2010年2月4日木曜日

ガブリエル・ガルシア=マルケス 『エレンディラ』

コロンビアのノーベル賞作家ガルシア=マルケスの異色の短篇集。“大人のための残酷な童話”として書かれたといわれる6つの短篇と中篇「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」を収める。『百年の孤独』と『族長の秋』の大作にはさまれて生まれたこの短編集は、奇想天外で時に哄笑もをもさそう。

いいですね。これまでガルシア=マルケスをさほど読んでこなかったことを後悔。集英社文庫の短編集くらいしかなぜか読んだことがなかったんですね。この数年、ラテンアメリカ文学を少しずつ読んでいますが、そろそろガルシア=マルケスに挑む頃合いのような気がします。

短編が面白い作家って、大抵長編を読んでも面白いんですよね。逆は必ずしも成立しませんが。日本の小説家が、どんどん短編が下手になっている、という不満を聞きますが、それが真実であれば、とても残念なこと。
一方、ラテンアメリカの作家たち(適当な括りですが)は短編を読んでいても面白い。ひょっとしたら、日本の作家とラテンアメリカの作家では、構成の方向性が逆なのかもしれませんね。つまり、長編→短編という方向性と、短編→長編という方向性、みたいな違い。前者には、長編的な大きなストーリーが根幹にあって、それを短編に持ち込もうとしてしまう。後者は、そうではなく短編的なストーリーがもとよりあって、それを織り合わせるようにして長編小説を組み立てているのではないか。そんな気にもなります。勿論こんな簡単な対比が日本とラテンアメリカで成り立つ訳はありませんが、傾向というかモデルとしては考えられるのではないか。この違いってなんだか重要な気がします。

あとがきで書かれていたことに、ガルシア=マルケスが本書のような短編集を習作と見なしていて、それを後に書かれる長編小説に組み込んでいったという指摘があります。もし、彼の長編(僕がまだ読んでいない)が、そうした(書かれたものも、書かれなかったものも)短編一つ一つを織り合わせる形で作られているんだとしたら、これはものすごく面白いに違いない、と。
過去の出来事が神話化され、伝承によって残されていく。その過程で、登場人物は抽象化され、物語も幻想的なものへと変容を遂げる。過去の出来事それ自体と、伝承、どちらがリアルなものか、と考えたとき、一般的には前者だと考えられがちだろう。けれども、恐らく後者なのだ、少なくともその物語に触れる者にとっては。「祖型化」の過程のなかで、物語は「出来事」の経験者から切り離され、浮遊し、その物語を聴く者にまとわりつく。こうした物語はウィルス、のような性質を帯びているのかもしれない。可塑的であり、ヴァイラルに広がっていく。(散種的という言葉が浮かぶが、それが適切な表現なのかは分からない。)
こうした土着的な伝承がラテンアメリカには(そして恐らくは世界の各地に)無数にあり、つまりそこには無数の物語がある。そして、そこから小説のストーリーが抽出される。そしてそうしたストーリーを更に変容させることによって短編小説が出来上がる。更に作家たちは各々、それらを自在に変化させ、組み合わせていくことで長編小説が出来上がる。こんな流れが頭に浮かんだ。
こういうと、長編小説を頂点にしたピラミッドとして理解されてしまいそう(長編が一番偉くて、次の短編、その下が伝承だね)だけれども、そんなことを言いたいのではない。伝承には伝承なりの、短編には短編なりの、長編には長編なりの良さがある、当たり前の話。

現に、ここに登場する小説たちは、どれも抜群に面白い。数行で読み手を引きずり込んでいくような、魔力的な語り。天使なんてあり得ないよ、なんて思う人は「大きな翼のある、ひどく年取った男」を読んでみるといい。きっと天使があり得るか、あり得ないか、なんてことはすっかり忘れ、物語の世界に没入していくことになるだろうから。
ちなみに、これらは独立した短編だけれども、微妙に重なり合う連作でもある。だからきっと最後まで読み進めることになるだろうけれど。

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