2010年1月30日土曜日

高橋哲哉 『靖国問題』

二十一世紀の今も、なお「問題」であり続ける「靖国」。「A級戦犯合祀」「政教分離」「首相参拝」などの諸点については、いまも多くの意見が対立し、その議論は、多くの激しい「思い」を引き起こす。だが、その「思い」に共感するだけでは、あるいは「政治的決着」を図るだけでは、なんの解決にもならないだろう。本書では、靖国を具体的な歴史の場に置き直しながら、それが「国家」の装置としてどのような機能と役割を担ってきたのかを明らかにし、犀利な哲学的論理で解決の地平を示す。決定的論考。

さて、靖国問題です。あまり気乗りがしない問題ではありますが。しかしこのAmazonのレビューは面白いですね。冷静にレビューを書いている人がいるかと思えば、直情的に書きなぐった感情的なレビューを書く人もいる。本文で触れているのに、この点については全く触れていないと言い張ったり、「誤読」としか思えないようなレビューもある。きっと自分の主義主張と折り合わずに、冷静さを失って、読み捨ててしまったんだろう。
しかし、この問題は、なぜそんなにある種の人々の感情をかき立ててしまうのだろう。靖国などこうした事象をめぐる、右派と左派(この用語は使いたくないなぁ)の対話というのはなぜか成り立たない。右派の議論は、しばしば論理よりも感情に訴えかける。「日本人ならわかるよね? わからなきゃ君は日本人じゃないよ。」 これに対して左派は彼らのもともとか弱い論理一つ一つに容赦なく反駁を続ける。その反駁が更に右派の感情に訴えかける語りを強化してしまう。そして左派はそれを小馬鹿にする。…ここに対話なんか成立しえないのは明らかだ。これは残念な話だけれど。高橋哲哉は、無視を決め込む人々が多いなかで、体を張ってナショナリストたちに反駁を続けている。その姿勢はやはり評価するべきだろうけれど、その行為はどこにも行き着かない。なぜ対話は不可能なのか。高橋らの批判を考えたとき、こうした反駁は批判ではあるけれども、あくまで外的なレベルに留まってしまいがちだ。これほどまでになぜ靖国問題が人々の感情を揺さぶってしまうのか。これは、靖国問題だけの話ではない。「日本人」というナショナルな共同体について批判することは、批判される側にたつ人々の感情をかき立ててしまう。ナショナリズムとは、何よりもこうした情動的な位相で作用しているものだ。ナショナリズムの情緒的な次元に踏み込むこと、これなしには「徹底した批判」などできない。ガッサン・ハージは、こうした次元に踏み込んだ数少ない研究者の一人であり、彼の著作『ホワイト・ネイション』は最も貫徹したナショナリズム批判たり得ているように思う。彼は、こうした位相をとても重視する。その結果、彼はナショナリズムを分析するにあたっては、精神分析理論を援用しなければならない、と主張する。

靖国問題など、僕の知ったことではないのだけど、関わらざるを得なくなってしまった。つくづくこれは厄介な問題で、とても僕の手に負える代物ではない。個人的には、個人の死はどこまでも個人の死であって、それを国民国家の論理に回収させてはならない、と思う。人が何のために死んだかなんて、誰にもわからないし、それを一つの対象に当てはめることなどできないだろう、ましてやそれを一般化することなど。死人は口なしとはよく言ったものだ。個人の死を国民国家に回収する、これは恐らくすべての国民国家において行われてきたことだ(この意味において、中国も韓国もアメリカもオーストラリアもイギリスも戦死者の追悼を行ってきたではないか、との反駁は正しいし、高橋も本書のなかでそのことを認めている)。個人として死ぬというよりも、国民として死ぬということ。国民国家は人々の生を規律管理するだけではなく、死にまで介入し、それを利用する。私たちは「ゆりかごから墓場まで」、そしてその先までも国民国家の論理に埋め込まれてしまっているのかもしれない。戦死者の追悼や記念日の設定、そこで執り行われる儀式などは、まさしく国民国家のイデオロギーを再生産する装置なのだろう。追悼、死んでいっていった者たちへの共感と遺族の慰撫。こうした儀式はそれに参加する人々の感情を揺さぶり、共感をもたらす。追悼の共同体、あるいは共感の共同体。何よりも追悼式典などは、こうした生き残った人々の結合を強める。我らのために死んでいった者たち、生き残った我々。死んでいった者たちは、美化されていく。卑近な話をすれば、葬式で死者の悪口を言う人などそうはいないだろう。それが、戦死者であっても。戦死した者がどんな残酷な振る舞いをしていたとしても、こうした追悼の場でそれを問われることはない。追悼のなかで戦死者もまた、美化される。戦死者の体に纏わりついているであろう、様々な血はこうして洗い流されていく。追悼の場はどこか「美しく」見える。だから、追悼施設や追悼式典の場はそもそも歴史認識を問う場にはなりえない、と僕は思う。追悼の場で、認識される歴史もまた、すっかり血が洗い流され「美しく」見えてしまう。それはやはり「虚偽」なのだ、と高橋と同様に僕も思う。

この本はよくできているとは思う。靖国を考える上で、基本文献の一つに挙げられるのではないか。よく靖国問題Yasukuni Question"s" という複雑にこんがらがった問題を整理している。ただ、このアプローチが哲学的なのかはよく分からない。高橋氏なりの一貫した論理から、問題を解きほぐし、分析を進めていく。ただ、これがどこまでも政治的な問題である以上、政治性を帯びてしまうのは避けられない。それに拒否感を感じる人がいることはAmazonのレビューを見ればよくわかる。しかし、そうした人はその時、その拒否感がどこに起因するのかを突き詰めた方がよいと思う。この本を保守の人々は、拒否して投げ捨てるのではなく、ある種の問いかけとして受け取ることはできないだろうか。そしてその上でそれに責任を持って応答すること、そして今度はそれに高橋氏が責任を持って応答すること、そんなことは不可能なのだろうか。

ともあれ、彼は靖国問題を、5つの位相に分解する。①感情の問題、②歴史認識の問題、③宗教の問題、④文化の問題、⑤国立追悼施設の問題。①で特に興味深いのは、あまり触れられてこなかった遺族感情からスタートする点。戦死の悲しみを喜びへと転換させる装置として彼は靖国神社を捉える。感情の錬金術。なぜ、20歳そこそこで紙切れ一枚で連れて行かれ、一生帰ってこない、そんなことがあったら普通は遺族は憤りと悲しみに包まれることだろう。けれど、それを喜びとして感じさせるメカニズムが出来上がっていた。個人の死を国民の死として回収し、それを名誉と見なすことによって、国民という共同体を死に向かう共同体へと仕向けていく装置。戦死が評価され、戦死者を出すことが周囲から尊敬の念を浴びることとなれば、そしてその死が無為ではなく、国のためだったと理由付けすることができれば、確かに遺族は救われるのだろう。それが「戦死者の顕彰」に他ならない。靖国神社は「追悼のための装置」ではなく、「顕彰のための装置」なのだ。確かにこのことを混同してはならない。ただ、国家によって、こうした場が設けられるとき、その二つを区分することなどできるのだろうか。死者を顕彰せずに追悼することは可能なのか。もし可能でないならば(僕はこれは不可能だと思う)、別に「追悼施設」を設けたとしても何も変わらない。
また、先述のように、靖国神社をどうのこうのすることと歴史認識の問題はどうやってもつながらない(レトリックを弄せばつながるように見えるかもしれないが)と思う。少なくとも中国政府や韓国政府と靖国問題で「和解」することと、歴史認識とは別問題だろう。
こうして彼なりの議論を押し進めていった先にあるのは不戦論だった。現状肯定的な保守主義の人たちに、これは受け入れられないだろう。もちろん彼の理路からはこうした結論に至るのは必然なのだろうけれど…。

何れにしても、靖国問題が決着したら、万事解決なんてわけはない。あくまで、これは一つの事象に過ぎない。高橋らにしてみれば、それは日本における近代を問う、あるいは植民地主義やポスト-植民地主義の観点から東アジアの近代を考えるための事象だと思うし、保守陣営にとっては、南京大虐殺、「集団自決」、従軍慰安婦のように、特定の対象に焦点を絞って、「美しい歴史」を描き出そうとするためのいくつかの事象の一つに過ぎない。靖国神社など印象的な特定の事象にしぼって攻撃することで、あたかも全体が書き換えられたかの印象を与えようとする、その特定の事象でも、細部を覆そうとすることによって、あたかも全体が書き換えられたかのように喧伝する、こうした戦略を、「自由主義史観」を主張する人々は採っている。従軍慰安婦もしかり、南京大虐殺しかり、「集団自決」しかり。ここに相手を対話をしようとする意図を感じ取ることなどできない。

どこの国の歴史も血塗られている。それを認識することは「自虐」なのだろうか。そもそも、この「自虐」という言葉も、曲者だ。自らを傷つけ、蔑むといった意味合いだろうけれど、このときの「自ら」は単数形ではない、それが意味しているのは、「私たち(日本人)」だ。個人としての「私」とナショナルな存在としての「私たち」が密接に結びついている。彼らは「日本」が傷つけられることを、自らが傷つけられたかのように感じ、苦しんでしまう。恐らくは「日本」が美しくあることを、自分自身が美しくあることとして感じ取るのだろう。これを馬鹿にするのは容易い。けれど、なぜこうしたメカニズムが作動してしまうのかはもっと真摯に問われるべきテーマだろう。靖国問題は、もっと大きな問題の一環に過ぎない。靖国問題が、そのより大きな問いに向き合うための出発点になればいいとは思う。けれどもそれは難しいだろう。

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