2010年2月1日月曜日

池内恵 『現代アラブの社会思想』

なぜ今、終末論なのか。
なぜ「イスラームが解決」なのか。
学術書からヒットソングまで渉猟し、苦難の歴史を見直しながら描く「アラブ世界」の現在。

終末論の地層――イスラーム教の古典的要素にさかのぼることのできる要素の上に、近代に入ってから流入した陰謀史観の要素と、現在に流入したオカルト思想の要素が、いわば地層のように堆積して、現代の終末論は成り立っている。そして、イスラーム教の古典終末論の要素にも、また積み重ねがある。イスラーム教はユダヤ教・キリスト教から続く「セム的一神教」のひとつである。ユダヤ教とキリスト教が発展させた終末論体系を基本的に継承しており、両宗教から受け継いだモチーフがかなり多い。その上に「コーラン」や「ハーディス集」によってイスラーム教独自の修正や潤色が加えられている。

2002年に大佛次郎論壇賞を受賞した新書。品切れにさせておくのはもったいないよ、講談社さん。とっても面白いのだから。
2002年1月、9.11から数ヶ月後にこの本が刊行されたということは、その前から練り上げられていた企画だったんでしょう。2002年から2004年くらいまで、イスラーム関係の新書が多数刊行されることになりますが、ここまでまともに分析した新書はなかったのではないだろうか。まとも、というのは、勝手なイメージを作り上げ、それに合うような素材を持ち出して、虚構のイスラーム像を構築しようとしていない、という意味だ。あるいは、イスラームを論じることによって、それに対置される日本や「西洋」を見いだそうとするのではなく、あくまでイスラームを見ようとしている。彼は、イスラームやアラブ諸国(特にエジプト)の現実を捉え、同時にその背景を思想的にえぐり出そうとする。

したがって本書は、イスラーム社会思想史とでも呼べるだろうか。イスラーム思想はもともと僕に未知の領域だった(恐らく多くの読者にとってもそうだっただろう)し、現代のオカルティズムの流行や陰謀論などはその存在すら知らなかった。だから、著者の意図に反して、本書がイスラームの「狂信性」を植え付けることになってしまったかもしれない。
ともあれ、この本は1967年以降のイスラーム思想の展開を論じている。大まかに素描すれば、マルクス主義と民族主義の混淆としての「人民闘争」論が破産した後に、イスラームへの回帰にその行き詰まりの打開を見いだそうとする思想、「イスラーム的解決論」が台頭する。しかし、そうした思想は、イスラームに帰ればすべてがうまく行く、といった程度の思想でしかなく、広く人口に膾炙したものの、それは現状に対するひたすらのアンチテーゼでしかなかった。他方で、「アラブ現実主義」が政治的主導者によって唱えられる。しかし、人々が政治的主体として振る舞うことが困難な事態が続いていることからすれば、民衆にはその不満を解消するための具体的な路はない。
そんな背景から一方では、過激な「原理主義」が台頭し、他方では終末論や、さらにはユダヤ人陰謀論、オカルティズムなどが民衆に浸透していった。ざっくり言ってしまえばこういうことだと思うけれど、多数の文献や史料の分析などによってこうした整理が大きな説得力をもって読む者に受け入れられるだろう。池内氏の分析や論旨展開は極めて明晰かつ真っ当なもののように感じられた。ユダヤ人陰謀論やUFO、バミューダ・トライアングル(懐かしい響きだ)がなぜイスラームの思想と結びついてしまうのか、どうやって整合性を担保しているのか、ということは容易には理解しがたいことだけれども、そうしたことに行き着いてしまうこと事態が、何よりも今日のイスラーム思想の閉塞感を表しているのだろう。オカルティズムをめぐるノーマン・コーンからの引用も効果的。

こうした思想の行き詰まりを露にさせていく行為は非常に苦痛だった、と著者はあとがきで述懐している。恐らくはイスラーム思想の研究者としての本音だったのだろう。イスラームが「隔絶された他者」でなくなってきている今日だからこそ、その等身大の姿を描こうとした、と彼は語る。そしてこれ以降の彼の著作・論文も、そうした問題意識の上に成り立っているように思う。品切れ状態みたいですが、かなり売れた本のようなので、古本屋などに行けば容易に見つかるでしょう。

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