2010年1月21日木曜日

コーマック・マッカーシー 『ブラッド・メリディアン』

少年は、十四歳で家出し、物乞いや盗みで生計を立て各地を放浪していた。時はアメリカの開拓時代。あらゆる人種と言語が入り乱れ、荒野は暴力と野蛮と堕落に支配されていた。行くあてのない旅の末、少年は、以前より見知っていた「判事」と呼ばれる二メートル超の巨漢の誘いで、グラントン大尉率いるインディアン討伐隊に加わった。哲学、科学、外国語に精通する一方で、何の躊躇もなく罪なき人々を殺していくこの奇怪な判事との再会により、少年の運命は残酷の極みに呑み込まれるのだった―。『ニューヨーク・タイムズ』紙上で、著名作家の投票によるベスト・アメリカン・ノヴェルズ(2006‐1981)に選出。少年と不法戦士たちの旅路を冷徹な筆致で綴る、巨匠の代表作。

コーマック・マッカーシーを読み始めたのは、『ノーカントリー』(No Country for Old Men)の映画を観たことだった。字幕がなかったから飛行機かどっかで見たんだろう。監督はコーエン兄弟、コーマック・マッカーシーとコーエン兄弟、確かにこれ以上の組み合わせはありえない。僕の英語能力を考えれば、セリフを追うのに必死だったはずなのだが、すぐにそんなことは気にならなくなった。引き込まれた、というよりも巻き込まれたんだろう、コーエン兄弟とコーマック・マッカーシーが協働した世界に。そして、たぶんこの巻き込まれる、そして押し流されるというのは『ノーカントリー』(この邦題は意味不明だなぁ、しかし)においても、そしてコーマック・マッカーシーの作品においても、重要な意味をもつ。巻き込まれたということは、選択することなどできなかった、ということ。彼の小説に出てくる人物は、ひたすらに押し流されていく。しかし、何によって?

『ブラッド・メリディアン』においてもそうだった、ある人物をのぞいては。この小説においてもっとも際立った印象を与える「判事」と呼ばれるこの人物は裁定者そのものだ。残虐的であり、語学も堪能で、その驚異的な博識をほこり、火薬が欠けたときは火山から硫黄を蝙蝠の蠢く洞窟から硝石を採集し、自ら作り上げる。行く先々で様々なものを手に取り、それをスケッチし、その後に破壊する。神を否定し、戦争こそ人間を人間たらしめている本性だと喝破する。こうした人物の中に訳者はニーチェと『闇の奥』のクルツ大佐を見いだす。無論、判事については、小説のなかで『彼にどんな先行者がいたにせよ彼はその総和とはまったく別の存在であり彼を分割していろいろな起源に還元するための方法はない、というのも彼は自身を分割させないからだ』と語られてはいるのだが。判事の源を具体的な人物に見いだすことはできないし、ニーチェとクルツを足しても判事は出てこない。あるいは彼はそうした位相にはいない。彼は、象徴的な、あるいは抽象的な、「(大文字の)人間」そのものとして考えるべきなのかもしれない。自信はないけれども。ここに登場する判事は『血と暴力の国』に登場するシュガーとは趣が違う。したがって彼は「純粋悪」でもない。
舞台についても少し考えてみるべきだろうか。アメリカでもなければメキシコでもない、〈フロンティア〉についても。ここは莫大な空白であって、西洋的概念としての「人間」(フマニタス)の枠外だった。広大な残余。「人間」の統治も行き届かない領域。そこに乗り込んでいく判事は、先に触れたように行く先々で様々な「未知」を採集し、スケッチし、処分する。それはあたかも「人間」の外部にある「自然」(「野蛮人」も含めて)を採集し、博物館に陳列するという植民地主義の有り様を思い起こさせる。ある事物を西欧に運び、博物館に陳列する、そうした展示会を物へのフェティシズムの巡礼地といったのはベンヤミンだったか。コレクション(これはインディアン討伐隊の、耳で作った首飾りや頭皮狩りを思い出させる)すること、その過程でその事物は本来の意味を剥奪され、つまりは殺される(したがって全てのコレクションは「死んでいる」)。そして持ち主によって分類され、展示される(「これは黒んぼの耳か?」)。つまり、判事のやっていることはそうした行為を極めて具体的な形でやっているに過ぎない。空白地帯で行われるこの過程は、インディアンの虐殺も含めて「人間」の過程そのものだった。
あるいはコンマをほとんど使わず、地の文で会話を描くマッカーシーの文体。ある部分を見ると、とても切り詰められていてミニマルな印象を与える。けれども、自然や動物の描写は驚くほど豊かだし、会話だって(話者にも夜が)とても切り詰められたとはいいがたい。切り詰められている、という印象を与えるのはきっと心情を描写することがほとんどないからだろう。ある意味で、マッカーシーの小説では「自然」も「動物」も「人間」も等しく描写される。「人間」を特権化しないし、「自然」を単なる客体に、あるいは書き割りに落とし込まない。そこにマッカーシーの「人間」観を見いだそうとするのはあまりにも強引だろうか。
とはいえ、こういう読みはあまりにもこの小説を矮小化させてしまっているのではと少し反省する。結論としては面白い+αがある小説。おすすめ。

コーマック・マッカーシーの他の著作の感想駄文は以下の通り。
『越境』
『全ての美しい馬』

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