ダンテとウェルギリウスは煉獄山のそびえ立つ大海の島に出た。亡者たちが罪を浄めている山腹の道を、二人は地上楽園を目指し登って行く。ベアトリーチェとの再会も近い。最高の名訳で贈る『神曲』、第二部。
地獄を抜けて煉獄へ。
地獄篇とは打って変わった冒頭の明るい描写が、あぁ、ここが煉獄なのか、と思わせます。彼らが山を登るごとに、少しずつ予感が高まる。そして、ついに地上楽園へとたどり着き、そこでベアトリーチェと再会する。
ここはとても印象的で、「ここまで来たのか!」と読んでいる者もダンテとともに感じる(かもしれない)。けれど、ベアトリーチェと出会ったあとの出来事、これは…ひょっとしてただの痴話喧嘩じゃないか?
死んでしまったベアトリーチェが、なんで私のことを忘れて、あんな偽りの快楽に身を任せたの? 私ほど美しい肢体をもつものなど世の中になかったのに!(おいおい…)とダンテに吠えかかれば、ダンテは「すみませんでした、すみませんでした…」と謝り続け、あげくの果てに卒倒する。せっかく煉獄山の頂上、天国を間近にした地上楽園なのに、こんな俗っぽいやり取り。愕然です。
でも、ひょっとしたらこの俗っぽさがポイントなのかもしれない。前にも触れたように、ダンテはどこまでも俗っぽい。地上楽園のパレードについても、その俗っぽさが註で指摘されていた。こうした俗っぽさは、あるいは読み手に地獄や煉獄という、フィクショナルな世界に誘い、そして途中で置いてきぼりにせずに、ダンテに付いていかせるための、有効な手法だったのかもしれない。煉獄をイメージすること、これはキリスト教文化圏の埒外にいる僕にはひどく困難である(キリスト教徒にとっては必ずしもそうではないのかもしれないが)。「煉獄」は、現世とは全く切り離された「聖」の領域であり、非-現実的なものだと僕なんかは感じてしまうが、「煉獄」が現世の罪を贖う場であることから考えれば、全く切り離されているわけではないことがわかる。そこは現世と天国を架橋し、同時に分断する場所/装置のようだ。そこに俗っぽさを持ち込むダンテはどうなのか? どうなんだろう…、けれど「神曲」はもちろん現世の人びとに向けられた者であって、読者は、あくまで現世的な感性を持って、「神曲」を読む。であれば、「煉獄」が現世的か非現世的かに関わらず、それはどこまでも現世的なやり方で描かれなければならない。ベアトリーチェと痴話喧嘩をするのも、ヴェルギリウスに金魚の糞みたいに引っ付いて歩くのも、調子に乗って彼に叱られるのも、地上楽園で安っぽいパレードがなされるのも、ひょっとしたらそうした意図によるものなのかもしれない、などと勝手に思った。
同時にこの煉獄の世界はとても事細かに構成されている。そうしたフィクションの構造の緻密さ。また、天文学など自然科学や観察への深い関心。そして何よりもダンテの圧倒的な表現力。これらがものすごい相乗効果をもたらしている。
完全に引き込まれてしまいます。
あと、キリスト教って面白いなぁ、と思うのが、地獄と煉獄(天国)との線引き。結構悪い人でも、死の直前に、神に祈ればいつかは天国に行けるんだなぁ、と。逆に神に祈らなかった人は悪いことをしていなくても地獄や辺獄に行ってしまう。そんなもんですか。ちょっと不思議です。
ともあれ、ここまで来たので天国まで行ってみようかと思います。
あと、なんだか色々な本を読みたくなります。『デカメロン』も気になるし、オウィディウスの『変身物語』も読みたい。そしてもちろん『アエネイス』も。
0 件のコメント:
コメントを投稿