聖書の敬虔と哲学の自由は両立できるか? 神の存在が揺らぎはじめた時代に、この難問をクリアーすべく徹底的に考えた男、スピノザ。未解決だったスピノザの「神学・政治論」の謎に挑み、スピノザ哲学のエッセンスを語る。
NHK出版の「哲学のエッセンス」シリーズ。装幀はきれいだし、値段は安いし、読みやすい。書き手をなかなかしっかりしている。ベルグソンや西田やスピノザなど、なかなかどうしてこういった入門書シリーズからは外れがちな思想家たちもしっかり押さえている。そんなこともあって、好きなシリーズです。
さて、そのスピノザ。上野修は、著名なスピノザ研究者の一人ですね。講談社現代新書から『スピノザの世界』というスピノザの入門書を書いています。これはとても好きな本。『スピノザの世界』が専ら、『エチカ』、『小エチカ』の読解だったのに対し、本書で扱われるのは『神学・政治論』であり、あるいは『国家論』である。だからこの二冊は一対のセットと考えたほうがいい。
とても読みやすいのでさらっと読んでしまうけれど、すごい重要な問題を扱っている。信仰と理性はいかに両立できるのか、そして神学と哲学はいかに両立できるのか。上野の解釈によれば、スピノザは、この両者を完全に独立したものとして考えていた。哲学は、何より「真理」を巡るものであるけれども、神学はそうではない。聖書を合理的に解釈しようとしてはならないし、無理に合理的に解釈しようとすれば、キリスト教そのものを掘り崩してしまう。他方で、それは聖書を非合理的に、超自然的に読まなければならない、ということを意味しない。キリスト教の最も重要な基盤は、神より命ぜられる「愛」であり、「正義」である。それに服従すること、敬虔であること、それだけで十分なのであり、それが真理であるかは問題ではないのだと。
スピノザの生きた時代、彼の生きた共和国のなかで、デカルト主義者への攻撃、彼らを「不敬虔」だとして排撃する気運が高まっていた。そんな中で、何が敬虔であり、何が不敬虔であるかをスピノザは探求しようとする。敬虔/不敬虔の線引きをするのは何か、それは第三者の「最高権力」に他ならない。それは神政国家においては神、もしくはその代理人であった。一方、スピノザの生きた時代において、それは共和国の最高権力、ということになる。しかし、それは共和国の権力を握る人物が、すべてを掌握することを意味しない。なぜなら、彼らの権力は、臣民の服従によって得られる群衆(マルチチュード)の力、彼らの潜在的な暴力に由来しているからであり、「最高権力掌握者を正義へと強い、と同時にそうやって臣民各人に正義を守るように強いているのは、彼らひとりひとりを等しく超える群衆の潜在的な暴力だということがわかる。」(77ページ)
この本は、どこまでも入門書であって、これ以上深く知りたいと思ったら、『神学・政治論』に手を出さなければならない。そうしたいのはやまやまだけれども、なかなかそんなことはできそうにない。ネグリの『野生のアノマリー』も気になるし、浅野尚哉のスピノザ論も気になる。ちょっと前の『情況』の別冊の「68年のスピノザ」も。
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