します。その上で日本がアジアで統治を行うために設けた傀儡政権のコマ不足を指摘する一方、日本を傀儡政権によって統治する際には最良の傀儡が存在していることに注意を促します、その存在とはつまり、天皇です。つまり、日本の戦後統治において天皇が必要なことは当初から認知されており、彼の戦争責任なるものは最初から不問に付すことはアメリカにとっては戦中から決定事項だったわけです。つまり戦後日本の国民主義化を推進することは、そうしたアメリカによる間接統治にとってはより都合がいいということになります。かくして、日本の保守たちは、民族主義に訴えながら、同時にアメリカの支配による恩恵を蒙ってきたことになる。ここに帝国的国民主義の共犯性が見出されることになる。こうした共犯性を孕んだ国民主義の代表人物として、酒井は江藤淳を取り上げます。江藤に対する酒井の分析は実に見事なもので、非常に読み応えがあります。
自衛隊についても酒井は極めて興味深い指摘をしています。つまり、朝鮮戦争勃発時にGHQの命によって警察予備隊が設立されたわけですが、その当初の目的は「国内の治安維持」でした。つまり、国民を保護するというよりも、敵対的な日本人に銃を向けることを想定して設置された部隊なんですね。だれがその相手を決めるのか。勿論アメリカでしかないわけです。はっきりいって自衛隊はアメリカの軍隊なんですね。近年の自衛隊についてのもめごとをこうした文脈においてみると、更に保守を自認する国民主義者とアメリカの共犯性にも目を向けたとき、その事態は今日でも変わっていないことがはっきりと見て取れるわけです。例えば4月25日付けのこのニュース。細かい解説は必要ないですよね。


安倍元首相「集団的自衛権、解釈変更をマニフェストに」

 安倍元首相は25日、愛知県瀬戸市での講演で「集団的自衛権の行使を含めた(憲法)解釈の変更を、私たちのマニフェストに入れて選挙に臨むべきだ」と述べ、行使を禁じた政府の憲法解釈の見直しを自民党の選挙公約に掲げ、総選挙の争点にする必要があるとの考えを示した。

 安倍氏は、北朝鮮が米国に向けて撃った弾道ミサイルに対し、日本が現在の憲法解釈に従って迎撃しなかった場合には「その瞬間に日米同盟は終わりだ」と強調。「解釈を変えていくことによって日本はより安全になる」とし、集団的自衛権をめぐる解釈変更が必要だと主張した。

(朝日新聞2009年4月25日21時9分)

 http://www.asahi.com/politics/update/0425/TKY200904250168.htmlより引用



2009年4月21日火曜日

フリートマル・アーペル 『天への憧れ―ロマン主義、クレー、リルケ、ベンヤミンにおける天使』

本来不可視である天使が形象化されるのはなぜか。啓蒙主義による理性の強制に対する反抗の形象として出発し、近代から現代にかけて次第に世俗化する天使シンボリズムの文脈の中で、ロマン主義による天使描写の意味を探るとともに、リルケ、クレー、ベンヤミンにおける実存的な天使を論じ、神の死が喧伝される現代において〈天への憧れ〉はいかに変容したかを問う。〔美学・文学・芸術〕

ウニベルシタスらしく、非常にマニアックかつ晦渋な本でした。タイトルを見ててっきりロマン主義における天使から20世紀以降の天使への変遷やその比較を論じた本なのかなぁと思って読んだのですが、少し違います。明確にすべきだとは思うのですが本書の主眼はロマン主義です。クレーやリルケ、ベンヤミンについての言及はそれぞれ1章、10ページほどに過ぎません。

ロマン主義絵画についての記述(先も言ったとおりこれがほとんどの比重を占めているのですが)は、個人的にはとても勉強になりました。初期ロマン派からいわゆるナザレ派までの移り変わりを代表的な人物と彼らの作品を取り上げながら(分かりやすいとはいえませんが)丁寧に紹介しています。僕にとってこのあたりは未知の領域に近いものがあったのでとても面白く読みました。

天使と描くということがロマン主義にとってどのような意味を持っていたのか、これを啓蒙主義、合理主義との係わり合いの中に見出していく点に本書の重要なポイントがあります。啓蒙主義とそれと必然的に結びつく新古典主義(当時のフランスとドイツの関係を想起する必要もあります)への反発、不可視なものの形象化としての天使。誰が見てもそう見えるものを描くのではなく、私にとってそう見えるものを描く姿勢、これは後に印象派にも大きな影響を与えます。そしてそれだけでなく、見えないものを描き出すことに芸術を見出す姿勢。ロマン主義は自然、女性、天使に強い憧れを見出します。なぜロマン主義やラファエル前派において、女性が多く描かれるのか。それは結局のところ女性が啓蒙主義的男性の対になる存在として、つまり非理性的存在として当時理解されていたために他ならないのでしょう。本書でブレッヒェンの『スビアコ近郊のサンタ・スコラスティア修道院』が取り上げられていますが、まさにこの作品では自然と女性が結び付られています。しかしこの作品の魅力はそれにとどまりません。アルカディアへの到達不可能性、天への憧れとその不可能性がこの作品には同時に描きこまれています。天は見える、しかし私たちはそこに行き着くことはできない。アーペルがロマン主義における天使と、20世紀における天使の結節点としてブレッヒェンを置いたのはまさしくこのことゆえなのだと思います。私たちは天に憧れる、しかしそこに行き着くことができない。天使は私たちをどこにも連れて行ってはくれない。それでも天使を信じること。あるいは信じることによってしか存在しえない天使。これが20世紀における天使の姿なのだということでしょうか。

今日、天使はあらゆるところに存在している。ポスターに貼り付けられ、あるいはアニメに描きこまれたものとして。彼らは動くことができず、天に帰ることもできない。何も表象しない空虚な存在でしかない。無数に存在はしているものの、何の意味ももたず、誰もそれを信じてはいない。アーペルも言うとおり、「いまや翼は、バットマン・コレクションの玩具に過ぎない。帰り道は閉ざされている」のだろう。天使もまた死んでしまったのかもしれない。

最後に。本書は林捷さんの解説がとてもいいです。これだけでも一読の価値ありかな、と。

2009年4月20日月曜日

ジョン・トーピー 『パスポートの発明―監視・シティズンシップ・国家』

フランス革命以後、国家が国民の移動手段を合法的かつ独占的に掌握するのに決定的な役割を果たしたのがパスポートであった。本書は、近代以降のヨーロッパ各国およびアメリカの事例を具体的にあげながら、地方自治体や封建領主等から国家へと、合法的な移動手段が奪い取られていくプロセスを描き出し、パスポート制度という国際的なシステムの確立とその現代的な意味を問う。〔歴史社会学・ディアスポラ研究〕

邦訳を長らく待っていた本。最初と終わりだけオリジナルで読んでぜひ通して読みたいなぁと思っていたところ、邦訳が無事出版されたようで。
この本の意義はトーピー自身が整理しているように3つにまとめられます。
①近代世界発達の過程を、国家(系)が個人や私的な団体から「合法的な移動手段の排他的な独占」の過程として捉えること
②近代国家の発展の過程を、それまで支配的だった「国家が市民社会に浸透する」というメタファーではなく、「国家が市民社会を掌握する」というメタファーを通じて理解すること
③国民国家によってパスポート制度が発達したのではなく、パスポート制度の発達自体が国民国家やその諸制度の確立過程に決定的に作用していること

①について、マルクスが資本主義の発展過程を、資本家が労働者から「生産手段」を収奪する過程として捉えたように、更にはウェーバーが近代の特徴を国家が個人から「暴力手段」を収奪したことに見出したように、トーピーはこの点に第三の「収奪」を見出しています。その表れとして彼はパスポートに注目するわけです。このような視点に立てば、従来の移民研究の問題点は明らかになります。つまり、「移民政策の研究は、国家の役割を無視するというよりも、むしろ国家を所与のものとみなしたために、移住の規制によって、国家の『国家であるゆえん』がいかにして生み出されてきたのかを理解できなかった」(pp.10)わけです。このような視座は、例えばアーリが『社会を超える社会学』で移動から社会を捉えなおすことで社会学を再考しようとするような、新しい社会学の潮流といえるものでしょう。国家や社会を所与のものとするのではなく、移動を所与のものとするとき、社会学は全く新しい様相を呈することになります。例えば、「彼らはなぜ移動するのか」ではなく「私たちはなぜ移動しないのか」というように。
②その上で、彼は近代国家成立の過程を「浸透」ではなく「掌握」という言葉で捉えようとします。「浸透」というメタファーで国家の発展過程を捉えてしまうことには確かに幾つもの問題点が存在します。まず、それは不可逆的であり、一方的な流れとして捉えられてしまう。次いで、あたかも「自然」なものとして捉えられてしまう、つまり胡瓜を塩水に浸したら胡瓜は必ず萎びてしまうようにそれは当然のことのようにされてしまう。そしてなによりも、市民社会がどのように国家に対峙しようとしたか、そしてその抗いを国家はいかに押さえつけていったのかを描き出すことができない。それゆえ、彼がここで「掌握」というメタファーを提出したのは極めて妥当なように思われます。
③パスポート制度が今日のような形で成立するようになったのはごく最近のことに過ぎず、当初から明確にこの多様な側面を持つパスポート制度が存在していたわけではないということ。折々の時代状況や地理的・歴史的背景の作用を受けながら、パスポート制度はまったく一貫性を持たずに(あるとすれば、望ましくない誰かを排除するという点でしょうか。ただ、これさえもトーピーが言うとおり、パスポートの一側面に過ぎないわけですが)存在してきました。国民国家が明確に存在しており、その上で「望ましい人々」と「望ましくない人々」がパスポートによって規定されるというのは、本書を一読すれば全くの幻想であることが明らかになります。国民国家形成にパスポート制度が決定的に作用しているというトーピーの指摘は、一つの論点になるでしょう。

本書はパスポート制度の変遷を辿りながら、国家が市民を掌握する過程を描いていきます。その過程に興味がないのならば、2章から4章は飛ばしてしまってもかまわないのかもしれません。序章と5章、結論だけでも彼の論点は十分に理解できると思います。ただ、2章から4章は面白いですよ。パスポート制度自体が当時の様々な事情と係わり合いながら、時に強化され、時に廃止されながらも次第に今日の形態に近づいていく有り様を克明に描写しています。
もちろん本書は、フランス、ドイツ、イタリア、アメリカなど一部の地域を扱ったものに過ぎません。おそらく「第三世界」諸国においては全く異なった問題を取り出すことができるでしょう。更に言えば、トーピー自身は植民地体制にさほどの関心がないように見られます。宗主国と植民地の関係にパスポートはどのように作用していたのか、というのも興味深いテーマなのではないかと感じましたが。とはいえなかなかの良書でした。




Chim↑Pom・阿部謙一編 『なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか』

昨秋の「ピカッ」騒動をあらためて検証し、美術関係者やジャーナリスト、被爆者団体などが、ChimPomへの批判を含め、さまざまな視点から考察する。「ヒロシマ(原爆、平和)」「美術と行政、市民」「表現の自由」など、美術の問題にとどまらない社会的命題に多角的に迫る1冊。筆者・話者は、ChimPom、被爆者団体の方々など、約20名。

昨年10月、Chim↑Pomというアート集団が広島の空に「ピカッ」の3文字を飛行機雲で書くという、いわゆるスカイ・ライティングを行った。それに対して、マスコミは大々的なバッシングを行い、彼らは謝罪することを余儀なくされた。その報道に触れたとき、私が思ったことは、まさにこのタイトルそのままの疑問だった。

「なぜ広島の空に『ピカッ』という3文字を書いたことがそこまで問題になるのだろう?」
「このバッシングが意味しているものは何なんだろうか?」

他の誰もそのことを表立って取り上げることなく、この行為はバッシング→忘却というお決まりのルートを辿っていく。そんななか、彼らはこの疑問と向き合い続け、それを1冊の本にまとめた。それは本来ならば彼らの仕事ではないだろう。彼らは、「これは面白そうだ」とか「こんなことやってみたらすごいことが起こるんじゃないか」とか、直観で何かを捉え、表現する。そこには論理的整合性など必要ない。私たちやあるいは研究者たちがそれを理論的に捉え、語ろうとするよりも彼らはより核心に近づくことさえできる。説明することは、本来であれば他の誰かにまかせればいい。それは彼らの仕事ではない。けれども誰もそれをしようとしなかった。だから彼らはそれをした。

彼らの行為/作品は面白い。アカデミックな美術教育を受けたわけでもない彼らが、アートを志向し、同時に社会的論題を扱っていることにその魅力の一つを見出せるかもしれない。社会問題などに興味を持ちそうにない人たちがアートを通して雄弁に物語る。そのアート自体ももちろん面白い。しかし語るはずのないものがそのことについて語る―しかも雄弁に―、そこにはランシエールが政治的なものの起源として位置づけたような「間違い」がある。しかも彼らは、「かくあるべき」と押し付けてくる権力に従順であるわけでも、それに反逆しているわけでもない。彼らは奴隷でも闘士でもないのだ。彼らはただそれをからかい、皮肉り、面白がる。そのことによって、支配的ヘゲモニーはある意味で無力化(というよりも脱力化)させられるのかもしれない。

さて、「ピカッ」に戻ろう。
写真を見れば分かるのだが、この「ピカッ」はどこかしら間が抜けている。そこからは原爆の激しさ(そもそもそんなものは表象不可能だろうが)や暴力性を微塵も感じ取ることができない。おそらく動画だとよりはっきりするだろう。飛行機がぐるぐる旋回し1画1画描いていく様。それはどっちかというと滑稽な印象すら受ける。それがどれほど人を傷つける力を持つのか、正直疑問に感じてしまう。この行為自体が、とても「戦後平和」的なのかもしれない。リーダーが言っているとおり、彼らは戦後の「平和」を撃ちたかったのだろう。だからこんな手法を取ったのだ。表象不可能なほど暴力的なものを漫画的な効果音で表現する。暴力の存在を忘却・隠蔽することによって成り立ってきた戦後平和なるもの。彼らはそれを攻撃したかったのかもしれない。そのことは原爆被害者の会との対話のなかでも明らかにされていく。マスコミが散々遺族の感情云々言っていたのに、彼らと被害者の会のメンバーの間には同志愛に近い感情さえ生まれている。両者はともに忘却・隠蔽というもう一つの暴力に立ち向かう同志なのかもしれない。記憶を語り継ぐこと。原爆の表象不可能性を考えれば考えるほど、そんなことはできないように思える。とりわけそうした出来事を隠蔽し無力化しようとする力が働いていれば働いているほど。戦後の平和なるものは、日本とアメリカの、相互に依存しあう翼賛的な国民主義、畸形の植民地主義の言い換えに他ならない。その中で原爆の経験は、一方ではシンボルとして無毒化され、他方では忘却されていく。原爆ドームは観光地なのだろう。それに抗うこと。

話は変わるが、蔡國強の作品との比較(+彼へのわずかなインタビュー)も面白かった。
蔡國強のエキシビジョンをニューヨークのグッゲンハイムで観たことがある。そのときの印象は、まず彼は極めて戦略的なポスト・コロニアル・アーティストではないか、ということ。極めて「中国的」な象徴物を彼は作品に多く導入する、西洋人を「喜ばせてあげる」ようなモチーフを。「正統的」美術は西洋のものであり、西洋人のものだ。評価するのは西洋人であり、国際的な名声を上げたいのならば、彼らを喜ばせるようなモチーフを扱うのが有効だ。おそらく蔡は自覚的にそれを行ってきた(これが村上との違いなのだろうか?僕にはわからないけれども)。彼が爆薬によって作った作品は水墨画を思わせるし、爆竹自体、極めて中国的(もちろん本来は中国の一部地域に過ぎないだろうが)な素材だといえる。そのとき蔡自身に、僕はのイメージを重ね合わせていた。火薬/花火の両義性、それは一方では祝祭、歓喜の象徴であり、他方では戦争、暴力の象徴であることに見出せる。どちらも「爆発」を経由して、対照的なものを表現する。作品に火薬を持ち込むことは、必然的にその作品自体にその両義性を孕ませることになる。つまり、その作品において、祝祭・歓喜と戦争・暴力は1枚のコインの表裏のようにどちらかだけを取り外すことはできない。ただ、歓喜を提示しているように見えても、あるいは暴力を提示しているように見えても、そこにはつねにその反対の意味が含まれてしまう。蔡が火薬を作品に用い続けるのは、そういった両義性を踏まえてのことなのではないか、と僕は思っている。
その上で彼がChim↑Pomの数日後に行ったアートを考えてみると、僕は困惑を禁じえない。広島は祝祭(カーニバル)の場になってしまったのだろうか。

ちょっとこれ以上は考えが進みそうにありません。この本自体はかなり読み応えのある論考もあったりしてなかなか面白いのではないでしょうか。



2009年4月19日日曜日

舞城王太郎 『山ん中の獅見朋成雄』

中学生の獅見朋成雄はオリンピックを目指せるほどの駿足だった。だが、肩から背中にかけて鬣のような毛が生えていた成雄は世間の注目を嫌い、より人間的であることを目指して一人の書家に弟子入りする。人里離れた山奥で連日墨を磨き続けるうちに、次第に日常を逸脱していく、成雄の青春、ライドオン!

さて、舞城です。彼はいわゆるストーリーテラーではないでしょう。寧ろストーリーを半ば破綻させかけながらも、そんなことは気にせず疾走し続ける、そういったところに彼の特色があるような印象を受けます。奇抜性や疾走感でごまかしているだけじゃないか、という批判もありそうですが。
枠組みとしてはこの小説は(かなり逸脱した)ビルドゥングスロマンなんでしょうか。

気になるキーワードはあるんですよね、人間性やらカニバリズムやらトンネルやら。ただそういったキーワードを軸にしてこの小説を考えてみようという気にはならないんですよね。別に舞城に限ったことではないですが、読んでいて確かに面白い、そして一気に読める(この小説の場合読みきるのに2時間もかからないでしょう)、けれども何も残らない。面白かったね、で終わってしまう。これはたぶんに僕の問題でもあるんだとは思いますが。
主人公の変化の契機をどこに見出すべきなのか。鬣が生えた時なのか、トンネルをくぐった時なのか、鬣を失った時なのか、人を殺した時なのか、食べた時なのか。まぁ素直に読めば鬣ということになるんでしょう。獣性の象徴のようで嫌悪し、恥じていた鬣が実は人間性の源泉だったとか。でもそれって設定としては安直じゃないですかね。ファルス的なものの去勢というわけでもなさそうだし。「アイデンティティの喪失」なるものと結び付けようとするのはそれに輪をかけて問題があるような。

繰り返しになりますが、舞城の作品自体は嫌いじゃないんですよ。むしろ好きです。ただ、それについてコメントするとなると、面白いねーとか、疾走感あるねー、とか設定がすごいねーとかゆう当たり障りのないことしか挙げられないだけです。『ディスコ探偵水曜日』は未読なので、これを読んでからもう少し彼の作品について考えてみようかなと。とりあえず保留で。

ポール・トーディ 『イエメンで鮭釣りを』

アルフレッド(フレッド)・ジョーンズ博士は、研究一筋の真面目な学者。水産資源の保護を担当する政府機関、国立水産研究所(NCFE)に勤めている。ある日、イエメン人の富豪シャイフ・ムハンマドから、母国の川に鮭を導入するため力を貸してもらえまいかという依頼がNCFEに届く。
フレッドは、およそ不可能とけんもほろろの返事を出すが、この計画になんと首相官邸が興味を示す。次第にプロジェクトに巻き込まれていくフレッドたちを待ち受けていたものは?
手紙、eメール、日記、新聞・雑誌、議事録、未刊行の自伝などさまざまな文書から、奇想天外な計画の顛末が徐々に明らかにされていく。

なんだか今日はすごく心を萎えさせるような出来事があって非常にげんなりしていたのですが、この小説を読んで少し元気をもらった気がします。白水社のエクス・リブリス、本当にいいシリーズですね。デニス・ジョンソンの『ジーザス・サン』もとても印象に残りましたが、それと打って変わってイエメンのワジに鮭を放流するというぶっ飛んだ設定と、メールやら日記やら議事録やらで構成されたチャプター、そして最後のオチがまたなんとも…。尋問官が何者で、なんでこの小説がこういった様々な文書で構成されているのかは最後で明らかになります、っていっても本当は最初の頁にしっかり書いてあるんですけどね。意外と気に留めずに読み進めてしまうものです。登場人物もまた実にキャラが濃く(戯画的過ぎるほど)、特に自己顕示欲とオリエンタリズム丸出しで雄弁だけど実は無教養なピーター・マクスウェル…この小説で一番気になるやつです。
著者の釣り愛が実によく伝わってくる、いい感じのフィッシング小説(巷で話題のチェス小説よりも面白いかも)です。釣りには哲学と美学があるんですよ。やったことない人にはそれがわからないのです。
待つこと、信じること、それができなきゃ釣りはできません。おじいちゃんが言ってました。

そう、信じること。一番大事なこと。信じることが何かを変える可能性を生み出す。何かが上手く行くと信じること、たとえ今回は上手く行かなくても次は上手く行くと信じること。あるいは誰かを信じること、自分を信じること。「信じる心がなければ希望はない。信じる心がなければ愛はない。」 希望とはより良き生に対する潜在可能性だろう。愛とはより良き生をもたらす他者へのコミットメントだろう。両者の根底に信じることがなければいけないという、このシャイフの言葉は実に含蓄のある言葉だと思います。信じることが希望や愛を経てよりよき生にたどり着く。あるいはより良き生の存在を信じるからこそ、そこに希望があり愛がある。最後にフレッドが引用する「私はそれを信じる、なぜならそれが不可能だからだ」という言葉、不可能に見えるもの(つまり潜在可能性がないように見えるもの)も信じることによってそこに潜在可能性を見出すことができる、不可能を可能へと転換していくことができる。半ば今の自分に言い聞かせているところもありますが、今のところはそう思わせてください。

他のブログを見ていて知ったんですが、この著者の写真を撮っている人物…あのコリン・マクファーソンじゃないですか。最初に気付いた人すごいですね。


2009年4月16日木曜日

アドルフォ・ビオイ=カサーレス 『モレルの発明』

現代アルゼンチンの洗練された小説家にして、あのボルヘスの親密な友人=共作者でもある著者が、SF的冒険推理小説的結構を借りつつ、現実とイマージュ、現実とフィクションとを巡る形而上学的思考を一篇の恋物語のうちに封印した。
ボルヘスに《完璧な小説》と讃えられ、欧米各国語に翻訳されて大きな反響を呼び、またアラン・レネ/ログ=グリエの『去年マリエンバートで』の霊感源ともなった、現代ラテンアメリカ文学の最高傑作のひとつに数え上げられる驚くべき作品。


知り合いにお薦めされて読んだ本。ビオイ=カサーレスはこれまで読んだことがなかったんですけど、確かによかったです。ミステリーの要素もたぶんにあったりして、どんどん読み進めていきたくなる、そんな中でもちょっと考えてしまう部分なんかもあったりして。なによりも、決してフォスティーヌへの思慕とその実現不可能性、それさえも超克し永遠となる彼の恋愛もとても心に残りました。
ボルヘスが何をもって「完璧な小説」と見做したのか、そこまで分析する力は僕にはないですが、確かにこの小説には全てがある、そう強く感じました。
僕は読みながらこの主人公がモレルなのかな、と深読みをしていたのですが、それはあながち間違いではないのかもしれません。主人公はモレルと自己を同一視しているわけですから。非常にこの過程は面白いですね。主人公はフォスティーヌに恋をし、彼女とただならぬ関係にあると推されるモレルに嫉妬を感じ、次いでモレルの思いに応えようとしないフォスティーヌに苛立ちを覚える。その鏡の向こうの世界、純粋なイマージュの世界に主人公はどうしても入っていくことができないゆえに自身の思いをモレルに仮託しようとする。勿論この仮託は十全なものではなくてしばしばモレルに主人公は疑いの眼を向けるわけですが。モレルと主人公はちょうど2つの太陽、2つの月のように同一でありながらもしばしば解離する、そういった存在となっています。その後に主人公はイマージュの世界に没入することで、モレルとは切り離された恋愛―それ自体が主人公自身のナルシスティックな振舞い、自己呈示に他ならないわけですが―を達成することになる。ビオイ=カセーレスはSF的スタイルを借りながら、2つの世界―現実とイマージュの世界―の重なり合いながらも解離する有り様を提示しています。
私たちはそれを見ることができるが、触れることはできない(精確さを期せば、その世界に立ち入り関与することができない)、彼らは我々によって見られていることを知らず、私たちの存在自体を知ることもない。こうした2つの世界の不可能な出会いを主人公は超克していくわけです、ただそれは現実の消滅と同義ではあるのですが。
さて、「鏡」についてです。やはり訳者同様にこれに触れないわけにはいかないでしょう。こうしたイマージュの世界は、私たちの世界を切り取ったものそのものでもあります。しかしその世界は死んでいる。その世界は円環として完結している。こうした私たちの世界を切り取り固定化させたもう一つの世界、それは鏡の世界に他なりません。幼児期にバラバラである身体を縫い合わせ一つの統一体としての「私」を作り上げていく存在、それが「鏡」です。鏡は統一体としての自己を提示します。鏡の向こうの世界にいる「私」は、私を魅惑する。そのようなものとして私は「私」であろうとする。けれどもそれは完全には達成されえない。現実を切り取り固着化させた「私」とは既に死んでいるから。そのような「私」は魅惑と恐怖の対象となる、ちょうど主人公がイマージュを前にした時のように。

そしてどうしても向こうに行きたければ、彼は死ななくてはならない。向こうの世界は不死ではあるが、そこに行き着くためには死ななければならない。そして彼は向こう側に旅立つ、7日間で完結する永遠の世界へ。

読了後、こう思いました。主人公が何の不自然さもなく向こう側の世界に溶け込んでいるのならば、新たにこの島にたどり着き、この虚構の世界を目撃した人はそれに気付くことはなく、彼も最初からこの団体の一員だったのだ、と思うだろうと。それならば、そもそもこの虚構の世界にいたのは誰だったのか。誰があとから参入してきた者なのか、「完璧」に演じられたのならばそれに気付くことはできない。極論を言えば、最初にこの虚構の世界にいた人物はごく少数だったのかもしれない。それが一人、また一人とこの世界に参入していく。現実の世界を捨て、イマージュの世界にのみ生きる人々。主人公の次にこの島にやってきた人も、やがて現実を捨て、このイマージュの世界に加わっていくことだろう。それはあまりにも魅惑的だから。なぜモレルの発明が島外に洩れることがないのかを考えてみるとその恐ろしさがよく分かる気がする。
素敵な小説を教えてくれた知人に感謝です。

2009年4月12日日曜日

ナタリア・ギンズブルグ 『ある家族の会話』

イタリアを代表する女流作家の自伝的小説。舞台は北イタリア、迫りくるファシズムの嵐にほんろうされる、心優しくも知的で自由な雰囲気にあふれた家族の姿 が、末娘の素直な目を通してみずみずしく描かれる。イタリア現代史の最も悲惨で最も魅力的な一時期を乗りこえて生きてきたある家族の物語。

僕がこよなく愛する須賀敦子さんのエッセイはナタリア・ギンズブルグのこの自伝的小説なしには存在し得なかった、そういっても過言ではないだろう。彼女の文体は、ギンズブルグによって育まれた。もちろんそれ以前に彼女が書き溜めていたエッセイにも須賀敦子らしさは随所に見られていてこう言い切ってしまうのは誤りなのかもしれない。けれどもギンズブルグという支柱を得て初めて須賀敦子は滔々と物語り始めた。ギンズブルグのそれが自伝的小説と称されるならば、須賀の作品は限りなくそれに近いエッセイなのだろう。ギンズブルグが自分の半生を、自分の家族の歴史を振り返りながら、あくまでそれを小説として発表したように、須賀は自分の半生を、そして自分の家族、イタリアでの友人などの記憶を辿りながら、エッセイを書き続けた。

池澤夏樹が「考える人」の須賀敦子の特集で書いていたこと―エッセイストと小説家の根源的な相違、須賀自身の小説を書くことに対する躊躇い―は本当なのだろうか。エッセイは現実という支柱に寄り添いながら書くことだが、小説は全くなにもない状態から書くことであり、須賀はこのような「なにもない状態」から物語ることに戸惑いを感じていたのだ、と彼は言う。しかし、周知の通り小説は何もないところから始まるわけではない。小説家が様々な経験をし、色々な人々と出会い、影響を受け、何かについて考えようとする、小説にはそういった前提がある限り、「なにもない状態」はありえない。小説家自身がタブラ・ラーサの状態なら話は別だろうが、仮に彼/彼女がそのような状態にあるとき、小説など書くことはできないだろう。更に言えば、ギンズブルグのこの小説に出会いそれによって自分の文体を練り上げ、ギンズブルグのように自分の半生を書こうとする。その行為が小説の創作に極めて接近することを須賀は自覚していたはずだ。無論、本人が既にこの世にいない以上、これ以上の憶測は無意味だろうが。

この小説の話に戻ろう。この小説はどこまでも暖かい。レーヴィ一家とそれを取り囲む交友関係がナタリア自身の視線を通じて語られる。高圧的な父、マイペースな母、買い物好きで母と仲良しの姉、父のお気に入りの長男、優等生の次男、マイペースで活動的な三男、そして彼らを取り囲む友人、それを捉え続けるナタリアの視線はどこまでも暖かく、やさしい。レーヴィ一家には自分たちにしかわからないような言語があって、それさえあれば彼らがどこにいても群衆に紛れていてもすぐに見つけ出すことができる。その秘密の言語のように、どんなに時間がたっても、全てが変わってしまった様に見えてもずっと変わらないものはあって、この小説はそんな時間の中でも変わらずにあり続けるものを丹念に描き出しているように感じられる。とても暖かい気分になれる、素敵な小説だと思います。

あとパヴェーゼがしばらく気になっていたんだけれども、この小説でも再三顔を出しています。そろそろ読んでみようかと。

2009年4月10日金曜日

岡田温司 『処女懐胎―描かれた「奇跡」と「聖家族」』

処女にしてキリストを宿したとされるマリア。処女懐胎はキリスト教の中心に横たわる奇跡であり、夥しい図像を生み出してきた。「無原罪」の「罪のない」という否定の図像化一つとってみても、西洋絵画に与えたインスピレーションは巨大である。また、「養父」ヨセフや、「マリアの母」アンナはどのように描かれてきたのか。キリスト教が培ってきた柔軟な発想と表象を、キリストの「家族」の運命の変転を辿りつつ描き出す。

僕は、ムリーリョの作品、とりわけプラド美術館(だったはず)で観た「無原罪の御宿りImmaculate Conception」が大好きで―ムリーリョは幾つも同じテーマを扱っていますが―、彼独特の霞んだような幻想的な背景、人物の描き方(スティロ・バポローソってやつですね)に惹かれてきました。同じ理由でカリエールなんかも好きなんですけど、それはまた別の話。ムリーリョは「無原罪の御宿り」の他にも、聖家族や聖母子なんかをよく描いている印象があります。
さて、この新書はそうした無原罪の御宿りから、受胎告知(処女受胎)、ヨセフやアンナまで、マリアや養父ヨセフやマリアの母アンナといった人物がどのように捉えられ描かれてきたかを整理したものです。まず、通読して驚くことは、いかに時代時代によって、これらのイメージが自在に解釈し直され、描かれてきたかということでしょう。一見、こうした宗教画は同時代性からは超越しているように思われるかもしれないけれども、そんなことは全くなく、むしろ宗教画であるがゆえに同時代性に強く規定されてきたということです。本書は聖家族を構成する人々の描かれ方を様々な観点―著者の言葉を借りれば人類学的観点やジェンダー的観点など―から辿ることによって、そうした事実をあぶりだす事に成功しているように思います。例えば、人々はマリアに理想的な女性像を投影する。ヨセフには、そして彼とマリア、イエスとの関係には、あるべき父の姿や家族像を投影する。そうして構成された作品の中には、必ずしも原典に記述がなかったり場合によっては反するかのように見えるものもあるわけですが。こうした絵画の論じ方は非常に面白いなぁと僕は思います。僕自身、ラファエル前派のメンバーの一人であったウィリアム・ホルマン・ハントの「神殿で見出された主キリスト」という作品を似たような観点から論じたことがあります。もちろん彼ほど丁寧に考察を進めることはできませんでしたが、少し補足しておくと、この「神殿で見出された主キリスト」という作品は、ルカによる福音の2-41以降の逸話に基づいており、デューラーらも同じ逸話から作品を制作しています。ただ、それ以前の作品とハントのそれには多くの相違があってその背景を考察したものでした。まぁそんな瑣末な話は置いておきましょう。
つまり、宗教画やそこに描かれたイエスの「家族」の有り様のなかに、そうした当時の人々の理想という時代による要請が描きこまれているということ自体とても面白いですし、そこから当時の人々の心情や社会の変化などを探ることもできる、非常に開かれた美術史研究のあり方なのかな、と思います。

この著者の岡田温司さんという方は非常に面白そうな人で、他にも中公からマグダラのマリアについて論じた新書を出したりする一方で、アガンベンの翻訳やイタリア現代思想の紹介を精力的に行っています。本業はイタリア美術史なのでしょうが、哲学や政治思想などにも関心を持っているようです。この新書でのアプローチの斬新さにはそういった彼独特の横断性が生かされているのかもしれません。他の著書をもっと読んでみたいものです。

2009年4月6日月曜日

アティーク・ラヒーミー 『灰と土』

ソ連軍の進攻を背景に、村と家族を奪われた父の苦悩をとおして、破壊と混乱のなかに崩れゆくアフガン社会を浮き彫りにする、映像感覚あふれる現代小説。 カーブル生まれの小説家・映像作家、ラヒーミーの第一作である本書は、アフガン社会の生の内面とイスラームの倫理を描き出して、大きな話題を呼んだ。20 か国で翻訳。

こういった括りが意味があるかはよく分かりませんが、アフガニスタン文学です。イスラーム圏の現代文学については世界的に有名な作家(ヨーロッパで評価される作家)以外はあまり紹介されていないのが現状で、とりわけ日本ではどうしてもマイナーかつマニアックなものとして受け取られがちですが、すばらしい作品がいっぱいあるな、と。岡真理の『アラブ、祈りとしての文学』を読んで以来、関心を持って触れています。カナファーニーのAll That's Left to You(邦題はわかりません)やバラカートの『六日間』も積読中なのですが。
まぁそんな中で読んだ『灰と土』。著者のラヒーミーはアフガニスタン、カブール生まれ。例によってフランスに移住し向こうの大学を出た後、映像作家などとして活躍をしているとのことで、本小説は彼にとって初めての小説ということになるそうです。
長さとしては中篇、といったほど。村を破壊され、家族を失った「きみ」が、砲撃で耳の聴こえなくなった孫を連れて息子の働いている炭鉱へ、家族の死を伝えに行く物語です。こういうとロード・ノヴェルみたく聞こえるけれども、そうではなくほとんど彼らは地理的に移動することはなく、専ら番小屋とカディールという人物のお店の間が舞台となります。物語はそういった実際の移動よりも、「きみ」の思索と幻想と回想が綯い交ぜになった夢想のようなものが中心になっています。彼の連れである孫と対話ができないこと、番人も自分の中に閉じこもっていて会話ができないこと、それゆえに彼もまた自分の世界に籠もってしまう。いや、そうではないのかもしれません。戦争を経験し続け、家族を失った人々はみな、自分の世界に引きこもってしまうのかもしれません。その世界には失ったはずの家族が生きており、以前の生活が残されているわけですから。全ての人々が殻に閉じこもる、そのときヤースィーンがいうように「誰もなにも話しかけてくれない」世界になってしまうのでしょう。それでも、可能ならば人々は殻から出て、誰かと話したいと思う。けれども話すことによって現実と直面しなくてはいけなくなる。ダスタギールが村で起ったことを説明するとき、彼は涙を流さずにはいられない。恥辱よりも名誉の穢れよりもまず、彼には絶望や悲しみに覆い尽くされてしまっている。
息子に彼は村で起ったことを伝えたい、と思う。けれどもそれは息子に恥辱を与え、息子を復讐へと向かわせるものでしかないことも分かっている。彼が息子に会いに行こうとするのは、彼にその出来事を伝え復讐へと駆り立てるためではなく、自分と対話をしてくれる誰かを求めていたからだったのだろう。
ムスリムにとっての名誉の重要性や恥辱の苦痛は、私が感じるであろうものとは違う。ある場合には当惑すら感じることがあることも正直に告白しよう。今岩波ホールで上映中の『シリアの花嫁』においても、アミンと姉の諍いにはこの名誉や恥辱といった問題が介在していて、アミンの態度には当惑を覚えたことも事実だ。けれども、恐らくこれはどうしようもない問題なのだ。考え方や価値観の違いはどこにでもあるもので、それを「西洋人は~」とか「ムスリムは~」と一般化することほど愚かなことはない。西洋人にも、価値観や考え方の違いは無数に存在していて、ムスリムでも日本人でもそれは同じだろう。差異を否定することは単一で正統な価値観や考え方の存在を暗黙の前提とする。そうではなくてすべきことは差異を肯定すること、絶対的に肯定することによってカテゴリー化自体の無意味さを露呈させることではないだろうか(ついでに言えば承認という言葉にはどこか権力関係が埋め込まれていて、僕はあまり好まない)。

完全に話しはずれましたが、アフガニスタン=タリバーン、イスラーム原理主義という連想が蔓延るなかで、こうした現代文学を読むことってとても重要なのかなと思ったりしました。

ちなみに今月中旬から、岩波ホールではマフマルバフ娘による初の長編映画が公開されるみたいですね。舞台はアフガニスタン。どんな感じなんでしょうか。

2009年4月5日日曜日

ナンシー・ヒューストン 『時のかさなり』

2004年のカリフォルニア、豊かな家庭で甘やかされながら育つソル。1982年、レバノン戦争ただ中のハイファに移り住み、アラブ人の美少女との初恋に苦悩するランダル。1962年のトロントで祖父母に育てられ、自由奔放で輝くばかりの魅力に溢れる母に憧れる多感なせいディ。1944~45年ナチス統制下のミュンヘンで、歌を愛し、実の兄亡きあと一家に引き取られた“新しい兄”と運命の出会いを果たすクリスティーナ―。世代ごとに、六歳の少年少女の曇りない眼を通して語られる、ある一族の六十年。血の絆をたどり、絡まりあう過去をときほぐしたとき明かされた真実は… 魂を揺さぶってやまない傑作長編。

昔はみんな子どもだった。当たり前だけど忘れてしまいがちなこと。お父さんもお母さんも、お祖母ちゃんも、曾祖母ちゃんも。みんな6歳だった。6歳というのは面白い歳だと思う。世の中のことを知らず、けどそれを知ろうと必死になる時期。自分の日々の生活が1つの完結された世界全てであり、自分がその中心にいると思ってしまう時期。親の言葉を絶対的なものとして受け止めつつも、どこかでそれを疑問視しはじめる時期。全ての人により愛されようとしてもがき苦しむ時期。何かを失い、違う何かを見つける時期。6歳は一つの世界の終わりであり、もう一つの世界の始まりなのだろう。そんな彼らから見る世界は、どこか歪で、当惑をもたらす、けれどもとても魅力的なそんな世界なのだ、いつの時代にも。
トドロフ夫人は、そんな6歳からみた世界の語りを4層に重ね合わせることによって、一つの歴史(Hi-story)を描き出した。そしてそれを「メメント」ばりに転倒させてみせた。それは単にこの小説をミステリー仕立てにしたかったためではない。人々の人生にはその「核」となるような出来事がどこかに存在していて、それはその人の人生観、生き方、生きる糧などの諸々を、延いては彼/彼女の人生そのものに深く関与していく。そしてその「核」は独立して生じるものというよりも、ある特定の歴史的/地理的/社会的状況―家族もまた一つの「社会」である、とりわけ子どもにとっては―などと関わりあっている。本小説の少年/少女たちはこの「核」となるような経験を6歳のころに経験する。ある「核」が上記のようなものと関わりあうということは、そうした「核」となる経験は家庭の中で世代を通して関わりあい続ける事を意味する。ランダルの経験は、セイディのそれと、セイディのそれはエラのそれとも関わっている。そうした関わりあう経験の根底にはエラにおける「核」―「リューク」との出会い―があり、そこに到達する形で物語を進めていくならば、考えうる内で最良の手段をヒューストンは取ったといえる。
この小説を読み進めるうちに、いくつもの謎が頭を掠める―彼女たちはなぜ人形を奪い合っていたのか、ヤネクとは誰か、なぜエラという名前を選んだのか、セイディが研究に固執するのはなぜか、などなど―そうした謎は最終的には全て解消される。これは非常に丁寧に練り上げられた小説なのだろう。読み終えた後に頁をパラパラと読み返してみると、なるほどこういうことだったのね、と感心することになる。

ナンシー・ヒューストンは本作のほかにもナチスやユダヤ人を巡っていくつか小説を執筆しているようです。いつか読んでみようかと。個人的には彼女がトドロフの夫人だったことに驚きました。どちらもバルトの門下生だったんですね。本作の越境性を考えてみると、なるほど確かに、と思ったりもしました。

2009年4月2日木曜日

アデライダ・ガルシア=モラレス 『エル・スール』

父の死を契機にセビーリャへと赴いた少女が出会ったものは……。内戦後の喪失と不安感を背景に、大人へと歩み始めた多感な少女の眼を通して浮かび上がる、家族の秘められた過去。映画『エル・スール』制作当時、エリセの伴侶として彼に霊感を与えたアデライダ・ガルシア=モラレスによる、時代を超えた成長小説。

まさか、あの映画の続きが読めるとは思わなかった。映画『エル・スール』。制作の都合か何かで重要なエストレーリャがセビーリャに赴く前に終わってしまった映画。北と南、共和派と独立派、この両者の交感がエリセの作品において1つのテーマになっていると考えるならば、彼女が南に赴かなければこの映画は真に完成などしないのだろう。この小説にはその後、が描かれている。勿論、小説と映画では隔たりもある。名前も違うし、映画に纏わるシーンも登場しない。何より父と娘の最後の語らいの場所も異なっている。この2人の作家は『エル・スール』をそれぞれ異なるやり方で描き出しながら、最終的には同じテーマを扱っているように思える。「家族」、「父親」、「少女の成長」、そして「緩慢な死」とでもいうべきものを。
「緩慢な死」。「あなた」は途中で自死を選ぶ。けれども彼はある意味では既に死んでいる。そして彼の家も。彼や彼の家は、まさしく「ゾンビー」(身体的な死と象徴的な死の不一致)の領域に位置しているように見える。それではいつから彼らは死に始めたのか。祖母の死でセビージャに行ってからだろうか。それとも予め彼らは死んでいたのだろうか。エリセならばその起源をスペイン内戦に求めるだろう。ガルシア=モラレスにおいても恐らくは。「緩慢な死」。これはフリオ・リャマサーレスの作品においても重要な位置を占めている。そしてこの「緩慢な死」と「スペイン内戦」との結びつきは『黄色い雨』と『狼たちの月』で取り上げられてきた。『狼たちの月』の解題で木村榮一が述べているように、内戦時には同じ村内部で、更には同じ家内部での血腥い抗争、殺し合いが行われていた。そうした外傷、治癒することが不可能なほど深くまで刻まれた傷、それはエリセやリャマサーレスの一連の作品において、それらを包み込んでいる寂寥感、不安感、そして喪失感としてどうしようもなく立ち顕れてしまう。けれども、それは美しさを伴っている。なぜこうした傷を根に持つはずの雰囲気がこんなに美しいのか。

朽ち果てた庭の噴水を前にして、父は娘に問う、「どうして噴水池に水はないのか」と。娘は答える、みんなが忘れてしまったからだと。そうだ、と父は言う、そして「あんなに見事だったのにみんな枯れ果ててしまった」と続ける。この親子の語らいには全てが凝縮されている。みんな、枯れ果ててしまったのだ。


ウラディミール・ナボコフ 『ロリータ』

「ロリータ、我が命の光り、我が腰の炎。我が罪、我が魂。ロ・リー・タ。……」
世界文学の最高傑作と呼ばれながら、ここまで誤解多き作品も数少ない。中年男の少女への倒錯した恋を描く恋愛小説であると同時に、ミステリでありロード・ノヴェルであり、今も論争が続く文学的謎を孕む至高の存在でもある。多様な読みを可能とする「真の古典」の、ときに爆笑を、ときに涙を誘う決定版新訳。注釈付。

さて、この小説を前に僕は何をいうことができるんだろう。読み終えてしまった、けれどもまだ読み終えていないような不思議な読後感です。あまりにも執拗な文学作品・作家への言及、言葉遊び。この言葉遊びが、いわゆる「亡命作家」であるナボコフにとってどれだけの意味を持っていたんだろう。年を経てから英語を習得した作家にとって、英語で「遊ぶ」ことのもつ意味、ただの馴致ではなく、それで遊ぶということ。
この小説には全てがつまっている。けれども僕にはその一部しか掴めていない。もどかしい、けれどもそれが心地よかったりもする。
高尚なものと低俗なもの、肉体と精神、現実と幻想、正常と狂気。そうしたものが矛盾なく渾然一体となって、その小説のなかに浮遊している。あるいはこう考えるべきなのかもしれない。こうした二項対立的図式において両者の間には絶対的に線が引かれていると考えてしまいがちだけれども、そうではなくもともと一つのものなのだ―ちょうど一枚のコインの表と裏のように。

そう遠くないいつか、僕はこの本を読み返すことになる。そのときはもう少しまともなコメントができるかもしれない。