2010年1月28日木曜日

比屋根照夫 『戦後沖縄の精神と思想』

前近代時代には日本と中国に「両属」関係にあった琉球国(沖縄)。琉球処分にはじまる帝国日本からの吸収合併の圧力にどのように対したか。帝国日本のアジア蔑視を批判する知性を生み出した沖縄。沖縄戦の惨禍から無戦の思想を紡いだ精神と思想を掘り起こす。

本当は、明石書店の本はあまり買いたくはないのですが。
近現代沖縄思想史、とでもいうべきでしょうか、こういうとすごくマニアックな印象を与えてしまいますね。ただ、比屋根さんの問題関心は一方にはこうした沖縄思想の探求に、他方には基地問題など沖縄が抱え続けている極めてアクチュアルな諸問題へ、という二つの方向に向いています。これらは独立したものとしてはありえず、それらは極めて重要な部分で折り重なっている、そういったことなのだと思います。
だからこそ、彼は各論文(三部に分割された論文集のような体裁となっています)の冒頭には必ず、「今現在」の沖縄での出来事を取り上げる。そしてそれと深く関係するテーマを抽出し、思想的な探求を行う、という手順を経るのでしょう。

この本のなかでとりわけ関心を引かれたのは三点。一つは、本土の知識人の沖縄へのまなざしを探求していること。具体的な人物としては、中野好夫、大江健三郎、竹内好、鹿野政直など。それぞれの分析は必ずしも深いとは思わなかったが、こうした本土の沖縄を巡る言論と、沖縄における沖縄を巡る言論を比較しながら議論をするという試みは面白い。二つめは、近代沖縄思想の探求。伊波普猷くらいしか知らなかったけれど、彼の弟、伊波月城や、伊波普猷を師とし、後にハワイに移住した比嘉静観、あるいはゾルゲ事件に連座し、拘留中に死亡した宮城与徳など、様々な思想が育まれていたこと。そして、それが反-植民地主義、反-帝国主義の色合いを示しながら、東アジアにおける民族自決をめざす諸闘争に深く共鳴を示してきたこと。非戦や不戦の、その先にある「無戦論」を唱えた比嘉静観の思想はとくに印象的。最後に、アメリカ占領下の沖縄思想の探求。たとえば50年代後半、沖縄人民党の瀬長氏の那覇市長当選をめぐる、米軍政府、実業界などの反応とそれを静観した沖縄の言論空間についての分析はとても興味深い。さらに、本書の終盤、中屋幸吉を辿った論文は一読に値する。占領下を生きる沖縄の若者が、自殺を選んだ(やはり選ばさせられた、というべきだろうか)経緯と、彼の迸るような叫びは、とても痛々しい。孫引きになってしまうが、やはりこの一節だけは引用しておきたい。

四十日間も暮らした本土。東京の生活を通じて、常に死の意識の底にうごめいていたものは、沖縄であった。オキナワ。そう今の私は、沖縄という風土の集約的表現としてしか存在しえないことをつくづくと感じる。沖縄に生まれ、育ったボク。オキナワ、あまりにオキナワ人らしいボク。日本人というには、あまりにオキナワ的なボク。オキナワ的思惟方法。オキナワ的現実意識。オキナワ的存在形態とその把握。そうだ、ボクは、あまりにオキナワ的すぎるようだ。ボクにとって、オキナワは、自分の影である。現実的に私の精神的表現であるオキナワ、私の故郷オキナワ。私がオキナワでなくなったとき、私は何になるか。日本人か、国籍不明(正体不明)か。私の生みの親であり、もう一つの私であるオキナワ。私からオキナワがなくなる時があるか。私は、世界人であるべきであり、オキナワ人であってはいけないか。世界をオキナワからみてはいけないか。


中屋幸吉については、仲里効も『オキナワ、イメージの縁』で取り上げていた。あの本は沖縄研究のなかで、特に反復帰論の研究のなかで極めて重要な著作だと思う。そして仲里効は、沖縄をめぐる、今最も注目すべき批評家/研究者の一人であることは間違いないだろう。

なぜか仲里さんで〆てしまった。比屋根さんの研究はとても重要なのはいうまでもありません。今は宮城与徳に関する執筆と、ソ連に連れて行かれ、粛清にあった沖縄人青年に関する研究を進めているようです。

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