“絶望のアナーキスト”から“反ユダヤ主義者・対独協力者・戦争犯罪人”まであらゆるセンセーショナルな肩書きを背負ったセリーヌは、呪われた作家だ。だがその絶望と怒りの底には、声なき弱者への限りない慈しみが光る。そして哀しみとユーモアも。生来負債として負わされている死を、なしくずしに支払っていくしかないと謳う、狂憤の書にして愛に満ちた救いの書。
『夜の果てへの旅』に続き、二作目のセリーヌ。ただ『夜の果てへの旅』を読んでからだいぶ時間が経ってしまったので、重ね合わせながら読むことはできなかった。
文体破壊云々は、日本語に変換されてしまうとよく分からなくなってしまう。原語で読むとなかなかの衝撃、らしい。最も翻訳を介してもこれだけの衝撃を与えるわけですが。あとがきによればある批評家は「この卑猥な叙事詩はフランス語ではない、俗語で書かれている」、と評したとか。最下層の人々の日常やその生き様を克明に描き出そうとすれば、「フランス語」の域からは外れてしまう。逆に言えば、セリーヌ以前のフランス文学においては、最下層の人々の生というのはここまで露骨に描かれてこなかった、ということなのかもしれない。
反ユダヤ主義者やら戦争犯罪人やら、セリーヌを指してよくいわれるけれども、僕が読んだ2つの作品でそれらはほとんど前景化していない。だから、率直に言ってよく分からない。もっとも略歴によると、彼の反ユダヤ主義的言説が活発になったのは『なしくずしの死』刊行以後らしいが。反ユダヤ主義的言説というのが具体的にいかなるものなのか、その背景は何なのかについては若干興味がある。というのも、この2つの小説を読む限り、この世界のあらゆるものが罵倒の対象になっているし、そこにユダヤ人が付け加えられたからと言って特に驚くことはない。にも関わらずユダヤ人に呪詛をはくシーンが全くと言っていいほど登場しないのはなぜか。反ユダヤ主義的言説は彼がこの2つの小説を書いた時点でも、のさばっていただろうに。まぁ、ひとまずそのことは置いておこう。
この小説が呪詛と怒りに満ちた小説だとあらかじめ知っている人は、冒頭の一節に意表を突かれるかもしれない。この物語はこんな文章で始まる。
みんなまたひとりぼっちだ。こういったことはみんな実にのろまくさくて、重苦しくて、やり切れない……やがて私も年をとる。そうしてやっとおしまいってわけだ。たくさんの人間が私の部屋にやって来た。連中はいろんなことをしゃべった。大したことは言わなかった。みんな行っちまった。みんな年をとり、みじめでのろまになった、めいめいどっか世界の片隅で。
『なしくずしの死』というタイトルと、内容紹介の「生来負債として負わされている死を、なしくずしに支払っていくしかないと謳う」、というくだりと、訳者によるあとがき。それらとこの一節を重ね合わせると、なんとなく見えてくることがある。フェルディナンや彼の家族、そして発明家クルシアル、彼らは絶えず不条理な運命に翻弄される(もちろん自分でそれを招き寄せている部分はあるけれど)。人生は苦痛に満ちていて、彼らはきしんだ悲鳴を上げ続ける。彼らの世界、人生はどこまでもこの苦痛の繰り返しに過ぎない。それを繰り返していくうちに、いつしか年を取り死んでいく。彼らは、あらかじめある負債を背負っていて、それを支払い続ける。それが帳消しになったときにもたらされるものが死なのだろう。
ただ、負債それ自体は苦痛だとしても、その支払い自体は希望や歓びのある行為なのかもしれない。彼らは、様々な困難に直面する。それに憤り、嘆き、絶望する。しかしその中でも、何かを見出してそれに乗り越えようとする。そうした乗り越えを目指す彼らの様子を、セリーヌは昂揚感とともにつぶさに描き出している。こうした彼らの強靭さは生の力強さそのものであって、こうした根源的な生の肯定がこの小説にはある。つまり、あらかじめ背負わされた負債を彼らは生の力そのものによって報いようとする。神は助けてくれない。助けてくれるのは、生それ自体なのだ。
だからこの小説はとても力強いし、面白い。「……」を多用し、地の文と会話文と心情の独白が自由に入り交じるこの文体は、否応無しに読む者をこの虚構の世界へと引きずり込む。距離を保ちながらこの小説を読むことはひどく難しい。気付けばフェルディナンやクルシアルと一体化している。そして彼らの思いが転移するがごとく、様々な心情・怒り・共感を読者の植え付ける。だから、読んでいて気分が悪くなることが何回もあった。これほどの力を持つ小説はそうはないだろう。
思わず笑ってしまうシーン、目を背けたくなるシーン、ごちゃごちゃして訳が分からなくなってしまうシーン、色々あります。個人的には家族一緒に船でイギリスに旅行する際のゲロ地獄シーンにどん引きしました。