2009年9月29日火曜日

ヨシフ・ブロツキー 『ヴェネツィア 水の迷宮の夢』

本書は、アメリカ亡命後の72年から17年の間、ほとんど毎年のようにヴェネツィアを訪れた詩人の、ヴェネツィア滞在の印象記。彫琢された、美しい文章 の、散文詩のような51の断章からなる。ヴェネツィアの水と光をモチーフに、多くの隠喩やアフォリズムを織り込んだフーガのような作品。ノーベル賞受賞作 家の小説、本邦初紹介。

150ページ足らずの短い小説(というより随想だと思うけど)。ここ10日間くらいかけてじっくり読みました。寝る前に少しずつ。なんといえばいいのかわからないけれど、文章というものがここまで色彩豊かに、質感を伴った形で立ち現れてくるんだなぁ、と感じざるを得なかった。終わって欲しくなかったし、ずっと読み続けていたかった。ことあるごとに読みかえすであろう1冊。引用したいというよりも、自分に刻み込むために手元に控えておきたい!そう思うような箇所が幾つもあって、けれどそんなことをするよりもこのままブロツキーのリズムにたゆたう方が心地いいから結局そのままにしてしまった。そう、なによりも心地いい。装丁もシンプルでいいなぁ。

2009年9月28日月曜日

ジョナサン・キャロル 『天使の牙から』

「死にかけてるのってどんなものかって?もう生きてないんだ。バランス取ってるだけ」男は癌で余命幾許もないかつてのTV の人気者。「人生でほしいと思うものには必ず牙があるのよ」女は若くしてハリウッドを去り隠遁生活を送る元女優。男は死神から不思議な力を授かり、女は報 道写真家と恋に落ちた…やがて二人は戦慄に満ちた邂逅をとげる。愛と死の錬金術師が紡ぐ傑作。

この本のことをどこで知ろうと思ったのか。ここ1年の間に誰かに薦められたと思うんだけど、それが誰か全く憶えていないしどんな風に薦められたかも憶えていない。気付いたらリーディング・リストに書き込んであって、ふと書店で見つけて読んでみた。

あっさり読んでしまったけど、今年読んだ小説のなかで印象に残ったものの一つ。出だしの奇妙としかいいようのない話から、一気に引き込まれてしまい、ラストまでそのままの勢いで読んでしまった。
けど、ただのスリリングな勢いだけの小説じゃない。なんていえばいいんだろう…生/死、天使/悪魔、現実/夢などの二項対立について、小説という形態はこういうアプローチをすることができるのか、という驚きがあった。こういう紋切り型の図式に対して、それを外的に反駁するか、内破(脱構築)する、というのがいわゆる哲学や思想の領域で行われることだと思う(この時点で間違っていたらすみません)。けど、文学は、あるいはこの小説は、その間をただ漂泊する。生と死が自在に交錯し、死者は生者と邂逅を果たし、夢は記憶よりも鮮明な現実であって、夢は記憶よりもリアルなものになる。何を言ってるんだろう?と自分でも思うけれども。

人が「死神」に勝つことはできるのか?人は限られた時間しか生きることはできない。始まりがあり、終わりがある。終わりとは死であり、人は死を免れることはできない。死を司る何か、生と死の線引きを行う何かを「死神」と呼ぶならば、それに勝つ術などないような気がする。死はどこまでも「リアル」なものであって、それは私たちの理解の外部にある。死を象徴化することはできない。それが私たちの間近に現れたとき、結局のところそれに恐怖するしかないのだろう。

そういえば星新一のショートショートにこんな話があった。ある男が犯罪を犯し、廃墟の後に刑務所と化した火星に送られる。火星には水がないが、囚人たちはみなある機械を手渡され、その機械のボタンを押すことで水を得ることができる。しかし、その機械には爆弾が仕込まれていて、ボタンを押した時にランダムでその爆弾が起動するように設計されている。男は渇きに迫られ、恐怖で気が狂いそうになりながら水を得ようとボタンを押し生き延びていく。あるいは途中で気が狂ってしまったのかもしれない。その後に彼は気付く、結局のところ「何も変わらないのだ」と。死はいつかやってくるし、それを避けることなどできない。地球でも、火星でも、私たちは日々、ある意味では死を引き寄せながら毎日を過ごしている。大きな違いがあるとすれば、それが「可視化」されているかどうかという点かもしれない。1杯のビールと火星の水発生装置、これは「それが死を招くかもしれない」と言う意味では等価だけれども、「可視化」の度合いが相当に違う。火星の装置は死と直結しているように見えるがビールはそうは見えない。あと、この小説を読んでいて思ったことだが、星新一はここにもう一つの違いを見出すべきだった。(あるいは見出してて、僕が忘れているだけかもしれないけど) それは周りを誰かに囲まれている、ということだろう。私たちの生活は、ある時点までは(その時点がいつやってくるかは誰にもわからないけれど)、「死」の相手をしているほど暇ではないのだろう。私たちの日常は、色々なことに満ち溢れている。死を間際にしても光と影で遊んでいた子どものように、私たちはいつでもそこに楽しみや喜びを見出すことができる。それがキャロルにとっての希望であるし、繰り延べでしかない束の間の勝利なのだろう。

2009年9月27日日曜日

イワン・トゥルゲーネフ 『初恋』

16歳の少年ウラジーミルは、年上の公爵令嬢ジナイーダに、一目で魅せられる。初めての恋にとまどいながらも、思いは燃え上がる。しかしある日、彼女が恋 に落ちたことを知る。だが、いったい誰に?初恋の甘く切ないときめきが、主人公の回想で綴られる。作者自身がもっとも愛した傑作。

今更ですが。さくっと読んでしまったので、何を書くべきか困ります。冒頭、3人の男が館の中で初恋の経験について話し合う。主人は誰なの?とかなんでこんな構成にしたの?とか不思議ですが。まぁ初恋=回想、告白っていうのは今も同じですけど、大の大人が3人集まって初恋体験について話し合うってのも変な感じ。まぁそれも今も同じなのかもしれませんが。
しかし、まぁ甘酸っぱい話を期待しちゃうとびっくりするよ、というのは昔から聞いてた話なのでこんな話だったのか、と思いながら読んでいました。全然関係ないけれども、この小説の舞台である別荘がある土地が、チェーホフの『中二階のある家』という短編に出てくる田舎となんだか似てるようなイメージを抱いてしまったので重ね合わせながら読んでいました。
社会的背景と全く無縁にも思えるこの初恋の体験談のなかにも、色々織り込まれているような気がして、それはそれで興味深かったですが。この父子関係やら、ジナイーダのことやら、没落した公爵のことやら、フランス語やら。でもそんなことを考えてもなぁ…。まぁ、初恋って叶わないもんだよねー、くらいの感想しかもてなかった自分にもがっかりですが。正直そこまでの名作とも思えなかったんだけど、感性の乏しさゆえですかね。

清水高志 『セール、創造のモナド』

ポスト構造主義の限界をえぐり出し、西田哲学との通底性を探り出す本格的なミシェル・セール論。ミシェル・セールの哲学が、いかなる独創を有し、またどのような意図を持ったものであるかを解明する。

ミシェル・セールが気になっていて、けれどもただ読んでいくと彼の文体に幻惑されてなんだかわからぬままに終わってしまう、そんな危惧もあって彼の思想に分け入る指針のようなものを探していて手に取った本。まぁ勿論彼の文章に陶然となって引きずり込まれる経験をするという手もあったのだけれど。
しかし、まぁなんというか僕にはえらく難解でした。何回挫折しそうになったことか。セール自身の思想は「従来の思想」との相違という形をとって丁寧に繰り返し説明しているので読んでいくうちにつかめるだろう。だけど、その前提としてライプニッツ以降の哲学史についてのある程度の理解が必要とされる。とりわけライプニッツの解釈についての「従来の」思想史の中での理解、という点があまりに僕が知識が浅かったので、セールの思想の特異性というのをぼんやりとしか掴むことはできなかった。これはとても惜しいことだったと思います。ただ、基本的に他の思想家との比較、対比に基づいて議論を進めていて、セールの思想の重要な要素についてはかなり繰り返し指摘してあるので、背景知識が欠けていても我慢して読んでいけば少しずつ、分かってくる…かもしれない。しかしセールといわゆる「ポストモダン」の思想家との隔たりは、とりわけドゥルーズとの隔たりはそこまで大きいのかなぁと思ったりもした。とくにドゥルーズの内在平面が、それが全てを内在する「一=全体者」を志向しているとする批判。こうやって言葉で書いていると「あぁ、そうかもしれない」とも思ってしまうんだけどどうもすっきりしなかった。とりわけ最終章の西田における「場所」についての考察を読んでいくなかで。いや、ドゥルーズの議論にそういった「限界」があるのか、ということに僕が思い至らなかっただけのことなんだろうけど。むしろ、僕は内在平面というものをここで扱われるような西田における「場所」に近いものとして捉えていた。まぁそれが単に誤読だっただけかも知れないけど、そうした方向にドゥルーズを読み深めることもあるいはできるんじゃないか、とか思ったりもしました。最終章だって、西田の思想についてもう少し読んでいれば、きっと面白い発見が幾つもあったろうなぁ。
とにかくもっと勉強しなきゃ、と。それに尽きますね。そしてまた読み返したいなぁ。『来るべき思想史』、すぐに手を出そうか、すこし後にしようか。

…やっぱり思い直したんだけれども、このドゥルーズ批判はいかがなものかと。バディウのドゥルーズ批判を検証なしに受け入れてしまっているのではないかと感じます。バディウのドゥルーズ理解はあまりにも一面的だし、彼の批判自体は極めて恣意的なものだと思うことがある。そしてセールが語るドゥルーズについても、もう少し注意深くなる必要があるのかもしれない。

2009年9月22日火曜日

青木淳悟 『四十日と四十夜のメルヘン』

配りきれないチラシが層をなす部屋で、自分だけのメルヘンを完成させようとする「わたし」。つけ始めた日記にわずか四日間の現実さえ充分に再現できていないと気付いたので……。新潮新人賞選考委員に「ピンチョンが現れた!」と言わしめた若き異才による、読むほどに豊穣な意味を産みだす驚きの物語。綿密な考証と上質なユーモアで描く人類創世譚「クレーターのほとりで」併録。

なんだかここんとこ日本の最近の若い作家さんの作品を読んでばかりですが。読んでるとそこそこ面白かったんだけど、読後になるとどうも感想を書きづらい。困ったことですね。『四十日と四十夜のメルヘン』もまた然り。駄作か傑作かと聞かれたら、「まぁ傑作っていうには程遠いかなぁ」としか答えようがない。読んでる時はそれなりに楽しいんですけどね。「チラシの裏」は日記というか、どうでもよくて誰のためにもならないようなぐだぐだした記述を書くところ。ネット掲示板で、かつてはそんなことを言われたものですが、この小説ではそのチラシの裏になんだかよくわかんないメルヘンを書いてみたり。けど最近は裏紙の使える広告ってほとんどないんですよね、わかります。
さて、この小説は迷宮ってほどかっこよくはないけれども、どこか歪な感じ。なんだか下井草だかそのへんのどうでもいい描写から始まり、隣駅のスーパーが安いとか、駅の出口が片方しかないのは商店街の陰謀だとかこれまたどうでもいい話になって、お師匠さんと仰ぐなんとか先生の小説についてながながと。読んでいるとなんかおかしいなぁ、ってなって最後は「あれ?」ってなる。読んでいく途中で出てくる話はどっか前に出てきたことあるなぁ、って思ったり、気づいたらなんとなく人が代わってたり。別に適当に書いてるってわけじゃなくて、まぁ確信犯でやってるのが若干見え透いてるあたりがやらしいとこですが。ただ、僕の場合「あれ?」とは思ったけど読み返そうとは思わなかったですね。なんか億劫で。これ読み返す時間あったら別の本読むかなぁ。つまらないってわけではないですが。ついでに言えばこの文庫本、級数大きいよね。もっと小さくしてページ数減らせばよかったのに。文庫でこのサイズだとかえって読みにくいんですけど。

あぁそうだ、ピンチョンは現れていませんので、ご安心を。『ヴァインランド』、ようやく次回の配本ですか。まぁ新訳じゃないし、さっさと新潮版を買えばよかったとも思うんだけどなぜかここまで待っちゃいました。早く読みたいなぁ。

森見登見彦 『夜は短し歩けよ乙女』

「黒髪の乙女」にひそかに想いを寄せる「先輩」は、夜の先斗町に、下鴨神社の古本市に、大学の学園祭に、彼女の姿を追い求めた。けれど先輩の想いに気付か ない彼女は、頻発する“偶然の出逢い”にも「奇遇ですねぇ!」と言うばかり。そんな2人を待ち受けるのは、個性溢れる曲者たちと珍事件の数々だった。山本 周五郎賞を受賞し、本屋大賞2位にも選ばれた、キュートでポップな恋愛ファンタジーの傑作!

さて。今日二冊めですが。
これだけ読みながら吹き出したり、ニヤニヤしながら読んだのは久しぶりです。「あー、わかるわかる…」って共感してしまうあたり、ダメ人間ですが。古本市のくだりは諸手を挙げて同意せざるを得ないし(図書館や古本市が好きなダメ院生なら誰だって妄想したことある…よねぇ?)、学園祭のところでは涙を禁じえない(まぁ大学の学園祭には結局足を踏み入れなかったけれども)。古本屋の神様は個人的には信仰してるし、だってじゃないと偶々足を踏み入れた古本屋で欲しかった本が偶然に見つかるなんてこと、普通ないでしょう。神保町の古本検索で見つからなかった本が、すぐに最初に足を踏み入れたお店で見つかる、なかなかないよね、こんなこと。
じゃなくて、『夜は短し歩けよ乙女』の話。このストーリーも舞台も文体も、全てがぶつかっていない。よく似合っている。繰り返しになるけれども、この主人公のダメっぷり(ってか学園祭でこれだけ突っ走れるんならもっと早くなんとかできるだろうに)には共感してしまうし、風邪を引いた時に「咳をしてもひとり」を思い出してしまう気持ちもよく分かる。この黒髪の乙女も乙女でかなり変わった性格(というか思考回路)だし、こうゆう女の子に恋に落ちてしまうダメおとこって、うーんわかるなぁ、と。
まぁちょっとこの小説はあまりにも共鳴するところが多かったので、僕は大好きです。っていうか客観的な評価なんかとてもできません。僕の周りには好きそうな人多いかもしれませんが。

2009年9月21日月曜日

奥田英朗 『サウスバウンド上・下』

小学校6年生になった長男の僕の名前は二郎。父の名前は一郎。誰が聞いても変わってるという。父が会社員だったことはな い。物心ついた頃からたいてい家にいる。父親とはそういうものだと思っていたら、小学生になって級友ができ、よその家はそうではないことを知った。父は 昔、過激派とかいうのだったらしく、今でも騒動ばかり起こして、僕たち家族を困らせるのだが…。―2006年本屋大賞第2位にランキングした大傑作長編小 説。

元過激派の父は、どうやら国が嫌いらしい。税金など払わない、無理して学校に行く必要なんかないとかよく言っている。そんな父の考えなのか、僕たち家族は東京の家を捨てて、南の島に移住することになってしまった。行き着いた先は沖縄の西表島。案の定、父はここでも大騒動をひき起こして…。―型破りな父に翻弄される家族を、少年の視点から描いた、新時代の大傑作ビルドゥングスロマン、完結編。


なかなか面白かったです。奥田英朗、敬遠してたんだけど食わず嫌いはよくないですね。
過激派だか、1968年だかにもう辟易って思っていたので長らく読んでこなかったんですが、これは面白かった。なんだか昔の事を思い起こしながら傷を舐め合うような図式にうんざりしてたんだけれども。まぁこの小説もそんな雰囲気がなくはないけれども―両親の理想主義的なとことか―、基本的にはそうした運動にうんざりした「元・活動家」という設定だったので受け入れられたのかも。西表に行く前と行ってから(文庫だと上巻と下巻)ではだいぶ風合いが違うけれども、どちらも好きですね。西表の世界を前‐資本主義的な互酬制の社会として描いて、それを理想化しているところはそれでいいのかなとも思いましたが、まぁ最終的には更にその先の理想の世界まで行っちゃうわけで、そこまで突っ走るんならまぁそれはそれでいいのかな。とはいえ、沖縄やら石垣やらに「癒し」を求めて出かける人々と、この家族がどれだけ違うのだろう?
まぁいいや、なんだかスカスカな感想ですが。

2009年9月15日火曜日

加藤周一 『言葉と戦車を見すえて』

「プラハの春」を弾圧するためにソ連軍戦車がチェコの首都に侵入した1968年の事件についての鮮やかな論評「言葉と戦車」を中心に、1946年の「天皇 制を論ず」から2005年の「60年前東京の夜」まで、著者が何を考えつづけてきたかを俯瞰できる27の論稿群を集成。たんなる学究の徒の貌ではなく、現 実の政治と社会に対する透徹した思考と強靱な思想が屹立する。全篇発表時の初出より収録。

昨年亡くなった加藤周一の論文集。岩波から全集(なのでしょうか?)が出るみたいですが。
彼の記述は理路整然という言葉がぴったりと当てはまる。ここまで理詰めで語られると反駁しにくいだろうなぁと思いつつ。「知識人」「理想主義」「民主主義」「日本」などのキーワードを軸にしながら彼はこれまで実に多様な分野で様々に意見を表明してきたのだなぁ。「知の巨人」という謂いがいいのか悪いのか、というか意味があるのかないのかわからないけれども、彼の誇る圧倒的な知識量、そしてそれと周囲から得る情報を元に、あくまでも合理的に意見を引き出してくる手法は、最近の、殊に若手の知識人(そんなひとたちがいるかどうかすらも怪しいものだけれども)には見られないものだろう。竹内や丸山がもっていて、無論加藤周一ももっていた「思想」のアクチュアリティとでもいうべきもの、それが失われてしまって久しいような気がする。「思想」をもつ、ということを最近考える。どこかからの借り物ではなく、自身に根ざした「思想」をもつこと。ナショナリズム然り、マルクス主義とかのイデオロギー然り、それはただの借り物に過ぎない。そんなの空っぽだよ。けどそれは他の人の思想に全く頼るなということではない、大事なのは、その中で自分の思想を自身の「根っこ」に根ざしたものとして育んでいくことでしょう。それは簡単な道じゃないし、借り物の思想を引き受けてしまうだけのほうが楽に決まっている。こんな偉そうなことをいっている僕だって、自身に根ざしたものとしての思想が立ち上がっているかといわれたら怪しいものだ。もっと知識と時間、自分で考えようとする時間も必要だ。けれどもそうしなければ「思想」というものがこの世界で意味を成さなくなってしまう。それはこれまで人間が続けてきた営為を踏みにじることだろうし、「思想」を失った人間が「人間」足りうるのかも怪しいものだ。

完全に話が逸れた。加藤やこの世代、あるいはこの前の世代も含めた知識人が抱いていた思想、彼ら自身の生と深く結びついた思想を、もっと僕は吸収していきたいと思う。話が逸れたついでに言うならば、これら世代の知識人のなかの過ち―その中の幾つかは決定的なものだ―を弾劾するのは容易い。けれども、それが単なる弾劾に留まっていたら、それは全く生産的な行為ではない。重要なのは、彼らがなぜ過ちに陥ってしまったのか、彼らをそこまで駆り立てたものは何か、その過ちに気付いた後彼らはどう対処したか/しなかったかをしっかりと認識することなのだろう。加藤の幾つかの知識人論を読みながらそんなことを考えていた。

最後に。この成田氏と小森氏の解説は全く意味を成さない。誰が解説でそれぞれの論文を冗長と要約することを期待しているのか、この両編者は考えてほしい。小森氏がなかば「身体的ともいえるほど」の危機において加藤の論文に救われたというならば、加藤が一貫して問題化してきたことを、自身がどのように引き受けたのか、あるいは批判的にではあってもそれを継承してきたのかをじっくり考え記述してほしかった。小森氏だからこそ、あるいは成田氏だからこそ書けるはずのことがあるだろうに。こんな解説は誰にでも書けるし、なくても誰も困らない。

2009年9月13日日曜日

エリオ・ヴィットリーニ 『シチリアでの会話』

スペイン内戦に強い衝撃を受け、反フランコの活動に身を投じたヴィットリーニ。本書はファシズム当局の弾圧に脅かされながらも版を重ね、来るべき反ファシズムレジスタンスの精神的基盤となる。パヴェーゼ『故郷』と並ぶイタリア・ネオレアリズモ文学の双璧。

あちこちで薦められていたヴィットリーニ。ようやく読みました。読み終えた後にすぐに読み返す。こんなことはなかなかないのだけれども、そうせずにはいられなかった。黙示録的でさえもあるような、謎めいた寓話的な物語。漠然とした「不穏さ」があり、それは反復を多用する文体によって増幅される。これをネオリアリズモ文学を代表する作品として、そして反=ファシズムの基盤となったものとして認識している読者はきっとこのアレゴリーの先にあるものをぼんやりとであっても掴むことができるだろう。位置づけとしてはビクトル・エリセの『ミツバチのささやき』に近いものがあるかもしれない。内容云々ではなく、あくまでも外的な条件において、ではあるけど。鷲平さんの解説はこの小説の解釈を大いに助けてくれる。ぼんやりとした印象をくっきりと、ピントを合わせるように明らかにしてくれる。あまりにも「解読」的な性質を持つことが、この小説の広がりを妨げてしまうことになるかもしれないが、むしろ僕にとっては彼女の解説は読み返すに当たっての裁量の指針になってくれたようにも思われた。

2009年9月10日木曜日

芹沢一也他編 『フーコーの後で 統治性・セキュリティ・闘争』

コレージュ・ド・フランス講義録を媒介に、1970年代後半のフーコーの問題系にフォーカス。 この時期のフーコーの関心は、社会防衛、セキュリティ、統治論、自由主義論などに あり、それらは私たちの(たとえば現在の日本の)日々の問題の核心とつながっている。 気鋭の論客たちが、理論、運動 - 政治、社会それぞれの側面から、フーコーを読み、 使いまわし、今日の社会・世界に向かう新たな視座を提示する。

フーコーを、とりわけ「後期」のフーコーを使うこと。彼の思想をただなぞり紹介する、そうではなく彼の思想を掴み、それを自身の思想に組み入れつつ、論考を組み立てていく。そんなコンセプトに基づいた論文集。

なかなか面白い論考があって、読みがいがありました。フーコー自身の思想についてある程度含蓄があれば、彼らの議論に共鳴したり反発したりすることができるはず。フーコー講義集成そろそろ手を出そうか、と思っているけれども、仕事の関係もあって、ちょっとムリかも…。ハイデガーを中心にドイツ哲学を勉強しなければならなくなりそうなので。

話を戻すと、高桑さんの「インセンティヴ」概念とフーコーを組み合わせる論考はとても面白かった。まだ単著ないんだなー、色々翻訳は多いけれども。あと芹沢さんも箱田さんも、そして最近気になる廣瀬さんも、それぞれ面白い論考ですよ。通して読んでいると、ぼんやりとフーコー思想が3Dで浮かび上がってくる…ような気がするのも面白いですね。もちろん3Dを見るには色眼鏡が必要ですが。

フーコーの思考を、アガンベンは強制収容所という空間に引きずり込んだ。それはある人から見れば酷く強引なやり方だったのかもしれないし、アガンベンの『ホモ・サケル』における議論にはフーコーの恣意的な解釈が多い、とかもよく聞く話だ。けれどもあとがきで芹沢さんが引用したフーコーの言葉を借りれば、彼はフーコーを「利用し、それをねじ曲げてキーキー言わせた」のかもしれない。アガンベンが例外状態の恒常化というとき、私は第二次世界大戦後に世界各地で起動するアメリカによる軍統治、<占領>のことを想起せざるを得ない。この<占領>について、フーコーの思想を上手く「使った」研究はないものだろうか?

2009年9月2日水曜日

ルイ=フェルディナン・セリーヌ 『夜の果てへの旅 上・下』

全世界の欺瞞を呪詛し、その糾弾に生涯を賭け、ついに絶望的な闘いに傷つき倒れた“呪われた作家”セリーヌの自伝的小説。上巻は、第一次世界大戦に志願入隊し、武勲をたてるも、重傷を負い、強い反戦思想をうえつけられ、各地を遍歴してゆく様を描く。一部改訳の決定版。
遍歴を重ねた主人公バルダミュは、パリの場末に住み着き医者となるが―人生嫌悪の果てしない旅を続ける主人公の痛ましい人間性を、陰惨なまでのレアリスムと破格な文体で描いて「かつて人間の口から放たれた最も激烈な、最も忍び難い叫び」と評される現代文学の傑作巨篇。

バタバタしているうちに放置気味でした。
あまり読書に時間が割けないようになり、なかなか進みません。そんななかでようやく『夜の果てへの旅』を読了。朝の通勤ラッシュの中で読むセリーヌはなんともいえないですね。僕の後ろに立っていた人は、「朝っぱらからなんて本読んでるんだ」、って思ったことでしょう。

なんて凄まじい呪詛だろう、資本家への、国家への、家族への、戦争への、人々への、自己への。人間の禍禍しい生き様を、全ての上っ面を剥ぎ取ったその中にある醜さを(あるいはその空虚を)、バルダミュ=セリーヌは暴き続ける。時に辟易し、読み飛ばしたいと思いながらも、結局読み進めてしまいました。モリーとの別れのシーンは非常に心に残った。そこには何かきらきらしたものがあるような気がして、他が仄暗さに包まれている分、一層。そう感じてしまうのは僕の「若さ」なのだろうか。バルダミュが「世界が閉じられてしまった」と感じた時、そして「自分の番が終わった」と感じた時の心情を、僕は理解することはできなかったように思う。「なしくずしの死」へと向っていることを認識すること、それは僕には難しい。まだこの小説を読むには早かったのだろうか?