2009年5月27日水曜日

今福龍太 『身体としての書物』

書物はたえず世界へと生成する!
ボルヘス、ジャベス、ベンヤミン、グリッサン・・・。作家、詩人、思想家たちの独創的なテクストを読み解きながら開示される、「書物」という理念と感触をめぐる新たな身体哲学。

ってゆうかこの1年間の今福龍太さんの刊行ペースはどうなんでしょう。去年の5月の『ミニマ・グラシア』(岩波書店)を皮切りに、11月には『ブラジルのホモ・ルーデンス』(月曜社)、『サンパウロへのサウダージ』(みすず書房)、『群島‐世界論』(岩波書店)…岩波から出た2冊にしたってかなりの分量があった気がするし、書き溜めていたものをここのとこでまとめて刊行したってことなんですかね。『群島‐世界論』はあの巻頭の地図にやられかけましたが、踏みとどまってしまい買ってません。なんとなく面白そうだけど、何やってるのかいまいち分からない、そんな研究者の一人です(まぁ例によって僕が悪いんですが)。

さて、そんな彼が外語大で行っているゼミナールの講義録(のようなもの)が本書です。
書物とは何か?書物の本質とは何か?そんな問いを提起した上で、ボルヘスやジャベス、ベンヤミンなどを読み進めながら、その問いについて考え、問いを立て直していく、そういった内容となっています。そしてそれに答えようとするのではなく、問いを絶えず更新し続け、思考を深めていく。実際にはその答えは開かれているといいつつも、彼は幾つかの鍵となる喩えを挙げていくことになりますが。試みとしては面白い。
「身体」、「図書館」、「砂漠」、「水」、「はじめての本」、「水牛」…、様々な書物に登場するメタファーを通じて、彼は書物の多様性/多義性を洗いなおしていく。しかし、「書物としての身体」というタイトルに現れるように最終的には、身体性や感覚といったものに書物の本質を見ているような印象を受けました。それがいいのか、悪いのか。身体性からの乖離が問題なのか、それを呼び戻すことが必要なのか。ノスタルジーを批判しつつも、彼はやはりそこに帰っているのではないか。いやそうではない、ベンヤミンにおける「憧憬」が、完全には取り戻すことのできない過去をそれでも希求し想起し続けることによってそれがその人の生の錘となる―したがって現在、未来へと投げ返される性質をもつ―ように、身体性を呼び戻そうとする営為それ自体によって、新たな書物との関わり方が生まれるのだと今福は考えているのだろう、など色々な意見がありそうですが。

ところで「身体としての書物」と「書物としての身体」は何が違うのでしょう?
「身体としての書物」とは書物自体に身体性がはらまれていること、これはその文字や単語それ自体が身体性を帯びているのだという理解から、書物は誰かによって書かれる、その書き手と書かれるものとの格闘(それはまさしく身体的なものでしょう)の痕跡が、一見書物においては消え去っているように見えても実際にはどうしようもなく刻み込まれているのだという理解、更には読むという行為それ自体が身体とは切り離された行為ではありえない―書物を読むという行為は、その内容や言葉を(そこに直接は登場しないものも含めて)自らの身体に刻み込むことでしかありえない―とする理解など、非常に様々に解釈することができます。今福は(恐らくは)そうした多義的な理解を踏まえたうえで、「身体としての書物」という地点に到達したのだとは思います。さて、他方の「書物としての身体」とはどういったものになるでしょうか。これを言い換えると、「私たちの身体は、一種の書物である」となります。私たちの身体には断片的かつ無数の書物の集成ではないか、「書物としての身体」とはこうした問いを提起します。私たちがいかにして私たちであるか、私たちが喜び、怒り、悲しむ際の基準、度合い、やり方、あるいは考え方、世界観、価値観、使う言葉、語彙、マナー、振る舞い、こういったもの全てが書物によって規定されているのではないか。そうであるならば私たち一人一人の中には、各々の書物があり、それは絶えず書き換えられ、更新されている。私たちは本を読み、映画を見、美術館に通い、テレビを見、友人と語らう。それらによって私たちの「書物」は絶えず書き換えられていく。したがって、その書物は同じものではありえない。しかしどんなに内容が変わっても、それは同一の本である。ベンヤミンの「1900年頃のベルリンの幼年時代」のように。そんな発想はあまりに現実離れしているのだろうか。これを推し進めれば、「あらゆるものはテクストである」に行き当たるわけですが。

とはいえ、僕は本を読み続けています。理由を聞かれてもうまく答えられず、いつも「習慣だから」とか嘘ついていますが。そうそう、須賀敦子さんのエッセイで興味深い場面があります。彼女がフランスに留学していた時にカトリック左派の指導者がデモに際して人々にこう語りかけます、「このデモのあいだ、君たちにとって『精神のパン』とは何かをよく考えてください」、と。
「精神のパン」とは何か?パンについては次のように考えることとします、私たちが味わい、咀嚼し、消化し、栄養素を抽出することによって自身を再生産させていくものだと。であるならば「精神のパン」とは、「精神」においてその役割を果たすものに他ならないわけです。
だから僕はこう思うのです、僕にとって書物は精神のパンなのだ、と。その文章を味わい、噛み締め、時に喉につっかえつつも体内に送りこみ、取り入れられやすい状態に消化し(牛だったら反芻するところですが)、栄養素を抽出し、新たに自分自身を組成しなおしていくものだと。

2009年5月23日土曜日

村岡晋一 『対話の哲学―ドイツ・ユダヤ思想の隠れた系譜』

〈わたし〉は世界の中心ではない。〈あなた〉から語りかけられるときに初めて〈わたし〉が生まれる。コーヘン・ローゼンツヴァイク・ローゼンシュトックなど、本邦未紹介の近代ドイツのユダヤ哲学とフンボルトの「双数的」言語論を起点に、プラトン以来2500年の自己中心主義の呪縛を解く。

講談社メチエは割りと好きです。講談社自体はさほど好きでもないですが。いわゆる「出版不況」の風を受けて完全に浮き足立っている、可哀想になるくらい迷走してしまってます。この会社は近いうちにこのシリーズからも手を引いてしまうんじゃなかろうかと、心配になりますが。オピニオン誌を休刊にしたかと思えば、アフタヌーン新書なる意味不明且つ有害無益な新書を創刊して、かたや他社と協同してブックオフの筆頭株主になったり、ネット上でコミックを無料かつ同時に公開したり(その割にはホームページはかなりダサい…)。
全てのジャンルをカバーしてるけどどこにも長じていない、そんな自信のなさの現われでしょうか、何がしたいんだか良く分かりません。とりあえず、メチエとラチオだけは手放さないでほしいものです。まぁそんなことは置いといて…

この著作は非常に面白かったです。20世紀初頭のユダヤ教神学の影響を受け独自の発展を見せた哲学自体にも興味がありましたし、これまでの哲学を「対話」という観点から掘り崩し新たな姿を現出させようという試みも魅力的でした。
表紙の見開きにご親切にも「本書の内容」が箇条書きにしてあってそれによると、
・啓蒙主義のモノローグ思考
・ローゼンツヴァイクの西洋哲学批判
・新しい思考とメタ倫理的人間
・フンボルトの対話的言語論
・呼びかけと応答の文法
・対話者という〈他者〉
だそうです。ということで本書のポイントは、①プラトン以来(ギリシャ思想とキリスト教神学の結託といえるかもしれません)の西洋哲学への批判、②コーヘンやローゼンツヴァイクらユダヤ思想家の紹介、③彼らの議論と更にフンボルトの言語論に基づいて、「対話」という観点から哲学を立ち上げ直すこと(ここではバトラーの『自分自身を説明すること』と同様に「応答可能性」というのがキーワードとして出てきます)にあるといってよいのではないか、と思います。内容としては盛り沢山ですが、著者は平易な文体で、内容を掻い摘みつつ議論を展開していくので、それを追うことはさほどの困難を伴わないでしょう。

村岡による、「従来の」西洋哲学(つまり「プラトンの脚注としての西洋哲学」)に対する批判は、それが「モノローグ」であること、「全体性」の哲学であり本質主義を纏っていること、個別・具体的な存在としての人間を見てこなかったこと、としてまとめられます。「伝統的哲学」は、私たちの日常生活の彼方にある「本質」や「普遍」への問いかけであり、「言語」を、「他者」を、「時間」を消し去っている、と彼は指摘します。それゆえ、こうした哲学は「ひとりごと」に過ぎない、と。こうした志向が西洋哲学の根底にある以上、人々から哲学が遠ざかるのは自明のことだった、というわけです(「あとがき」において彼は、ヘーゲルの研究をしつつもどうしても彼の根本的な思想の契機が理解できなかったと述懐しています)。
その上で、彼はコーヘンやローゼンツヴァイクといったユダヤ神学の影響を色濃く受けた思想家による研究に言及していきます。19世紀後半からの民族主義の勃興を受けドイツのユダヤ人は幾つかの道を選ばざるを得なくなった。ある者は社会主義に希望を見出し、別の者はシオニズムに希望を見出し、またある者は、啓蒙主義のより一層の徹底化によって民族主義を抑えようとした。そのような状況下で、次第に彼らの中にある疑問が生じる、つまり「なぜ啓蒙主義はこうも容易く民族主義に敗北してしまったのか?」と。答えとしては、啓蒙主義も民族主義も実のところ大差はない、どちらも線引きの問題であって「我々」と「彼ら」という図式から免れてはいないから―すなわちどちらも同一性を基盤とする「モノローグの思考」を包含しているから―ということになるのだろうが、そうした啓蒙主義への問いかけというのがユダヤ人のあいだで行われるようになったと村岡は指摘する。その問いかけの中で実はそうした「モノローグの思考」というのが、近代啓蒙主義に留まらない西洋哲学が一貫して保持してきたものであることを発見する。そうである以上、これまでの啓蒙主義や西洋哲学からは「対話の思考」、つまり同一性を前提とせず、差異や異質性を保持したまま関係を取り持つことは不可能ということになる。それゆえ彼らは、西洋思想の枠外にあったユダヤ神学を紐解くことで、一人語りではない対話の思考を、差異性や多様性を保持しながらも関係を築き上げ共に生きられるような環境、対話可能な空間といったものの創出を目指していく。
そのようにして村岡はコーヘン『ユダヤ教の源泉からの理性の宗教』やローゼンツヴァイク『救済の星』を読み進める。4章以降は彼らの紹介からは離れ、いかに西洋哲学において「モノローグ」というものが根底にあり続けてきたか、を改めて指摘し、そこから抜け出し「対話の哲学」の地平を切り開く作業を進めていく。この中ではオースティンの行為遂行性もまた批判的に検討され、更にフンボルトの『双数について』を取り上げることによって、〈私〉と〈君〉との関係に分け入っている。この辺も非常に面白く読みました。曰く、〈私〉と〈君〉とは一対の関係であって、〈君〉があるゆえに〈私〉が存在しうる。〈私〉の語らいは〈君〉の存在を前提とするのであって、そこには常に「対話空間」とでもいうべきものがなければならない。会話は、発話行為で完結するものではなく、かならず誰かによって聞かれなければならない。この聞くことに対してこれまで言語学はさほど関心を払ってこなかったのではないかという批判。更にブーバーを本書では重視しなかった理由として、彼が「私と君」(我と汝)という関係に注目しつつも、前者を後者に先行・優越するものとみなしていたことが明かされる。
終章では、固有名詞や命令文、呼びかけなどの事例を参照としつつ、「対話」について考察を進めていく。対話が成立している時、そこには対話者という〈他者〉がいなければならない。そして彼/彼女は私の語りかけに対して応答していなければならない。村岡にとってこの他者における「応答可能性」は奇妙な事態を孕んだものとされる。応答可能性とは私が「同胞」と「異邦人」との境界線を引く基準となるものであり、応答によって〈他者〉は私の世界に参入する。けれども、その応答は必ずしも私の予測したものではない。応答に対する私の期待は絶えず裏切られる、なぜならもし完全に予測可能ならばそれは私のモノローグとも等しいからである。対話において、君は私の世界に属してはいるが、同時にその世界における構造的な外部でもある。私の語らいは、他者に依存しその応答如何で途絶し、更新される。それゆえに私とは「そのつど新たに更新される瞬間の非連続性」なのであり、そこにこそ自由や主体性が見出されるのだという。

本書で村岡が取り上げ続けた「対話の思考」、それは差異性や異質性、多様性を保持しながら、同時にそれらを前提としつつ、両者の対話が可能にさせるような場(空間)が創出するものであっただろう。同一性を基盤とするのではなく、差異性や多様性を基盤とすること。それではこうした対話可能な場を如何に作り上げることができるのか。村岡が「応答可能性こそがいわば『同胞』と『異邦人』との境界設定をなしている」(pp.182)という時、彼はそれに応答できない存在のことをどれほど念頭においているのだろうか。あるいは応答したとしてもそれを応答として聴き取ってもらえない、そうした問題について彼はどれだけ自覚的なのだろうか。〈君〉は〈私〉の存在に先行するという。〈君〉の返答なしには私は存在し得ないと。であるならば発話不可能性の問題とは同時に〈君〉が返答しない(あるいはしようとしない)、という問題でもあるだろう。スピヴァクがサバルタンは語ることができないという時に彼女が提起したのは「語ったとしてもそれを聴き取ってはもらえない」という問題ではなかったのか。サバルタンは語ることができない、それは「モノローグ」の問題ではない。むしろ対話しようとしても応答してもらえないという対話不可能性の問題だろう。あるいはランシエールは、どれが応答すべき人間の声で、どれが動物の鳴き声に等しいかを線引きする感性的なものの分有について語ってはいなかったか。「対話の思考」の重要性はよくわかる。けれどもその対話空間において前提とされているものは何なのか。言い換えれば、誰が「君」として、あるいは「私」としてその対話空間に参入できるのか?誰が彼/彼女の語らいに応答してもらえるのか?私はそれを知りたいと思う。

2009年5月20日水曜日

エドゥアール・グリッサン 『多様なるものへの詩学序説』

三島賞作家の小野正嗣による明解な翻訳で届ける、『全―世界論』で知られ、文学者であり、思想家のエドゥアール・グリッサンの講演/対談集。「移民社会」 が到来しつつある日本において、この本はひとつの処方箋的な役割を果たすだろう。。アングロサクソン的な「多文化主義」、およびフランス的な「統合」を共 に超える視座を開く「多様なるもの」の思想とはなにか。

ポスコロ御用達のファッショナブルな思想家。そんなこといったらポスト・コロニアル研究者に怒られてしまいますかね。彼の引用をエピグラフに載っけておけば、オシャレかな、みたいな。基本的に日本のポスト・コロニアル研究者はあまり信用していないので(まさしく自分自身がポスト・コロニアルな状況下に置かれていることに全く無頓着なのは何故でしょうか)、こんな辛口になってしまいました。もちろん、非常に素晴らしい仕事をしている研究者の方もいて、彼らの仕事には感銘を受けっぱなしな訳ですが。
そう、そんな風になってしまった中で、グリッサンの思想に分け入ってみること。これはなかなか面白い経験でした。語感とでもいうのでしょうか、非常に言葉を選ぶのがうまい、何かを掴むためにメタファーを彼は多用するんだけれども、その喩え方、表し方が抜群ですね。確かに引用したくなります。

さて、本書は4つの講演と、2本の対話(実は4本の対話を編集したもののようですが)からなっています。テーマはクレオール化と想像的なもの、詩学・文学の可能性について、とまとめられるかと思います。それぞれの文章は非常に読みやすく、彼の主張を読み取ることは難しくはありません。まさしく「グリッサンによるグリッサン入門」といったところでしょうか。

彼の議論の展開の中で、しばしば大陸的思考/群島的思考、システム的思考/非システム的思考、先祖伝来的文化/複合的文化、一つ根のアイデンティティ/リゾーム・アイデンティティという形で二項対立的な図式が登場します。こうした見方は講演という性格上―恐らくは分かりやすさを期して―語られるものだとは思いますが、質疑応答でも批判が出ていたようです。ちょっと安直ではないかと。彼の議論を追いながら、それが安直なのかどうかも含めて考えてみようかと思います。

「カリブ海地域とアメリカ地域におけるクレオール化」

この講演において、彼はアメリカ地域を3つに分類します。①メソアメリカ(先住民たちのアメリカ)、②ユーロアメリカ(ヨーロッパからやってきて、新大陸でも以前の慣習文化、伝統を保持してきた人々のアメリカ)、③ネオアメリカ(クレオール化しているアメリカ)、と。これらの分類は国境線とは無関係であることを強調しつつ、彼はネオ・アメリカの特殊性に触れます。つまり、「ネオアメリカは―ブラジルであれ、カリブ海沿岸であれ、島嶼部であれ、合衆国南部であれ―奴隷制や奴隷制的諸システムによる抑圧と剥奪をとおして、クレオール化を本当に経験してきた」のだと(pp.11)。そしてグリッサンは、こうしたクレオール化は全世界で起こっていることなのだ、といいます。今日、諸文化の絶え間ない接触や衝突、対話を通して世界中でクレオール化が起こっているのだと。
それではグリッサンにとってのクレオール化とは何なのか。彼はそのための補助線として、奴隷貿易によるアフリカからアメリカへの移動、「裸の移民」に注目します。その奴隷船とは、同じ言語を使う者は互いに隔離された、言語の消失する場所であり、彼らは「ありとあらゆる要素」から切り離されてしまった。そうしてアメリカに移住させられた人々が、記憶、つまり痕跡の思考を頼りにしながら予見できないような何か(例えばジャズ)を作り上げていく。グリッサンはクレオール化の条件として、共存する文化的諸要素が必ず価値的に等価であることを指摘します。つまり、一方の文化が貶められている所ではクレオール化は成立せず、関係付けられた文化的諸要素は互いに評価されあわなければならない、と。更にクレオール化は、混血とは違い「予見不可能なものを生み出す」ことだといいます。
その上で、グリッサンは様々な文化を、「先祖伝来的文化」と「複合的文化」に大分します。そして前者には「一つ根のアイデンティティ」を後者には「リゾーム・アイデンティティ」を当てはめていきます。前者は「一つ根のアイデンティティ」を擁護し、後者の文化は「リゾーム・アイデンティティ」が現実的なのだと。
したがって、「全世界のクレオール化」という彼のテーゼからすれば、「一つ根のアイデンティティ」から「リゾーム・アイデンティティ」へという移行が生じているということになります。「リゾーム・アイデンティティ」とはつまりは関係性の、開かれたアイデンティティであって、私たちは他の根を殺してしまうような「一つ根のアイデンティティ」から抜け出て、多様で関係的な「リゾーム・アイデンティティ」のほうへ向かわなければならないのだと、その移行に際して詩学や文学というのは多くの役割を果たすことができる、なぜなら詩学は人々の想像的なものの次元に訴えかけるものだから。こうした主張が最初の講演では語られています。
更に質疑応答の中で、現代の作家は単一の言語しか知らなくても、世界にあるあらゆる言語を前にして書いているから単一言語的ではないのだ、と言う指摘は、水村美苗の『日本語が亡びるとき』における国民文学についての言及と重なり合う点なのかなと感じます。この2冊を重ねて読むというのも非常に面白いことになるんじゃないかと(無論、水村の議論は幾つかの重要な部分で批判されるべきでしょうが)。

「言語と言語活動」

冒頭にグリッサンは議論の前提として2点指摘します。一つは反復、もう一つは「共通の場所」。前者とは繰り返しによって現れつつある新しいものが少しずつ見えてくることであり、後者は世界の一つの思考が、世界の一つの思考と出会う場所のことだといいます。
今日において初めて、それまでは文学においてしか予言されなかった「全体性‐世界」が実現されるようになります。同時に文学は一つの場所から生じるものであって、その場所と全体性‐世界を取り持つ役割を果たすことになります。
全体性‐世界が現れた今日、その全体的な共同体において、人々は他者と出会い認めることを余儀なくされる。したがって、今日の詩人や作家は、2つの問題系に直面していることになります。一つ目は、全体性‐世界との関係のなかでおのれの共同体を表現すること。もう一つは、絶対的なものと非絶対的なものを、エクリチュールと口承性とを同時に探求しながらおのれの共同体を表現することです。先の質疑応答でも触れたように、私たちはもはや単一言語的に何かを書くことなどできない。あらゆる言語は開放系のなかに、関係性のなかにおかれている。グリッサンにとって多言語主義とは、自分自身の言語を使う時に、そこに世界中の諸言語が存在していることを意味します。したがってある言語を守ることは他の言語、あるいは全ての言語を守ることにもつながることになります。そうした諸言語をのなかには言語活動が含まれていて、カリブ海地域ではそれぞれが異なる言語を用いながら、同じ言語活動を行っている。言語上は多様でありつつ、ひとつの言語活動を探求すること、それによってその多様な言語の出会いの場はまさしく「共通の場所」となります。
その上で、グリッサンはシステム的思考/非システム的思考、大陸的思考/群島的思考へと話を進めます。この箇所は恐らく、本講演においてもっとも重要な箇所であるので、かなり長いですが引用することにしましょう。

かつて、私がお話したような創設的書物〔引用者注:先祖伝来的共同体における「叙事詩」のこと〕とそれを用いるあらゆる文学が存在した時代、思考というものは―私がシステムの思考と呼んでいるものですが―諸言語のあいだに生じるゆったりとした感知しがたい反響を組織したり、検討したり、投じたりしてきました―思考は自分が正当に支配していた世界の動きを予見し、イデオロギー的な見通しを与えていたのです。私があえて「大陸的な思考」と呼んでいるこのシステムの思考は、いまようやく一般化した世界の諸文化の非システムを考慮しつつあります。より直感的で、より壊れやすく、脅威に曝されているけれど、混沌‐世界とその予測不可能な結果にふさわしい別の形の思考が、おそらく人文社会科学の諸成果に支えられて、とはいえ世界の詩的なものと想像的なものが与えるビジョンのなかを漂いながら、発展しています。私はこのような思考を「群島的な」思考と呼んでいます。…いま私に分かるのは、大陸が、少なくとも外から眺めたところ、「群島化している」ということです。(pp.57-58)

つまり、ヨーロッパもまた群島化している。全世界が島々の開かれた連なりのようになっている。そうした現状を鑑みるならば、私たちがすべきことは、互いに耳を傾けあい、理解しあうことであり、そうした関係性のなかに身を置くことに他ならない。
そのなかで「翻訳」というのは新たな意味を持ちうる。翻訳とは、作家が個々の言語の中に織り込んでいった全体性を掬い上げながら、一つの言語から他の言語へ移行させることによってその全体性を表現していくことにある。こうした言語活動はまさしく予見不可能性を孕んでいて、だからこそ翻訳とはクレオール化であり、文化的混交の新しい実践となる。かすかな接触と接近の技法である翻訳は痕跡の実践であることを指摘してグリッサンはこの講演を終える。


さて、2つほど講演の内容を整理してみましたが、これでなんとなくグリッサンの議論はつかめるのではないかと。もちろん講演や対話もそれぞれテーマ自体は違うので、議論の内容もより豊かに、複雑に折り重なっていくわけですけれども。世界全体がクレオール化している、こういったことはしばしば指摘されることで、いやそれはクレオール化じゃなくて平準化だとか、むしろ「純度」への志向が高まっているとか色々なことが言われるわけですが。そしてまた、単一のナショナルアイデンティティから複数のアイデンティティへということもそれ自体はよく言われることで私自身はさほど目新しい印象は受けませんでした。定言から当為へという飛躍がどうなのか、という意見もありそうですが。「現状はこうである」、と言う話をしていたらいつの間にか「こうしなければならない」とか「こうならなければいけない」という話に移り変わっていく。グリッサンの現状認識や見通しに対してユートピア的とか楽観的とか言う声は聞こえそうですし、グリッサン自身も十分その点は自覚しているみたいですが。ただ、僕個人としては詩学や文学にこうした可能性があることを信じたいものです。
しかし、「群島」っていう発想は面白いですね。今福龍太なんかもグリッサンから影響をかなり受けているのでしょうか。新しいことを得た、というよりも新しい見方、摑み方を学んだといったほうが適切かもしれません。概念よりもメタファーを。動態的に何かを摑むには概念で固着させるよりもこっちのほうがいいのかもしれませんね。

チェーザレ・パヴェーゼ 『美しい夏』

都会で働く16歳のジーニアと19歳のアメーリア.二人の女の孤独な青春を描いた,ファシズム体制下の1940年,パヴェーゼ31歳の作品.1949年にようやく『丘の上の悪魔』『孤独な女たち』とともに刊行され,イタリア最高の文学賞ストレーゼを受賞.そしてその翌年,パヴェーゼは自殺することになる.

ようやく手に取ることができたパヴェーゼ。ナタリア・ギンズブルグが描写していたような彼と、この作品との落差に最初は驚きましたが。女性の揺れ動く感情をここまで男性による作品でも追えるものなのだなぁ。
本書の河島さんによる解説が非常に優れていると思うので、僕の感想はその枠を出るものではないということは予め書いておいたほうがいいような気がします。
ギンズブルグの『ある家族の会話』にパヴェーゼはしばしば登場します。「背の高いうしろ姿。外套のえりを立て、頑丈そうな白い歯のあいだに火の消えたパイプを噛みしめ、大股に、足早に、肩をいからせて歩いて」いくパヴェーゼ(pp.165)。なにより無口で明晰、理知的で皮肉屋、そのようにギンズブルグは書いていたと思う、そして彼のような皮肉なものの見方は、もはやこの世界のどこにも存在しないかけがえのないものであったと。
彼の皮肉なものの見方がどこから来たのか、そんなことには答えようがないけれども(どこに由来したものでもないとも、全てに由来しているともいえるだろうし)、ここでは一つの仮定を立ててみよう。つまり、「美しい夏」が失われてしまったこと、過ぎ去ってしまったこと、あるいは何者かによって奪われてしまったこと、そこに起源があるのではないかと。「美しい夏」とは生の充溢の瞬間であり、人生における最高到達点(つまりそれ以前もそれ以後もその地点ほどの高みに達することはできない)のことなのだろう。ジーニアはそれを待ち侘び、アメーリアは既にその先にいる。パヴェーゼの生涯についてさほど知らない私がこんなことを考えるのは、単なる推測以上の何物でもないわけだが、パヴェーゼは「美しい夏」を経験できなかったのではないか。「美しい夏」とは生の充溢の瞬間ではあるが、それがあくまで一時的な、あるいは主観的な幻想に過ぎない。そしてパヴェーゼの知性はそれを既に見越してしまった。彼が自らの「美しい夏」を自身から奪い去ってしまったのではないだろうか。だからそれはノスタルジーですらない。「美しい夏」なるものが単なる幻想に過ぎないと看破した彼には平面的な空虚な生しか残されていない。彼の皮肉な姿勢も、あるいは女性に対する抑制のなさもそこに起源を見出せるのかもしれない。これ以上の推論は無意味だろうけれど。

解説で河島はこう指摘する、ジーニアはかつてのアメーリアであり、アメーリアは未来のジーニアであると。しかしパヴェーゼは次のようにも言っていた、これはレズビアンの物語である、と。ジーニアとアメーリアが、3年の時間差はあるものの実は一体であること、これは読んでいれば思い当たることだろう。ダンスホール、カッフェ、モデル、タバコ、物語が進めば進むほど、この2人が(19歳と16歳の)同一人物であることに疑いの余地がなくなっていく。序盤のジーニアは、終盤ではアメーリアのようになり、アメーリアに「どこにでも連れて行ってほしい」と懇願する。そして2年後の夏、アメーリア(となったジーニア)はジーニアと出会う。つまり、この物語は円環のように完結しているのだ。そこから出口がない、だからジーニアはアメーリアにどこかに連れて行ってほしいと懇願する。一方でパヴェーゼの言うとおり、レズビアニズムもこの2人の関係に深く根ざしている。一つの峠を境に向かい合う同一人物の恋愛関係。ジーニアは冒頭でアメーリアに惹かれ、アメーリアはジーニアは告白をする。そして最後にジーニアはそれに応えることになる。しかし、この2人の関係が成立するには、否定がなくてはならなかった。グィードによる拒否とモデル化、グィードは女性を愛することができず(グィードとロドリゲスの関係は同性愛的なものであることが匂わされている)、彼の近くにい続けることを望むならばモデルになるしかない、つまり「静物」のような客体に。この異性に認められないことを契機とする同性愛的関係、これは非常に奇妙で屈折したものにならざるを得ない。

河島は解説の最後に、『祭り』と『犠牲』という観点からこの物語を総括する。つまり、彼女らは『祭り』において必要とされる『犠牲』になったのだ、と。私も彼の意見に同意したい。そしてそれに付け加えるならば、パヴェーゼ自身もその『祭り』の『犠牲』としてその生涯を終えたのではないかと。パヴェーゼの自殺についても、『ある家族の会話』のなかでナタリア・ギンズブルグは回想しています。興味を覚えたら参照されてはいかがでしょうか。

2009年5月15日金曜日

廣瀬純 『シネキャピタル』

シネキャピタル――普通のイメージ=労働者たちの不払い労働にもとづく、新手のカネ儲けの体制!搾取されてるっていうのに、ぼくや彼女ら「普通の鳥」は、働くことにやりがいや喜びさえ感じている。それどころか、観客=投機家として無数の企業のために、いっそうタダ働きをしてしまっている。どんなやり方でシネキャピタルは、この剰余価値生産にぼくたちを組み込んでいるの?こんな暮らしから身を引き、「労働からの解放」、「解放された労働」を獲得するなんてできるの?

とても愉快な本です、革命的「シネマ」論、いやいや「シネマ」的革命論とでもいうべきでしょうか。ドゥルーズの『シネマ1・2』を「シネキャピタル」なる概念で読み替えながら、映画論でも凡庸なドゥルーズ論でもない、イメージ/労働論が展開されています。装丁も、挿絵も、注釈も、全てが面白い。これは手にとってみれば分かります。

『シネマ』はいまだ積読中のため、『シネマ』からの影響、彼の読みや解釈の面白さ等々については充分に語れないのが残念なのですが。初期のドゥルーズを追う作業を一通り終えたら突入しようかなと考えています。

さて。

エイゼンシュタインらの映画を取り上げながらドゥルーズは、「特異性の生産(質的飛躍)が普通のものの蓄積(量的過程)を通じてなされる」ことを指摘する。これはどういうことか。廣瀬は普通のイメージたちが「モンタージュ」によって特殊に配列され、その配列(つまりイメージの協働)によって特異なものを生産していく(正確に言えばシネキャピタルによって生産させられる)、そのように解説します。つまり映画とは普通のイメージの組み合わせでありながら、その組み合わせによって「特異なもの」を生み出す装置なのであり、言い換えれば、各々のイメージの和、つまり1+1の和は2、ではなく3になるのだ、と。それを廣瀬は次のように読み替えようとする、曰く「普通のものたちの協働が際立つものを剰余価値として生産する」と考えることができるのではないか、と。普通のイメージを余計に働かせ、搾取することによって映画=資本(シネキャピタル)はその剰余を簒奪しているのではないか、と。映画における剰余価値生産?その通り、そして廣瀬はそれを内包的ギャップとして、つまり潜勢的なものと現勢的なものという2つのアスペクトが孕むギャップとして説明していく。ヒッチコックの『鳥』に登場する鳥たちには2つのアスペクトがある、一つは「ヒッチコックの鳥」になる力、もう一つは「普通の鳥」というアスペクトが。彼らは「ヒッチコックの鳥」として映画に現れるにもかかわらず、その現勢的なアスペクトに対してしか、そなわち「普通の鳥」としてしかその対価を支払われることがない。それゆえ先の式、1+1に戻るならば賃金としては2しか支払っていないにもかかわらず、質的飛躍によって1+1は3になる。ここに余剰価値の収奪がここに見られるのだと。
価値増殖のメカニズムとしてのモンタージュ、それは時代を経るにつれに洗練され、定式化していく。そしてついには過剰生産によってそれ自体がクリシェ化していく。それこそが「行動イメージの危機」である。しかしシネキャピタルの力はそうした危機を逆用することによって乗り越えを図る、それが「パロディ化」だ。モンタージュのクリシェ化、そのクリシェ化をパロディとすることによって、更に映画は剰余価値の収奪を引き続けようとする。ただ、それは長続きしない、パロディ自体もクリシェ化していくことは自明のことだから。それではその先にあるのは映画=資本の死だろうか。そのクリシェ化の極限にある「映画内映画」、「イメージについてのイメージ」は「歴史の終焉」なのか?
こうした意見にドゥルーズは、そして廣瀬は真っ向から反論する。「映画についての映画」や「イメージについてのイメージ」は断じて「映画の死」「歴史の終焉」などではない、そうした「インチキな認識」からそれらを救い出さなければならない、それに加えてイメージたちを余剰価値増殖のメカニズムから解放しなければならない、と。そうした両面での格闘を可能にする概念こそ「結晶イメージ」なのだ。「イメージについてのイメージ」はまさにそうした価値増殖のメカニズムからの解放であり、イメージそれ自体が潜勢的にもつ力を見出していくプロセスなのだ。シネキャピタル的生産における剰余労働の拒否、潜勢力の現勢化そのものの拒否、それによって普通のイメージたちは結晶的体制へとなだれ込み、そこで新たな機械的アレンジメントを構築していく。そこにおいて、各々のイメージはそれ自体が結晶をなし、自律性を取り戻すのだ、と。すなわち結晶的な「自己価値形成」。

これが1章の大まかな内容です。意味分からんけど面白そう、そんな感じしませんか?実際読んでみるとそんな意味分からんでもないのですが、少し論旨が錯綜したり飛躍したりで追うのに戸惑ったりもします。2章以降もこんな感じで進んでいきます、『時間イメージ』のほうへ、とりあえず付いて行ってみて下さい、抜群に面白いですから。そしてここでは映画についてイメージについての表面的な整理に留めて置いたのですが、これには裏があるんですね。すなわち、ここで取り上げられているのはシネキャピタルなわけで、イメージたちの労働、剰余価値の収奪メカニズム、これをいかようにも「労働」というものについて読み替えていくことができる。ここが面白いんですね。そしてなによりも…


歴史の機関車の非常停止ブレーキに私たちが手をかけた時、そこに広がる光景に私たちは耐えられるのか。その記号の、イメージの、光の横溢に私たちは目を背けブレーキから手を離し、再び機関車は加速してしまうのか。



2009年5月10日日曜日

宮下誠 『20世紀絵画―モダニズム美術史を問い直す』

私たちは、ある絵画作品に出会い、そこに何が描かれているかを「再認」しえたとき、その絵を「わかる」という。しかし、なぜそれほどまでに私たちは絵を「わかろう」とするのだろうか?
20世紀に描かれた絵画は、それ以前の絵画が思いもしなかった無数の認識をその背景に持っている。
そして、絵とは具象/抽象の如何にかかわらず、作家のアイデンティティ、或いは民族のアイデンティティと深く結びつき、時代を映す鏡となり、私たちの「鏡像」となっているのだ。本書では「具象/抽象」「わかる/わからない」の二元論に終止符を打ち、"旧東独美術"も視野に収めた新しい解釈パラダイムを提案する。

久しぶりに実家に帰ったときに、書棚の中から見つけた本。そうだ、数年前に父に面白い本はないか?と聞かれ、この本を貸したんだっけな、と思い起こしながら回収。帰りに読み返していたら止まらなくなって結局読了しました。
光文社新書からはたまにこういった良書が刊行されるので侮れないですね、きっとよい編集者がいるのでしょう。この本は、僕の西洋絵画の見方、あるいは美術史というものの見方を揺さぶり、覆しました。そういう思い入れがある分、この新書は美術史に関心をもつ人々、あるいはただ美術館に通うのが好きな人にとって必読書なのではないか、と思ったりします。
さて、この本のどの要素が当時の僕にとってそれほど衝撃的だったのか、それについて触れましょう。それまで、僕は西洋近代美術史というものを一つの発展図式に落とし込み、そうした一方向の発展の系譜として、つまり一貫した語りとして理解してきたわけです。それは当時の僕が西洋絵画というものにあまりに無知であったこと、それゆえ美術史の概論のようなもので語られる教科書的な記述を鵜呑みにしていたことがありました、今となっては恥ずかしい話ですが。その流れこそ、印象主義、ポスト印象主義(と括られる画家とその作品)、ピカソやマティス、ダリらを経由してジャクソン・ポロックへ至るという、まさしく「具象から抽象へ」という物語でした。今日もこうした語りが一般的には優勢であるのかもしれません。こうした語りの問題については以前も(http://kentado.blogspot.com/2009/03/blog-post_26.html)触れたことがあるかと思います。こうした語りの問題点は①その系譜から抜け落ちてしまう存在について触れることができない、あるいは低い評価しか与えられない、②ある画家の作風の変遷に目を向けることができない、単なる「逸脱」としてしか見做されない可能性がある③従って、ある画家の生涯の結晶を、単なる歴史上の「役割」に貶めてしまう、④画家同士の同時代的な、あるいは超時代的な関係性―仮に「調和」と「抗争(コンフリクト)」とでも呼びましょうか―に十分な言及が出来ない、⑤そして本書で指摘されている通り、「具象」と「抽象」の間のせめぎ合い、その往来という問題を完全に捨象してしまう、例えば本書において重要な位置を占める旧東ドイツ、旧社会主義圏の具象絵画を単なる時代錯誤の作品としてしか評価できない。
本書を読んだこと(3~4年前のことですが)を端緒として、これらの問題群に否応がなしに気付かされた。だからこの本を最初に読んだ時の衝撃はよく覚えています。そうした一貫した物語が不可能な中でいかに美術史を叙述することができるのか。本書はこうした問題群から本当に自由なのか。そうした疑問は当然生じることだと思います。
ちなみに宮下はこの新書の中では、ほぼ時代順に、ある画家とその代表作を取り上げるというオーソドックスな方法を踏襲しています。ただ、それは断じてこの本が旧来の美術史テキストと何も変わらない、というわけではありません。少なくとも彼が一人一人の画家に、一つ一つの作品に注目する時、彼はそれを歴史的な「役割」に落とし込めることはしていないわけです。ある画家の作風の揺れ動きを無視せず、時にはその変遷が「役割」とは矛盾していることを受け入れながら、同時に当時の歴史的/社会的/地理的文脈や画家同士のネットワークにも言及しながら記述を進めていく。それゆえ、一つ一つの章はとても短いですが、非常に中身の濃い、読み返しに値する内容になっています。
それに加えて、宮下はその作品に触れる人々、観衆の視線を重視します。観衆と絵画の間に結ばれる関係性、それは人々にどのように見られてきたか、どのように見えるかという点。これは「わかる/わからない」という二項対立の無意味さを露にするためにも必要な視座なのでしょう。それは個別の作品の観衆史(という言葉があればですが)を語るというだけではなく、もっと普遍的な「絵画を観ること」という問題と密接に関わります。文中で宮下が指摘するように、私たちが絵画を見るとき、私たちは絵画に見られているのだということ。絵画は一種の<鏡>であって、絵画を見る私は、同時にその絵画を見る私自身に見返されているのだということです。<鏡>の同化効果と異化効果―「これはお前だ」と「これはお前ではない」―を私たちは絵画を見ることを通じて経験しているのだという視点、これは非常に重要な論点だと思います。絵画は<鏡>である。<鏡>の表面を見ることはできない、同様に絵画の表面を見ることはできない。私たちは絵画を見ているのに絵画を見てはいない、そのアポリアを出発点として近代の西洋絵画は存在する。ゴッホの「黄色い家」の黄色いだけの場所(宮下は適切にもブラックホールと喩えます)やマレーヴィチの「黒い正方形」、あるいはデュシャンの「大ガラス」、そうしたものを見るとき、私たちは当惑する、「これは何だろう?」と。つまり、「わからない」と思う。それは私たちが、<鏡>として絵画を見ることができないから。その私たちの視線はその表面に突き当たり、それから先に進むことができない。<鏡>のメタファーを推し進めるならば、それらの作品からはその作品を視ている私を視ることができない、あるいは鏡が歪んでいて、統一体としての「私」を形作ることができない、だから「わからない」と感じてしまう。
つまり「わかる/わからない」の問題は、「具象/抽象」の問題として理解してはならない。それは絵画を視る「私」自身にゆだねられているのだから。
本書はこうして具象/抽象という二項対立を解体して、わかる/わからないという問題を更に「アイデンティティ」(宮下は括弧なしにこの用語を使いますが)の問題へと話を進めていきます。この他にもセクシュアリティ、欲望、作品の存在/不在など様々な観点から西洋美術への言及がなされていて、非常に内容が富んでいます。旧社会主義圏の絵画についても言及したことは、西洋美術史のなかでも重要な点なのかな、と思います。僕はプラハの美術館に陳列されていた社会主義時代に描かれた無数の絵画(それらは決して社会主義的リアリズムという言葉で括りきれるものではない)に強い衝撃を受けた経験があります。そのときは「これは何なんだろう?」という疑問が湧きながらも、それらから目を離せずにずっとその美術館にこもっていました。この経験は宮下の経験と似たものであったのかもしれません。それゆえに僕は彼の視点に深く共鳴したのかもしれませんが。彼の『逸脱する絵画』や音楽論は未読ですが、こちらにも触れてみたいものです。

2009年5月8日金曜日

アルンダティ・ロイ 『帝国を壊すために』

2001年9月11日以降,暴力と偽善が世界を覆い尽くしている.ブッカー賞受賞のインド人女性作家ロイは,その状況に対して絶え間なく抵抗の声を挙げ, 帝国とは別の世界を求めるすべての人々に希望と勇気を与えてきた.「「無限の正義」という名の算術」「帝国の民主主義」をはじめ,海外で注目される8篇の 政治エッセイを収載.

こういう時事的なエッセイを少し後になって読み返したとき、その評価は真っ二つに分かれると思います。一方は時事的であるがあまり視野が狭く議論が先走りすぎて粗が目立つ、要は読み返すに耐えないケース。他方は、時事的であるがゆえに事態の切迫性をこれ以上なく伝えてくれるだけでなく、問題の本質の所在までも掬い上げているケース。この場合、同時代でしか描けない時事エッセイ(批評)というものは、後になって読み返すに値する、というより現時点においてもそこから幾つもの問題を取り出すことができる、そう思います。
このエッセイは後者に位置づけられると僕は感じました。理由としては3点ほどあげられます。
まず世界中で起こされた(ている)様々な暴力や虐殺、不正義に対する憤りや怒り、悲しみが読み手(聴衆)に強烈に伝わってくること。次いで、そんな中でも隠された問題の所在を透視するような鋭く、そして一貫したパースペクティヴを彼女が抱き続けていること。最後に痛烈な皮肉や批判、諧謔を交えた読者をひきつける語り口、言い回しを彼女が多用していること。
それゆえに総じて魅力的なエッセイになっていると思います。

この本の頁を捲ってすぐに感じることは、彼女の深い怒りや憤りでしょう。きっとただ漫然と読んでいるだけでも、彼女のこの感情を共有する事になるでしょう。アメリカやインドの政府高官の発言、あるいは多国籍企業と一体化した行政の腐敗状況に(もっとはっきり言えば<帝国>とでもいうべきグローバルな秩序に)彼女はその怒りを叩きつけます。その怒りは至極当然なわけですが。彼女の<帝国>の定義はネグリ=ハートから借用したものなのでしょうか。「帝国製インスタント民主主義」における<帝国>の説明からするとかなり近い位置にあるとは感じるのですが。
その上でブッシュの「敵か味方か」という極端な問いかけ(それ自体問いかけというよりも味方に付けという命令に他ならないわけですが)に答えること自体を放棄します。どちらでもない。あんたたちの味方に付くのはうんざりだけど、偏狭なイスラーム主義を支援する気はさらさらないよ、というわけですね。これは本書を通じて彼女が抱き続けている姿勢です。そんな二項対立は間違っている、それ以外の回答もあるはずだろう、と。けれどもこのどうしようもない圧力の中で、どこに出口があるのか。抵抗の線など引くことはできないんじゃないのか。そんな問いが頭を過ぎる、その瞬間は誰も避けることはできない。
そう、私たちは怒りや憤りや悲しみによって、どうしようもなく自身の無力感を痛感してしまう。悲観主義に陥ってしまう。しかし、悲観主義に身をゆだねてしまうことはその眼を曇らせてしまう、あるいは目を背けてしまう。そして曇ってしまった眼では、あるいは目を背けてしまったのなら、そこにあるはずの希望の芽を見つけることが出来なくなる。
悲観主義はそれ自体が批判の対象にはならない。というよりもそんな批判を繰り出せる人間なんかいないだろう。現実を具に観察すればするほど悲観的になることは避けられない。重要なのは、悲観に陥ったとしてもその眼を背けないこと、曇らせないことなのではないだろうか。サイードがそうであったように。彼は自分は悲観主義者であるが同時に楽観主義者なのだ、という。彼は見つめる、パレスティナの現状を、シオニズムのイデオロギーを、イスラエルの占領を、変わり果てたホームを、暫定政府の腐敗を。それらは彼を悲観主義にさせるには十分すぎるほどだ。けれども彼はそれでも見つめ続けた。見つめ続けることによって彼は希望の芽を見出す。そしてそれを自分自身でも育てていこうとした。悲観主義であると同時に楽観主義であるということは恐らくこういうことなのだろう。同じように彼女も、(恐らくは絶望に陥りかけながらも)どこかに希望の芽を見出す。アメリカも含めた世界各地で発生する反戦デモに、あるいは芸術に。希望があるが故に彼女は語り続け、書き続ける。本エッセイにはまさにそうした希望と悲観の葛藤の過程が透けて見える。その葛藤を追体験できる、それだけでこの本は今でも読み返すに値するのではないでしょうか。

ただ、彼女の憂慮する民主主義の衰退という問題。あるいは「真の民主主義」や「市民社会」に希望を見出そうとする姿勢、ここには留保がつくのかもしれません。とはいえ非‐西洋において、民主主義や市民社会という概念を導入することが本当に可能なのか、そしてそれが唯一の路なのか、これについてはもう少し考えてみる必要がありそうですね。

2009年5月5日火曜日

ミハイル・ブルガーコフ 『巨匠とマルガリータ』

焼けつくほどの異常な太陽に照らされた春のモスクワに、悪魔ヴォランドの一味が降臨し、作家協会議長ベルリオーズは彼の予告どおりに首を切断される。やがて、街のアパートに棲みついた悪魔の面々は、不可思議な力を発揮してモスクワ中を恐怖に陥れていく。黒魔術のショー、しゃべる猫、偽のルーブル紙幣、裸の魔女、悪魔の大舞踏会。4日間の混乱ののち、多くの痕跡は炎に呑みこまれ、そして灰の中から<巨匠>の物語が奇跡のように蘇る。SF、ミステリ、コミック、演劇、さまざまなジャンルが魅力的に混淆するシュールでリアルな大長編。ローリング・ストーンズ「悪魔を憐れむ歌」にインスピレーションを与え、20世紀最高のロシア語文学と評される究極の奇想小説、全面改訳決定版!

名前はよく聞くけど、読んだことのなかったブルガーコフです。これはいいですね。メフィストフェレス的な悪魔がモスクワにやってきて、燃やし放題、殺し放題、騙し放題です。すっきり。
ってことで終わりにするわけにもいかないので、感想まで。

悪魔って善い奴?悪い奴?って聞かれたら、恐らく100人中80人くらいは悪い奴っていうでしょう、もっと多いかな。けれども、善/悪を決めるのは誰ってことですよ。価値判断なんて社会的な要請によって変わるものです、ベルリオーズらにとっては神こそ悪で人間の理性こそが善なわけですし。その善であるはずの人間の姿が悪魔によって露呈されていく様、痛快です。悪魔=悪で読んでいって、なんだこの悪魔善い奴じゃん、って思っちゃうのも、同じことですね。価値判断は置いておきましょう。
この小説の面白さは一つには、キリストの4日間(エルサレム入城~復活)と悪魔の降臨と巨匠の小説の復活がパラレルになっているところですね。とりわけピラトゥスを巡る巨匠の小説、非常に面白いです。
焼かれた本(焚書)が悪魔によっていとも簡単に復活する。本を焼いたのは誰か?ソ連という強大な官僚システムと、その歯車と成り下がっている、文学界そのものでしょう。だから本作はソ連とその文学界に対する痛烈な批判となっている。初めにヴォランドがベルリオーズとイワンに語る物語、それは巨匠の小説の一部分だ。2人を当時のエルサレムに誘うほどの完成度の高さを誇っておきながら、それは評価されない。というよりも巨匠の小説をベルリオーズが全く知らないというのも奇妙な話ですが。
そして当のベルリオーズは首を切られ(死んだのはあくまで偶然ですが)、グリボエードフは燃やされる。イワンもリューヒンも偽善的にプロレタリアートを装いながらろくでもない詩を発表し、人々と焚きつける。官僚の一人は、ジャケットが勝手に署名した仕事を何のためらいもなく、自分の仕事として認める。金に、ファッションに飛びつく人々。
ソ連の実態がこれでもかと暴かれていきます。
そこから離れ、地下で平穏に暮らしてきたマルガリータと巨匠もその世界から真に逃れることはできない。本は燃やされ、彼らの生活は破綻する。しかし、マルガリータの愛は巨匠を精神病院から救い出し、真に平穏な世界へと彼らは旅立つ。ソ連というシステムに囚われず、書き続ける生活を送るにはこの道しかなかったということなのでしょうけど。結局のところ何も変わらない、歯車は取り替えられたかもしれないが、全体としては。今も、恐らくは。しかしそれだけだろうか。

最初に殺し放題と書きましたが、これは間違いですね。ヴォランドが直截に手を下した殺人はないといっていいでしょう。ベルリオーズはあくまでも足を滑らせた事故ですし、マイゲール男爵にいたっては猫を幻視した警察によって撃たれたわけですから。悪魔が行ったことは、実は予言したことと幻惑を見せること、あとは燃やすこと、これだけだと僕は読みました(誤読の可能性はありますよ)。そう燃やすこと。焼かれたはずの小説は復活し、それを焼失にいたらしめたいくつもの建物も燃やされ、破壊される。地下室も最後には燃え、巨匠とマルガリータは別の世界へと飛び立つ。マルガリータの愛はまるで炎のようだ。燃えること、それは既にある何かを破壊するだけでなく、新しく何かを生み出すこと。ブルガーコフは炎に何を託したのか。

ところでイスカリオテのユダを殺したのは誰なのか?聖書では確か、銀貨を神殿に投げ込み自殺したことになっている。けれども、この小説では誰かに殺されたことは明らかだろう。ピラトゥスが自分が殺したのだとマタイに語り、アフラニウスがニーザに会い、その後ニーザがイスカリオテのユダを郊外に案内してい ることから考えると、彼らが殺害に関与した可能性は十分にある。その場合問題となるのが、ピラトゥスとアフラニウスの語らいだろうが。この語らいは茶番だったのでしょうか。でも、殺害シーンに登場する第3の男はアフラニウスだと読めるわけですが。このアフラニウスという人物、とても謎めいています。
しかし、本当によく出来た小説だなぁとつくづく思います。伏線が無数に張り巡らされていて、まるで迷宮のよう。池澤が「巨大な建築」と喩えたのは言い当て妙だと思います。


2009年5月2日土曜日

檜垣立哉 『ドゥルーズ入門』

没後10年以上の時を経て、その思想の意義がさらに重みを増す哲学者ドゥルーズ。しかし、そのテクストは必ずしも読みやすいとはいいがたい。本書は、ドゥルーズの哲学史的な位置づけと、その思想的変遷を丁寧に追いながら、『差異と反復』『意味の論理学』の二大主著を中心にその豊かなイマージュと明晰な論理を読み解く。ドゥルーズを読むすべての人の羅針盤となる決定的入門書。

さて、ドゥルーズ入門です。ただ、このタイトル問題ありですよね。もちろんシリーズ化してるからしょうがないですけども。ホントにこの本を取っ掛かりにしようと思うとたぶん途中で挫折すると思います。私自身はところどころ難解(それがどこか、なぜなのかについては後述します)なところがあるように感じましたが、それでも非常に面白く読みました。なるほどね、という感じ。決してポップではありませんが、初期(つまり『アンチ・オイディプス』以前)のドゥルーズに注目することは、試みとしても面白いですよね。まず、哲学史家としてのドゥルーズが描かれなくてはならない。確かに。河出さんとかが頑張ってくれているおかげで、非常に幸いなことに初期の彼の著作は文庫化が進んでいて、手に取りやすい。こんな贅沢なことないよなぁ、と思ったりしますが。
初期のドゥルーズとガタリとの共同作業以降のドゥルーズ、確かに一貫しているところもあるんだけれどもなんとなく違う気がする、そんなことを感じていましたが、檜垣はそれを一つ「転回」として捉え、その根底にあったものを上手に説明しているなぁと思いました。

そんなわけで、3章まではとても分かりやすく、頷きながら読んだりしていたのですが、4章『意味の論理学』以降から少しわからなくなってきた。なんでだろうと思ったのですが、理由は単純で『意味の論理学』を僕は読んでいないから。つまりこういうことです、本書は全くドゥルーズの著作に触れてこなかった人にはちょっと難解すぎる。ある程度彼の思想に触れたことがあるか、著作を読んだことがあることが前提になっているような印象です。「『差異と反復』よくわかんなかったけどとりあえず読んだ」とかいう人は、きっとそうゆうことだったのね、となるのでしょう。(少なくとも僕にとっては)概説書と著作それ自体の反復作業、それを通して理解を深めていくことが一番近道なのかなと思います。本書を読みながら、久々に『差異と反復』を読み返していますが、以前よりも理解が深まっていると感じます。もう少し、継続的に初期のドゥルーズの思想にアプローチしていこうかと。

ただ、そんなことをいいながらも気にかけなきゃいけないことは、この本は檜垣なりのドゥルーズの読みでしかないということ。当たり前の話ですが、読む人の数だけ読み方がある。例えば、小泉義之の『ドゥルーズの哲学』なんかは典型で、あれは入門書というよりも彼流のドゥルーズ理解、あるいはドゥルーズを介した彼自身の生命哲学の議論に他ならないわけで。まぁあれはあれでかなり面白かったですが。檜垣がここで『差異と反復』を取り上げる時も、そこから抜け落ちる幾つもの要素、あるいは彼が取り上げなかったポイント、そういったものが間違いなくあるわけで、最終的には自分なりに読み込んでいくしかないわけです。ドゥルーズ自身、『対話』のなかで次のようなプルーストの一節を引用するわけですから。

美しい本は一種の外国語で書かれている。ひとつひとつの語の下に私たちのひとりひとりは自分なりの意味を盛り込み、あるいは少なくとも、自分なりのイメージを盛り込む。そのイメージは誤読になることもある。しかし美しい本のなかで作り出される誤読はすべて美しいのだ。




ジュディス・バトラー 『自分自身を説明すること』

他者との関わり合いにおいて主体は形作られ、他者への責任=応答可能性において主体は自らを変革する。道徳が暴力に陥る危険性を問い質し、普遍性の押し付けによって個性を圧殺する倫理的暴力の論理に抗いつつ、危機の時代に「私」と「あなた」を結び直して希望の隘路を辿る、剣呑な哲学。暴力論叢書第三弾刊行!

僕には少し難しかったです。バトラーがどこで格闘しているか、それを掴むこと自体はさほど難しいことではない。そういう意味では彼女は一貫している。真摯に向き合っている。バトラーが格闘する場所、それは「自分自身を説明すること」、あるいは「自分自身について真理を語ること」の可能性/不可能性が混交する領域であり、「私」に対して他者が語りかけ、それに応答しようとする場なのだろう。
バトラーは、フーコーをアドルノを主たる参照軸とし、それにカヴァレロ、レヴィナス、ラプランシュ、ニーチェらを批判的に読み解きながら、「倫理」について、そして「他者」について、なにより「私」について思考を進めていく。しかし、その思考のスピードに僕自身が付いていけなくなった。「分かっている」と思いながら読み進めているうちに、気づいたら字面を追っているだけの状態になっている。その繰り返し。完全に僕の知識不足なのだろう。これは仕方のないこと。僕の場合、恐らくもっと時間をかけて、あるいはノートなどに取りながら精読する必要があるのだろう。
ただ、分かった限りのこと、それだけでも取り出す価値はあるだろう。

バトラーがまず問題にするのは、「主体」の不透明性です。私は「私」自身を完全に説明することができない。その理由は、決して言語化しきれないような経験―「曝され」があるから、また、私の歴史には「私」にまつわる他者との原初的関係が存在していて、そういったものは私にとって「不透明」な領域にあるから、そして、他者から語り掛けられ、その応答として「私」自身を説明しようとするとき、私は他者や規範から「呼びかけ」られることでそれに応えるような位置に身を置いてしまうからだとバトラーは指摘します。その上で彼女が問いかけることは、こうした自分自身を説明することの不可能性、あるいは「主体」の不透明性は、他者との関係、あるいは倫理的な取持ちを不可能にしてしまう「失敗」なのだろうか、ということです。その後、彼女は私と他者との(原初的)関係について考察を進めるためにレヴィナスやラプランシュの議論を検討します。両者において、主体形成は他者への受動性を前提としています。レヴィナスにおいては「迫害」、ラプランシュにおいては「謎のシニフィアン」、これらが幼児に絶対的外傷を与えるということでしょうか。いずれにせよ、主体形成においては、〈他者〉が存在しなければならない。それだけではなく、私が自分自身を説明するとき、そこには語りかける対象―すなわち「あなた」―が存在しなければならない。したがって、

語ることはある行為を演じることであって、その行為とは、〈他者〉を前提とし、他者を措定し、練り上げ、どんな情報を与えるよりも前に他者へと、あるいは他者のおかげで与えられる。したがって、もし最初の時点で…私はあなたへの呼びかけにおいてしか存在しないとすれば、私そのものである「私」はこの「あなた」なしでは何者でもなく、他者への関係の外側では、自分自身への言及すら始めることすらできないことになる。(pp.148 強調部は原文では傍点)
他者からも、規範からも「私」自身を完全に語ることが制約される、そういったことでは全くない。そもそも私が(自分自身を含めた)何かを語る際には、そして私自身があるためにはそれらの中に身を置き、関係を取り持つことが必要とされる。それは主体が自在に語ることを不可能にするものかもしれないし、私が語ることを制約するかもしれない。けれども、それを決定するわけではない。両者の間にはやはり隔たりがあって、その隔たりのなかで―そして他者との関わりを前提としつつ―、自分自身を語ること、あるいは語るべきものとして自分自身を作り直すこと(それは文字通り反省的/再帰的なreflexive過程だ)それこそが彼女の主張する倫理なのだろう。

この読みがどこまで適切なものか、自信がもてないところではありますが。カヴァレロ、ラプランシュ…気になります。特にカヴァレロ。邦訳はないようですが、これは面白そうだと。本書で引用されたのはRelating Narrativesという著作のようですが、気が向いたら読んでみたいものです。