「…月四千ペソ」。新聞広告にひかれてドンセーレス街を訪ねた青年フェリーペが、永遠に現在を生きるコンスエロ夫人のなかに迷い込む、幽冥界神話「アウラ」。ヨーロッパ文明との遍歴からメキシコへの逃れようのない回帰を兄妹の愛に重ねて描く「純な魂」。メキシコの代表的作家フエンテス(1928‐)が、不気味で幻想的な世界を作りあげる。
6篇収録されていますが、それぞれ違った面白さがあります。全体的には、幻想性+生々しさ+官能性でしょうか。ゴシック的な色合いも濃く、魔術的リアリズムと呼ぶに相応しい作品です。
男‐女、若者‐老人、正気‐狂気、メキシコ(インディオ、土着性)‐西洋、そして生‐死。こうしたいくつもの二項対立を扱うことを得意としているようです。これら背反的な二項のあいだを、フエンテスは文字通り魔術的な技法を用い、登場人物を行き来させます。例えば、『アウラ』においてはコンスエロ(老、醜)とアウラ(若、美)は対比的ですが、物語が進むにつれてアウラがコンスエロの映し鏡であることが明らかになります。そしてアウラに好感を抱いていたフェリーぺも、コンスエロの夫であったリョレンテ将軍の回顧録を整理していく中で、彼と一体化していきます。フエンテスの巧みさは、こうした魔術的な出来事が生じる舞台の設計技法にも見て取れるでしょう。コンスエロらが住まう家の不気味さの描き方は読んでいるこちらが薄気味悪くなるほどリアルで、廊下のシーンなどはギシッ、ギシッとどこかから音が聴こえてくるような気がしたほどでした。その不気味さは、この小説で彼が「君」という二人称を用いていることによって助長されることになります。読み進めるうちにいつしか読み手はフェリーぺと一体となり、この物語を彼と共有することになるわけです。舞台の気味悪さといえば、『女王人形』は…すごかったです。公園の牧歌的な明るい雰囲気と対を成すようなアミラミアの家の描写。
彼は、上記のように男‐女、老い‐若さのような対の構造を利用しながら、それを崩すことによって読者をひきつけるわけですが、そうした際に(少なくともこの短編集で)彼が用いている媒介に鏡と手紙があります。鏡は、『アウラ』や『最後の恋』に、手紙は『純な魂』や『チャック・モール』にそれぞれ登場します。『最後の恋』のなかで鏡は出だしとラストに登場します。そして同一人物が同じ日に鏡を見るのにもかかわらず、前者と後者でそこに写る像が全く変わってしまう。これは人が鏡に何を視ているのか、という問題とも関わることなのかもしれません。私たちは鏡を視ているときに、そこに理想化された自己を同時に見いだしています。『最後の恋』で鏡に映る像が変わってしまうのは、鏡自体が歪んでいるからではなく、鏡に向かう人物の現実の像が変わってしまったからでもなく、そこに見いだそうとする自己像が決定的に変わってしまったから、なのではないでしょうか。当初においては、見いだされていたこうありたい自己像が、その後の出来事の中で崩壊をきたし現実としての自己に直面する。それゆえにこの変容が起こったのだとしたら、幻想が入り込んでいるのは、終盤の鏡ではなく、序盤の鏡だということになります。であれば、私たちにとっての日常や現実それ自体が、あるいはこうした幻想によって構築されているのかもしれない、という疑念すら抱いてしまいます。こうした幻想と現実の関係をもフエンテスは効果的に利用しているわけです。
解説のなかで、もっと違った角度から、訳者がそれぞれの短編集のとても興味深い分析を展開しているのでぜひご参照ください。
これはいい短編集、おすすめは『アウラ』と『女王人形』です。
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