2010年2月28日日曜日

吉本隆明 『遺書』

人間の死は「死ねば死にきり」でよい。一度は死の水際まで行った吉本隆明が、個人の死から、国家、教育、家族、文学の死までを根源的に考察。本当の遺書ではなく、「フィクションとしての遺書」として死を見据える。

少し前にブルータスで吉本隆明を特集していたという話を聞きました。なんで?
そのときはたいして気にも留めてなかったんだけど、数日前にそういえばいくつか文庫もってたなぁと思い、探していたら目に入ったのがこの本。
口述筆記スタイルの読みやすい本です。けれども、個人的にはいまいち。まじめに話をしているようには思えず、なんだかなぁと思いながら読んでいました。
テーマは、「死について」、「国家について」、「家族について」、「教育について」、「文学について」、「わが回想」みたいな感じ。
よく分からない提言とかとらえどころのない話ばっかり。こういうのが彼の思想のどの部分から引き出されているのか、を知っていれば面白かったのかな? 別に読まなくてもいい本。少なくとも「いま」読み返されるべき本ではないような。
もう少し彼の思想を追ってみないとなんともいえないけど、現時点では特に書くべき感想はないです。以上。

2010年2月27日土曜日

クレア・キーガン 『青い野を歩く』

名もなき人びとの恋愛、不倫、小さな決断を描いた世界は、「アイリッシュ・バラッド」の味わいと、哀しみ、ユーモアが漂う。アイルランドの新世代による、傑作短篇集。小池昌代氏推薦!

あんま期待してはいなかったけど、なかなか面白かった。
これってアイルランドっぽいなぁ、と思ってしまった。アイルランド文学なんてほとんど読んだことないし(興味深い人が沢山いるのは知ってるけど、なかなか手を出せず…)、アイルランド文学ってものから(そんな括りが有効だとして)何らかのテーマが抽出できるものなのかはよくわからないけれど。
荒涼とした自然と、ケルト神話(神話とまではいかなくとも土着的な伝承)と、カトリックと結合した封建的かつ家父長的な秩序。そしてちょっと幻想的だったりも。
とはいえ、何よりもそこに生きる人びと。

彼女の文体は、ほどよい透明感(この短編集のなかでガラスがしばしば登場するが、ちょっと曇ったガラス、のようなイメージ。自然でも人間でも透過させてしまうような、けれどもどこかぼんやりとしているような。うん、ちょうどこの本の表紙みたいに)があって描写力にも富んでいる。こねくり回したような、もってまわった表現はほとんど出てこないし、シンプルに文章を積み重ねていく。だからあっさりと読んでしまうのだけれども、語られる内容は同衾であったり不倫だったり、神父との性交渉であったり、とても生々しい。家族や、男女や親子の絆と、その破綻。あるいは取り返しのつかない過去。それは結構哀しい話なのだけれども、彼女はその哀しさを誰かに向かってまくしたてようとはしない。そうではなくて、しばしの沈黙のあとに、適切な言葉を選び取りながら静かに物語る、あるいは呟くような、そんな印象。ちょうど、『花様年華』でトニー・レオンがカンボジアのとある遺跡の壁の穴に秘密を吹き込んだように。
そしてラストの小さな決意。救い、というほどではなく、劇的に何かが変わる訳でもない。ただ、明日からも生きていこう、ということを決意する。たったそれだけのことだけれども、なぜだろう、とても心に残る。

動物の視点の挿入など視点の切り替えも節度を弁えていて効果的。自然や動物も巧みに描くけれども、やはりこの小説の主人公はアイルランドに住まう人間(アメリカの話もあるけど)で、彼らのやり取りや会話がとても面白い。うまいなぁ、と。
「青い野を歩く」、「降伏」、「森番の娘」あたりは印象的。

気になること。原文に当たらずとも気付いてしまうような、明らかな誤訳は勘弁して欲しい。興ざめしてしまう。

2010年2月26日金曜日

フランソワ・ダゴニェ 『世界を変えた、ちょっと難しい20の哲学』

自分を磨くための絶好の教科書! プラトン、アリストテレスから、ハイデガーやサルトルまで。知っておかなければならない<20の最も重要な知の遺産>を1冊に凝縮したエスプリあふれる哲学書。
著者は、若い世代にも支持されている現代フランスを代表する思想家であるが、本書でくり広げられる手法は、きわめてユニークである。今までの哲学入門書は、哲学者をタテに並べただけであったが、ダゴニェは先行する哲学に対して「異議」を申し立て、根底から新しい哲学の世界を開拓した哲学者だけを取り上げたのだ。
現実が不安な時代ほど、哲学への期待は高くなる。私たちは、「今」の新しい思想を考えるためにも、過去の重要な哲学をどう見るかという作業を行わなければならない。そのための格好の道具が本書である。

(あ、上の紹介文はあまり当てになりません。)
微妙、です。フランソワ・ダゴニェってどっかで聞いたことあるけど誰だっけ。
原題とは全く違うタイトルですね。『偉大な哲学者と彼らの思想』(フランス語は読めないのでニュアンスでの訳)、じゃPHP的にはアウトでしょうし。

PHPだからざっくりした入門書かと思ったんですけど、違いますね。ある程度素地がないと何言ってんだかわからないでしょう、これ。僕は素地がないので全く頭に入らなかったです。

やり方としては、哲学史(もちろん西洋哲学史のことですが)を、古代哲学、古典哲学、現代哲学の3つに分断する。そしてそれらの3つの区分間の対立、それぞれの区分の内部での哲学者の対立や乗り越えに焦点をあてて、議論をしています。
このやり方においおい、って思うことは必至ですが、おいおいって思っていると結論部分で、著者から猛烈な攻撃を食らいます。結構攻撃的な書き手ですね、この人。結論部分では予想されるであろう反駁を幾つか取り上げて、それに再批判を加えることに大部分を割いています。

古代哲学として取り上げるのは、プラトン、アリストテレス、ストア派、エピクロス派。このあたりはまぁまぁ面白かったんですが…。対立とか乗り越えとかを重視するあまり、それぞれの哲学者の思想をほとんど紹介していない。知ってれば、「うんうん」ってことになるのかもしれないけど、知らなきゃ何言ってるかよく分かりません。引用も多いのですが、その引用と本文との関係もよく分からない。しかも、例えばプラトンに対するアリストテレスの批判を取り上げながら、それに自分の見解も織り交ぜたりしているので、読んでいる側としては、完全に困惑します。
古典哲学ではデカルト、スピノザ、ライプニッツ、ロック・コンディヤック・ヒューム・ディドロ(この4人は一括りにして僅か10ページで論じます)、カントを扱うわけですが、古代哲学に比べて一人に割く時間が少ないので何がなんだか訳が分からないうちに終わります。そして現代哲学ではヘーゲルに始まり(現代哲学をヘーゲルから始めるのってよくあることなの?)、マルクス、ニーチェ、コント(!)、ベルグソン、バシュラール、ハイデガー、サルトル、でおしまい!
これ以降の思想家は無視なのかな。というか、ここまででなんだかなー、と思う人はいるのではないでしょうか。

宇波さんが訳者あとがきで述べているように、だいぶ変わった哲学史です、これ。戸惑いや違和感のようなものが訳者あとがきの行間から伝わってくる気がするのですが、気のせいでしょうか。
古代哲学と古典哲学をデカルトで区切るのはよくあることだろうけれど、古代ギリシャから一気に1800年以上(?)の時をまたいでしまうのって、さすがに違和感を感じるんですけど。

古代哲学は世界(コスモス)、その法則・組織を対象としたが、それは最も深い考察に必要とされる主体の知性をそこに従属させるためであった。他方、古代哲学の賢者は、自分に依存するものとそうでないものとを識別できた。政治哲学もまた「存在するもの」を正当化し、都市国家を強化した。しかし古典哲学は、古代哲学とは反対に、主体(コペルニクス的転回というときの中心)をきわめて重視したので、宇宙がわれわれの表象するものになったか、そうなる傾向があった。このような形而上学の周辺において個人が重視され、その結果として、自由経済(個人主義)が始めて擁護され、民主主義の原理が開花したのである。(166ページ)

ざっくりいって、世界=宇宙が主役から主体・個人が主役になった。世界だろうが神だろうが、主体の知性がそこに従属していることには変わりがないのだから、中世なんて飛ばしていいよね、ということなのだと思います。ここで気になるのは、著者が哲学を「政治システムや経済体制」の基盤(下部構造的なもの?)として捉えている点。デカルトによって、自由経済(個人主義)は擁護された、民主主義の原理が開花した、と。そうなのかなぁ。(語弊のある言い方なのは百も承知だけれども)哲学ってそんな大仰なものですか。そもそもある哲学が登場する文脈、社会状況に彼は注目せず、単にそれ以前の哲学者との対立ばっか目を向けているのにそんなこと言われても、説得力がないような。

で、現代哲学がヘーゲルから始めるのは、彼が先の引用のように対立する両者を結合させ、調和させたから、ということです。このヘーゲルの評価については、よく知らないので何とも言えません。そして哲学はある意味でヘーゲルとマルクスで「終わった」と指摘します。全体的な体系としての哲学が終焉を迎え、哲学は「小さく」なり、それぞれの分野に哲学者たちは引きこもってしまった、と。したがって、この第3部はかなり混沌としています。このあとに出てくるニーチェについて、彼はこうした文脈に置くことができず分類することを放棄してしまう。そしてその後に取り上げる哲学者についても、彼は苦心しながら、かなり強引にそれぞれの哲学者を位置づけようとする。
この後半部分がすべてを物語っているように思う。哲学の歴史を3つに分断し、その内部での対立のみに注目する彼のやり方は、残念ながらここで破産してしまっている。そもそも、無理があったのではないか。哲学者が注目するのは、自分と同時代(あるいは少し前)の哲学者ばかりではないことは、自明なことだろう。彼が、サルトル以降の哲学者について触れなかった理由は、彼以降の哲学者(実のところほとんどの哲学者がそうであるように)はそうしたダゴニェが設けた分断を乗り越え、自由に思考してきたことがはっきりと露呈してしまうためではないのか?そんな疑義すら抱いてしまう。
原著の副題から考えれば、そうした対立や乗り越えを描くことで、彼は哲学のダイナミクスを描きたかったのだろう。だけれども、この本がそのことに成功しているようには僕には思えなかった。

付け加えだけれども、果たして哲学史とは何か、という問いをダゴニェのこの本は提起している。例えば、NHK出版の「哲学のエッセンス」シリーズを1冊にまとめたものがあったとして、それは哲学史になるのか。哲学史とは結局のところ哲学者と彼らの思想を並べただけのものに過ぎないのか、それとも…?

田中優子 『カムイ伝講義』

コミック界の巨星・白土三平のライフワークが江戸学の新視点を得て、新たな輝きを放つ!「いまの日本はカムイの時代とちっとも変わっていない」競争原理主義が生み出した新たな格差・差別構造を前に立ちすくむ日本人へ―。江戸時代研究の第一人者が放つ、カムイ伝新解釈。

昨日の勉強会のための参考文献。読んでくるように、といわれたので、勉強会前日の仕事帰りに慌てて書店で購入し、4時間くらいかけてさくっと読み終えました。おかげでずいぶんと粗い読書になってしまい、心残りですが。
そもそも「カムイ伝」読んでないしいきなりこんなの読んでもなぁ…と思っていたのですが、なかなかどうしておもしろい。
「カムイ伝解読」みたいな感じではなく、あくまで同書を素材として扱いながら、江戸時代のこれまで語られてこなかった側面に踏み込む、という形式なので、読んでいなくても十分楽しめます。

「これまであまり語られてこなかった側面」とは、例えば農民、穢多、非人、漁民やマタギ、サンガなどの生活、日常実践など。講演のなかでも田中さんが指摘していましたが、文学や美術からのアプローチではどうしても町民中心となってしまい、大多数を占めていたはずのそれらの人びとに接近することが難しい、ということです。また、武士についても、実際にその内部あった無数の階級差の存在や、「困窮する武士」についてはあまり注目されてこなかった、と。
あまりに知らないことだらけで、江戸時代って面白い!と素直に思いました。
「一揆」についても、「穢多」と「非人」の違いについても。
「一揆」というのが突発的な暴動とはほど遠い、周到に準備され一定の手筈の上に則った、社会運動であったということ。それは体制の破壊や「革命」ではなく(日本の思想史のなかで「革命」思想というのが全くと言っていいほど存在しない、と田中さんは指摘していました)、条件闘争というか、体制の枠組みの内部で、その是正を求める運動であったということ。
また、「穢多」と「非人」について、「カムイ伝」では完全に両者を混同しているが、その間には厳密な分断線が引け、それは端的にいえば前者は(生まれてから死ぬまでそれを逃れることができない)「身分」であるのに対し、後者は離脱可能な「職能」とでもいうべきものであった。「弾左衛門」のことも知らなかった(これは僕の無知ですが)。浅草界隈というのはとても面白い。相撲、神社、寺、山谷、弾左衛門、吉原、SKD、アサヒビールのモニュメント…
本のなかでは、出てこなかったけれども、「穢れ」とされてきたものと、「神聖」とされてきたものの意外な近しさ、について講演では少し触れていました。聖性と汚穢。文化人類学っぽいテーマですが、興味深い。
また、「かわいそうな一家」についても彼女は言及をしていました。
それに関連する、馬鹿げた問いを立てるならば、一体「天皇家」とは何なんだろう?憲法などに定められた、もう一つの身分。名字ももたず、職業も自由に選択できず、選挙権も、行動の自由もない。ある意味、軟禁状態にあるようにすら見える一族。他方で、多くの人びとが彼らに特別な感情を持っている。そもそも彼らって「日本国籍」は持っているの? 考えてみれば見るほど不思議な存在。

そんなことはさておき。
少し江戸時代の事象から現代日本を批判しようとするやり方が鼻につきますが、内容はとても面白いですよ。専門家にとっては当たり前のことなのかもしれませんが、興味深い発見がたくさんです。この人はなかなか視野が広い研究者かも。

2010年2月23日火曜日

ダンテ・アリギエーリ 『神曲 煉獄篇』

ダンテとウェルギリウスは煉獄山のそびえ立つ大海の島に出た。亡者たちが罪を浄めている山腹の道を、二人は地上楽園を目指し登って行く。ベアトリーチェとの再会も近い。最高の名訳で贈る『神曲』、第二部。

地獄を抜けて煉獄へ。
地獄篇とは打って変わった冒頭の明るい描写が、あぁ、ここが煉獄なのか、と思わせます。彼らが山を登るごとに、少しずつ予感が高まる。そして、ついに地上楽園へとたどり着き、そこでベアトリーチェと再会する。
ここはとても印象的で、「ここまで来たのか!」と読んでいる者もダンテとともに感じる(かもしれない)。けれど、ベアトリーチェと出会ったあとの出来事、これは…ひょっとしてただの痴話喧嘩じゃないか?
死んでしまったベアトリーチェが、なんで私のことを忘れて、あんな偽りの快楽に身を任せたの? 私ほど美しい肢体をもつものなど世の中になかったのに!(おいおい…)とダンテに吠えかかれば、ダンテは「すみませんでした、すみませんでした…」と謝り続け、あげくの果てに卒倒する。せっかく煉獄山の頂上、天国を間近にした地上楽園なのに、こんな俗っぽいやり取り。愕然です。
でも、ひょっとしたらこの俗っぽさがポイントなのかもしれない。前にも触れたように、ダンテはどこまでも俗っぽい。地上楽園のパレードについても、その俗っぽさが註で指摘されていた。こうした俗っぽさは、あるいは読み手に地獄や煉獄という、フィクショナルな世界に誘い、そして途中で置いてきぼりにせずに、ダンテに付いていかせるための、有効な手法だったのかもしれない。煉獄をイメージすること、これはキリスト教文化圏の埒外にいる僕にはひどく困難である(キリスト教徒にとっては必ずしもそうではないのかもしれないが)。「煉獄」は、現世とは全く切り離された「聖」の領域であり、非-現実的なものだと僕なんかは感じてしまうが、「煉獄」が現世の罪を贖う場であることから考えれば、全く切り離されているわけではないことがわかる。そこは現世と天国を架橋し、同時に分断する場所/装置のようだ。そこに俗っぽさを持ち込むダンテはどうなのか? どうなんだろう…、けれど「神曲」はもちろん現世の人びとに向けられた者であって、読者は、あくまで現世的な感性を持って、「神曲」を読む。であれば、「煉獄」が現世的か非現世的かに関わらず、それはどこまでも現世的なやり方で描かれなければならない。ベアトリーチェと痴話喧嘩をするのも、ヴェルギリウスに金魚の糞みたいに引っ付いて歩くのも、調子に乗って彼に叱られるのも、地上楽園で安っぽいパレードがなされるのも、ひょっとしたらそうした意図によるものなのかもしれない、などと勝手に思った。
同時にこの煉獄の世界はとても事細かに構成されている。そうしたフィクションの構造の緻密さ。また、天文学など自然科学や観察への深い関心。そして何よりもダンテの圧倒的な表現力。これらがものすごい相乗効果をもたらしている。
完全に引き込まれてしまいます。

あと、キリスト教って面白いなぁ、と思うのが、地獄と煉獄(天国)との線引き。結構悪い人でも、死の直前に、神に祈ればいつかは天国に行けるんだなぁ、と。逆に神に祈らなかった人は悪いことをしていなくても地獄や辺獄に行ってしまう。そんなもんですか。ちょっと不思議です。
ともあれ、ここまで来たので天国まで行ってみようかと思います。
あと、なんだか色々な本を読みたくなります。『デカメロン』も気になるし、オウィディウスの『変身物語』も読みたい。そしてもちろん『アエネイス』も。

2010年2月22日月曜日

ジャック・ランシエール 『感性的なもののパルタージュ—美学と政治』

今日、「政治」はどこにあるのか。労働、芸術、そして言葉は誰のものなのか。ポストモダンの喪の後で、体制に絡めとられた民衆の間で、分け前なき者たちの分け前はいかに肯定されるのか。政治的主体化と平等をめぐる、現代の最も根源的な問いを、美的=感性論的な「分割=共有」の思考を通じて解放する、ランシエール哲学の核心。日本語版補遺・訳者による充実の著者インタビュー付。

難しい。けれども、面白い。ランシエールの著作として、インスクリプトから『不和』と『民主主義への憎悪』が訳出されていましたが、これからも続々と刊行されていきそうです。平凡社からも『イメージの運命』が3月に。法政大学出版局からは、他にも『無知なる教師』(1987年)と『解放された観客』(2008年)が刊行予定とのこと。インスクリプトからも複数刊行予定ありとのことです。

面白い。けれども、難しい。本書は3つの部分からなっていて、序盤が『感性的なもののパルタージュ』本文。次いで、訳者によるランシエールへのインタビュー、最後にそのインタビューの「余白」に書き込まれた訳者解題。特にこのインタビューと訳者による解説がとてもありがたかった。「ランシエール入門」的な役割を果たしてくれる、すぐれて有用な補遺です。

はっきり始めに書いておくけれども、僕はこの本の内容をほとんど理解できていない。けれども、幾つか面白いなぁと思ったところを取り出すことくらいはできるかもしれないし、それが本書の内容を掴む手がかりになるかもしれない。以降、ちょっと試みてみよう。(読み違えの可能性大いにありです。)

まず、ランシエールの思考法モデルについて訳者は、従来の幾つかの思考モデルとの違いを明らかにしている。弁証法モデルにおいては、対抗者の最終的な止揚が目指され、それは対抗者の事実上の消滅を意味する。マルクス主義における国家の「消滅」を想起すればよいだろう。次いで対立的モデルがある。これは対抗者と同じ法・論理を共有した上でそれに対立する。そこでは対抗者の消滅ではなく、対立・競争による分け前の争いが目指される。これは議会主義的な対立を想起すればよいと訳者は述べる。また、このネガティヴな派生態としてテロリズムやメシアニズムが存在する。
それらに対し、ランシエールの思考法は「減法的モデル」とでも呼ぶべきものである。

もはや、対抗者の消去が問題なのでも、対抗者と同じ現実の論理を共有した上でそれに対立することが問題なのでもない。政治的行為および政治的主体は、対抗者の支配的論理に対する例外として、すなわちその論理から抜け去るものとして構築されなければならない。…ランシエールは次のようにいう。「ポリスの本質は、空虚ないし付加の不在によって特徴づけられた感性的なものの分割=共有であるということに存する。そこでは、社会はそれぞれ特別な行為=製作様式へと捧げられた諸々のグループ、これらの従事活動が行使される諸々の場、そしてこれらの従事活動と場に対応した諸々の存在様態から成っている。機能、場、存在様態のこのような適合においては、空虚はいかなる場にもありはしない。「存在しない」もののこのような排除こそが、国家的実践の核心にあるポリス的原則である」(140ページ)

どういうことか。詳しく見てみよう。
まず、感性的なもののパルタージュ(分割=共有)とは何か?それは「感性的な諸明証性がなす体系」のことであり、「誰が共同のものの分け前に与ることができるのかを、その者が行っていること、そしてこの活動が行使される時間と空間に応じて目に見えるようにする」ことだという。労働者はその身体を労働に使用させるだけの存在である。そして彼らの夜はその労働力を再生産させる時間に過ぎない(しかし実際のところ彼らは夜に何をしていたのだろう?)
あるいは、奴隷の声は、言葉ではなく、動物たちの叫び声に過ぎない。移民労働者の声も、マジョリティにとっては言葉ではなく、雑音に過ぎない。このようにどれが聞くべき人間の言葉で、どれが聞くに値しない騒音なのかを決定する形式のことを彼は「感性的なもののパルタージュ」と名付ける。であるならば、政治とは何よりも美学=感性論における問題であり、あるいはこうした既存の感性的なものをめぐる構造への挑戦こそが「政治」である。既存のポリス的な体制、そこでははすべてがあるべき場所に収まっていて、空虚も存在しない。したがって、ポリスの論理を宙づりにすることができるのは、そうした空虚を出現させるという出来事によってである。
ポリス的状況、労働者は何も言わずに労働し、妻はおとなしく家事労働をするような体制。そのなかに、それまでから考えれば、そこにいるはずのないものが存在し、声を上げ始める、その事をランシエールは「政治」と呼ぶ。ハーバーマスのいうような「理性的な対話」は、「政治」ではなく、既存のポリス的状況の再生産に過ぎない。「公共圏」に属しているのは誰か?「公共圏」には存在しない(=締め出された、又は存在する資格がないとされた)はずの空虚が、そこに顔を出すこと、それが「政治」である。
したがって、そうした「政治」はまれであるし、「間違い」でさえある。この「間違い」であるというのは、それまでの状態、あるいは「自然な状態」から逸れた、という意味である。こうした通常の用途=行き先から逸脱しうる存在(この言い方は問題があるのか?人間は潜勢的にこうした逸脱をしうる存在なのか。あるいはそうした逸脱は純粋な「出来事」であるのか。)である人間は、まずもって「文学的動物」なのだ、とランシエールは強調する。インタビューの次の部分は決定的に重要な発言だろう。政治が人間の存在論的特性を前提にするのか(先の括弧の問いとほぼ同じ疑問か?)、という問いに対してこう回答する。(少し長いけれど…)

私は、政治的主体化を、人間が言語を所有する存在であるということに基づけているのではなく、この所有そのものが、論争に関わるような何かであるということに基づけています。というのも、政治があるとすれば、それは単に、アリストテレスが言うように、人間がロゴスを所有しており、ロゴスが動物的な声から区別されるからではなく、ロゴスに属しているものと声に属しているものに関して、常に論争があるからなのです。…同様に、私が「人間は文学的動物である」と言うのは、それが言わばその通常の用途=行く先から引き抜かれた動物であるということなのですが、それも単に言語活動によってではなく、ある種のタイプの言葉、すなわち主なしに流通する言葉、誰でも自分のものにすることができる言葉によってということなのです。文学的動物とは、言語活動がもはやある条件やある用途=宛て先に適合してはいないような言語体制によって捉えられた動物なのです。政治的動物は、動物の声と人間的な声との分割を問いに付し直すべく介入する動物なのです。というのも、ポリスの論理はまさしく、正当なものと不当なものに関して議論を行うロゴスの特権を、知識のある者にのみ割り当て、それ以外の人類を、満足、不満足、不安、苦痛等々を表現する声の領域に制限するものだからです。そして政治が開始されるのはまさしく、声によって騒音を発するだけと見なされていた者たちが、言葉を語る主体として自己を表明するときなのです。文学的動物に関しても事情は同じです。それは、自分の置かれている状況から切り離された言葉によって捉えられた動物です。このような言葉は、…それが誰に向けられているかわからない言葉、それがいかなる経験を表現しているのかわからない言葉なのです。文学の言葉とは、凝縮された経験、あるいは凝縮された生の形式のようなものであり、誰に属しているのか、そして誰に向けられているのかといったことがわからないような呼びかけです。(87−88ページ)

文学的動物はエクリチュールによって捕らえられることで、自らの自然な用途=宛て先から自身を逸脱させることのできる存在である。逆に言えばエクリチュールは従来の感性的なものの布置を撹乱させる。つまり、「この言葉によって捉えられた者たち、そしてまた、自分たちに向けられたのではないこの言葉を、決して自らの固有のものとすることのできないまま奪取する者たちは既存の分割=共有を再編成する発話主体の集団として、正当性=正統性に欠いた政治的集団を形成することになる。」(150-151ページ) 

歴史の問題、証言の問題、フィクションの問題についてもランシエールは言及する。
これもとても重要だけれども、これ以上引用に近い記述を続けてもしょうがないので止めにする。
インタビューや「解説にかえて」で語られていること以上のことがここで述べられるとも思えないので。

とはいいつつも1点だけ。この「歴史」を巡るランシエールの指摘はとても重要。実証主義的歴史学、倫理的言説への還元、否定論的修正主義への批判はそれぞれ、とても示唆的。とくに歴史の「倫理的奪取」が証言の証言不可能性へと、つまり「出来事」に対する絶対的な隔たりを措定し、思考の不可能性へと、つまり、否定論者と同じくその出来事を存在しないものとして扱うことへと帰結するという指摘。そしてそれらに抗して、ユダヤ人虐殺を「政治としての特異性において」(つまり「ホロコースト」としてではなく)思考する必要性を提起する。
さらにフィクションの問題。ランシエールの「フィクション」概念の面白さと、思考の賭け金は、フィクションを抹消することではなく、支配的な(コンセンサス的)フィクションに、他の(ディセンサス的)フィクションを対立させることである、という点だけ指摘しておく。

とても根源的かつ魅力的な思考。2010年おすすめ本の一つ。

2010年2月18日木曜日

池内恵 『イスラーム世界の論じ方』

日本の言説空間の閉塞状況を乗り越え、時々刻々変化する国際政治システムにおけるイスラーム世界の全体像を内在的かつ動的に把握するための枠組みを提示する。

2009年サントリー学芸賞。
盛り沢山な内容です。中東を始めとしたイスラーム圏の政治状況はもちろんのこと、ヨーロッパの移民政策や日本のイスラーム研究者やメディアへの批判、アラブ思想家たちのアメリカへのまなざしや、中東のメディア分析まで、広範に論じています。
前半はやや専門的な論文、後半は雑誌や新聞への寄稿を中心に構成されていて、後半は時事批評がメインとなっています。
こうした時事批評を現在に読むことの意味はなんだろう、という気もしますが、やはり彼の分析は冷静かつ明晰ですね。こうした時事批評からも、彼の姿勢や視点などが汲み取れます。誤解や無知、無関心がついてまわるイスラーム報道Covering Islamや彼らを理想化させ、そこから反米意識を取り出し、共有しようとする研究者への不満、あるいは苛立ち(しかしイスラーム研究者は須らく池内氏が批判しているような姿勢なのだろうか?)、イスラームを研究するなかで見えてきたイスラーム国家の現状へのペシミスティックな諦念にも見える態度や、そんな中でも現実を冷徹にまなざしつつける姿勢。そうしたものがとてもよく読み取れる。
あまりに現実主義的な分析には、ちょっとなぁ…と思うところがない訳ではないですが、研究者というよりもジャーナリストに近いなぁ、という印象です。あるいはこういった思考とするのが国際政治学なのか。この間読んだ『現代アラブの社会思想』とはちょっと印象が違いますね。
ただ、やはり面白いです。沢山の発見があります。イスラームや中東の現状について、あまりに多くのことを知らなかったのだなぁということを気付かされます。
個人的にはイスラーム思想の研究をもっとして欲しいなぁと思うのだけれど。

竹沢尚一郎 『社会とは何か—システムからプロセスへ』

「社会」という語は、どのような意味や役割を担わされてきたのか。十七世紀以降のヨーロッパで、それは初め、統治や富の増大を目的に国家が介入する空間として認識された。後に、貧困・暴力・不衛生など、「社会的な」問題が拡大し、それに対処するための対象となった。社会を複数の要素からなる複合的なものとしたのはスピノザである。人が他者とともにより良き生を築くための場という彼の構想に、社会の可能性を読む。

なんだかなぁ、という感じ。
タイトルと参考文献を見て期待して買ったけれども、肩すかし、でした。
本文よりも参考文献のほうが面白かったです。

1章では、ホッブズ、スピノザ、ルソーの「社会契約」論を取り上げ、国家の権威を合理化させるために想定された「社会」という観念について検討する。このあたりはとてもありきたりの話で、目新しい話はありません。スピノザを再発見したのはトニ・ネグリだといっていますが、これは誤解でしょうし、このスピノザの読みも(どれだけオリジナルなものかは知りませんが)どうなのかな、と。

2章では、いわゆる「市民社会」の形成過程を追っています。うーん、といった感じ。3章では、一方ではサン・シモンやプルードンなどの社会思想や社会主義を、他方ではコントからデュルケームに至る社会学の成立過程について論じています。前者はあまり知らなかったところなので、紹介してくれてありがとう、といった感じですが、文字通り「紹介」だけです。後者もしかり。

4章はフランスの移民「問題」、5章では水俣病を取り上げながら議論をする訳ですが、何の話をしたいのかはよくわからない。

…とまぁ色々扱っている訳ですが、このうちどの内容も、専門とする人々から見れば、なにいい加減なこと言っているの?ということになるんじゃないかと。

著者が「社会」をどのように考えているのか、は以下の引用に伺えます。

社会とは、すでに固定されたものとして存在するわけではなく、人びとの意思と行為によって変えることのできる、ある種の厚みをもった空間として考えられる。それをより良きものとしていくには、社会として何を実現していくかの最低限度の善の定義が共有されていることが必要であろう。もちろんその善は、時代とともに移り変わるであろうし、社会を構成する成員の討議を通じてたえず修正されるべきものである。そして、その成員が共通の善の定義に参加し、共同でその善の実現に向かっていると意識するとき、はじめてかれらのあいだに横のつながりが、社会的連帯が実現されるのではないか。(156ページ)


では社会を構成する成員とは誰なのか。彼のいう「社会」に外部はあるのか、ないのか。「厚みをもった空間」としての社会とは単一のものか、複数あるのか。ここでいう社会とは結局のところ国民国家なのではないか。社会とは「〜である」という話をしているのか、「〜であるべきだ」という話をしているのか。「最低限度の善」の追求が、ある特定の集団の排除や消去につながる危険性はないのか。討議から排除される人びと、聞き取ってもらえない人びとの存在はどうなるのか。そもそもここでいう「善」や「より良きもの」とは何だろうか。それは普遍的なものではないらしい、つまり時代とともに変わりうるものだから。
結局のところこれは、みんながお話しして、みんながいいなぁと思うことをやっていきましょう、そしたらみんな仲良しだよ、といっているだけではないか。
僕はあまりローティ、ロールズ、ハーバーマスなどの議論を知らないので、よくわかりませんでした。だけれども、これって中学や高校の社会の授業と変わらないような…。とりあえず僕には、こうした発想は必ず「排除」を含みうるだろうなぁということはよく分かります。
何だろう、彼は「社会的なもの」の話をしているのか「政治的なもの」の話をしているのか…。

また、その少し後では社会についてこんなことを言っています。

しかし、はたして社会は、それを構成するすべての部分が機能的に連関しあう等質的なシステムであるのか。むしろ社会とは、多様な諸個人と多様な構成原理をもつ諸集団が、自分たちの生の環境をより良きものとすべくせめぎ合う場であり、そうした行為がおこなわれるひとつの競合的なプロセスであると考えるべきではないのか。(162ページ)


社会とは競合的なプロセスである。さっきの話と少し印象が違いますが、恐らく「討議」という概念の中に「せめぎ合い」や「競合」という要素が含まれているのでしょう。でも、なんだかこれってそれぞれの利害関心に基づく政治(コーポラティズム?)みたいな話な気もしますが。でも「せめぎ合い」とか「競合」の場や過程として社会があるのなら、マイノリティってやっぱそこから排除されるんじゃないの、とか思います。そう考えるとやっぱこの『社会とは何か』という問いにこの本はうまく答えているのか…。
上の引用はスピノザを意識しているみたいだけれど、これは彼がいわんとしたことと違うんじゃないかなぁ。

あとこの本に出てくる「コミュニティ」概念にも違和感が。デランティの『コミュニティ』を読んでコミュニティ概念がよく分からなくなった、ということでコミュニティを「生活の共同とたがいの身体への関心、そして深い情緒性に基づいた複合的な関係性」と捉える。
ブランショのいうような68年フランスの混乱状況で生じた友愛(デランティの中では「ポストモダン・コミュニティ」と名付けられていたもの)もmixiもfacebookもコミュニティじゃない。「生活の共同」とあるから実家から独立して一人暮らしをしている人は、そこから外れる訳で、つまりそうした形態も家族もコミュニティじゃない。「たがいの身体への関心」の意味は定かではないが、会社で他の人の身体に関心を持っていないし、「深い情緒性」に基づいている訳でもないから、会社もコミュニティじゃない。ってことは僕はどのコミュニティにも帰属していない…のか?
こんな矮小なコミュニティ定義に当てはまるコミュニティって何ですか?コミューンですか?こんなに狭い定義付けをすることって生産的なのだろうか?他方でデランティの重視していた帰属belongingの要素も含まれていない。これでは、今日私たちは複数のコミュニティに重層的に帰属しているのではなく、どのコミュニティにも属していない、ということすらあり得るのではないか。「もし社会が均質的なシステムであったとすれば、それはやがてその内側から活力を失い、たんなるのっぺらぼうの制度として硬直化していくだろう」というけれども、彼の定義する「コミュニティ」こそ硬直化し腐敗していきやすいんじゃないの、とか思ってしまいます。
5章の水俣病の話は面白いけれど、「社会とは何か」という問いからは外れるんじゃないでしょうか。いや、そんなことはない、と著者は言います。

水俣のケースは、私たちの社会の理解に対しても大きな示唆を与えているのではないか。…それ[社会]は内部に、コミュニティやアソシアシオン、公共圏、地域社会、組合、社会運動体など、しばしば社会のそれとは異なる原理や規範に立つ社会的編成を数多く含むものである。その多数性や複数性こそが、安定的に見える社会の内部に亀裂を生じさせ、その亀裂を通じて私たちを人間存在の基底や歴史の深層へと導いてくれるのではないか。(198ページ)


そんな沢山のものを含む社会ってでっかいなぁ。人間存在の基底や歴史の深層とか、何のことなのかよくわからないけれど。
ここまで書いてみて思うけれど、やっぱり著者にとって社会=国民国家なのではないか。いや、あちこちでそうではない、ということを言っている訳だけど。
あと、いきなり水俣病の話をする前に、西洋における、社会の発明やら発見やらを論じたのだから、日本という文脈における「社会」概念やら理解やらについて言及するべきだと思う。日本において「市民社会」はあったのか、とか。最後に気になるのは、「社会とは何か」という言葉は、普通「社会とはどのようなものであるか」、ということだけれど、ここでは「社会とはどのようなものであるべきか」ということを指している。あるいは、意図的かどうかは定かではないにせよ、その両者を混同している。

書いていて盛り上がってしまったせいで、意味不明なところがあるとは思いますが、そんな感じです。無知やら読解能力の不足のせいで、僕がわかっていないだけの話かもしれませんが。

2010年2月11日木曜日

行友太郎・東琢磨 『フードジョッキー—その理論と実践』

カセットコンロを ターンテーブルのごとくあやつり、 とめどなく料理を作り、 食らい、語り続け、楽しみ、片付け 、厚かましいまでに人々をもてなす、 歓待装置=フードジョッキー いま・ここ広島から登場!

これは革命的なマニフェストです。すばらしい。

この間会社の人と飲んでいたらなぜかグルメ本の話になり、食欲って性欲と何ら変わらんよね、って話から、じゃあ「グルメ本はエロ本だね」という当然の結論に至りました。確かに北大路魯山人の本なんかを読んでいると、この人絶対ヘンタイだよなぁ、と思います。団鬼六的な。まぁその話はこの本に全く関係ない訳ですが、「食」ってテーマはとても面白いなぁと改めて。
そういえば、食とポスト・コロニアリズムについてはウマ・ナラヤンの「文化を食べる」という論文が抜群に面白かったけれど、日本で研究している人っているのかな。

ともかく。
フードジョッキーとは何か。
それについて考察を深めるために、まず本書の冒頭に記されているマニフェスト(これはひょっとしたら後世第二の共産党宣言と呼ばれることになるかもしれない)を引用したい。

 既にこの世界には無数のフードジョッキーたちが存在している。そのうちの限られた数名の者は自らフードジョッキーを名のり、その任務を意識的に遂行している。しかし、大多数のフードジョッキーたちは自分自身がフードジョッキーであることに気付きもせずに、フードジョッキーとして料理を作りまくり振る舞いまくっている。そのようなフードジョッキーは潜在的フードジョッキーと呼ばれる。今、この瞬間にも、世界中の至る処でフードジョッキーは誕生し続けており、これを止める事は誰にもできない。何故なら、人間であり動物でありゾンビである私たちは、生き続ける限り食べる事を決して止めはしないからだ。
 このように、食欲さえあればどのような場所にもどのような時間にもフードジョッキーたちは自然発生するのだから、フードジョッキーである事を勝手に意識した限られた数名である私たちは、フードジョッキーの野放図な誕生と増殖に拍車をかけるべく、後は火に油を注いでやるだけだ。いや、火に食い物を届けてやるだけだ。いや、燃え盛る炎にレシピを放り投げてやるだけだ。フードジョッキーたちの世界的猛攻勢は、私たちの厚かましく際限を知らない食欲に呼応して、今後更にその激しさを増すであろう。食欲という最小にして最大の要求、この要求の全面的肯定、これが私たちフードジョッキーの賭け金である(pp.9)


というわけです。なるほど。私たちは皆、潜在的にはフードジョッキーなのですね。


不特定の人々が集い、ともに調理し、ともに食らい、ともに片付ける。「コレクティヴ・キッチン」に限りなく近い、あるいはそのものであろう。
これは第一に食事が単なる消費や、労働の再生産手段に位置づけられている現状への異議申し立てとして捉えられる。昔込み合った大学の食堂を見て、豚小屋を連想したことがあった。ガヤガヤうるさい学食はうんざりだが、込み合ってみんな黙って必死に食べ物に食らいついている様はそれより数倍異様だった。食事ってそういうものじゃなく、もっと楽しいものではないのか。
果たして食事とは労働のための再生産手段に過ぎないのか。これはあまりに唯物論的な見方だし、こうした見方に同意する人はそうはいないだろう。生きるために食べる、ということは考えられても、働くために食べるということなど考えられるだろうか。生きることと働くことを等号で結んではいけない。だって、働かずに生きることは不可能ではないけれど、生きずに働くことなどできない(ロボット?)だろうから。ついでに言えば、食事はおいしいに超したことはない(そして安いに超したことはない)。
それだけじゃない。FJは料理を作る側/食べる側との境界を掘り崩す。主人と客人、あるいは給仕(従業員)とお客様という境界を溶解させる。この境界は同時にジェンダー化させられていた、つまり女性(主婦)/男性(主人)というように。しかし、FJは共に作り、共に食らい、共に片付ける。FJはこうした食事における境界線への異議申し立てとしても理解できる。こうした混淆は、彼らの作る料理にもなぜか反映される。なんでも混ぜ合わせる、合いそうにないもの同士もとりあえずごったにしてみる。それぞれに特異性を持つ素材を集合させることによって、新たな味を創造させる。偶発的かつ創造的な試み、それはマルチチュード的ですらある。同時にこの過程で「私」的な所有物であった素材が互いに判別不可能なまでに混じり合い「共」へと移行を果たす。そう、こうした協動の場こそ、ネグリ=ハートが「コモン」と呼んだものではないか。そういえば彼らはCommon Wealthの序章で、キーワードとして「(政治的概念としての)愛」と「貧困」を掲げていた。「コレクティヴ・キッチン」が貧しい人々が食べ物を持ち寄ることから始まったのと同様、FJたちも「貧困の文化」を肯定する。愛と貧困のFJたち。共にご飯を食べよう。

本書は、幾つかの宣言と、いくつかのレシピ、対談と用語集からなっている。
ここで登場する料理は例えば次のようなものだ。
「明かしえぬ共同体」煮込み/マメに敵対性をあらわにしていく鍋・サラダ・揚げ物一式/存在者が存在から離脱する鍋……
しかも、みんなおいしそう。やってみたい。
そしてその後に続く対談が抜群に面白い。「アンデルセン」と「スターバックス」を目の敵にし、延々とうんこについて語り続けたかと思えば、イカ天を称揚し、イカの内臓に生命の神秘を見いだす。他方で、フェアトレードやヒロシマでのG8、グルメブームに鋭い批判を浴びせる。この批判は案外当を得ていて一読の価値あり。

これで1200円はお買い得。くだらな面白いですよ。

2010年2月8日月曜日

トム・ジョーンズ 『拳闘士の休息』

心身を病みながらも疾走する主人公たち。冷酷かつ凶悪な手負いの獣たちが、垣間みる光とは。村上春樹のエッセイにも取り上げられた、O・ヘンリー賞受賞作家の衝撃のデビュー短編集、待望の復刊。

ある者は肉体的に傷つき、ある者は精神を病んでいる。どこかこわれた人々を主人公に、苦しみと闘う様を描く。93年度O・ヘンリー賞を受賞、全米で賞賛された注目作家の処女短編集。

「2009年に面白かった海外小説」、という投票を豊崎さんが呼びかけたところ、堂々の1位になったという小説。その時はさほど気に留めてもいなかったのですが、会社の人から薦められたので、じゃあ読んでみようかと。
ちなみにランキングは以下の通りみたいです。

17票 トム・ジョーンズ『拳闘士の休息』(河出文庫)
14票 ジャック・ルーヴォー『麗しのオルタンス』(創元推理文庫)
13票 アラン・ムーア『フロム・ヘル』(みすず書房)
10票 マイケル・シェイボン『ユダヤ警官同盟』(新潮文庫)
10票 ロベルト・ボラーニョ『通話』(白水社)
10票 カズオ・イシグロ『夜想曲集』(早川書房)
http://d.hatena.ne.jp/bookreviewking/20091229/1262067515より。

…ほとんど読んでない。『フロム・ヘル』と『通話』くらいか。創元推理文庫とかチェックすらしていないなぁ。

ともあれ。
うん、面白い。
短編が11篇ほど収められています。特に印象に残ったのは序盤のベトナム戦争ものと、「わたしは生きたい!」でした。
なんだろう。生への執着とか、暴力とか、銃やら酒やら薬やら女やら、ってやつですか。
ハードボイルドっていうよりも、無骨、といったほうがいいのかも。それだけにとても力強いですよ。文章それ自体も暴力的かもしれない。精神というよりも身体にこだわる。暴力だって、死にかけた人間だって、性欲塗れの男だって、それはどこまでも「身体」に関するものだ。身体の優位。いや、精神-身体っていう二元論を立てたい訳ではないけれども。身体にまつわる欲望(欲動?)のもつパワーの凄まじさ、それをひたすらに描き続けている。描くというよりも叩き付ける、という言い方がふさわしいくらいの筆致で。
おそらく著者自身の体験が色濃く反映されていて、とても生々しい。
…と思って略歴を見返してみたら、ヴェトナム戦争には結局行かなかったのか。それをここまで鮮烈に描けるものなんだな、とびっくり。
ヴェトナム戦争を描くということはきっとアメリカ文学においては重要な意味を持っているだろうし、その醜悪な部分を露にするというのはひょっとしたらかなり冒険的なことなのかもしれない。けれど、ここでトム・ジョーンズがやろうとしていることは、ヴェトナム戦争の醜さを暴露すること自体ではないような気がする。他方で、ヴェトナム戦争の帰還兵たちの末路や頽廃なんかは映画などでもそれなりに注目されてきただろうし、恐らくは文学においてもそうだっただろう。ヴェトナム戦争が彼らを決定的に変えてしまった、そしてその後の彼らの有様はそのまま「病めるアメリカ」とパラレルになっているのだ、というような形で。しかし、トム・ジョーンズがやっていることはそれとも違う(ような気がする)。どちらかといえば、それは初めから病んでいたんだよ、と言っているように思える。ヴェトナム戦争で生死のあわいで生への執着と確信をもつのと同じことが、当のアメリカ内部でも起こっているし、私たちはそうやって生きてきたんだよ、とでも言いたいかのようだ。ボクシングもセックスも、それは生の讃歌だろうし、何よりも身体の讃歌だろう。
またニーチェやショーペンハウアーへの再三への言及も、やはり生への執着という点につながるのだろう。どこまでも「生きる」ということ。社会的には弱い立場にあり、時に蔑まれる人々のもつ力強さを描き出した、とても強靭な小説。

補足。たぶん彼の小説について触れるときに、欠かせない要素にあえて触れなかった。それについて軽率なことを言うべきではないし、もう少し考えてからにするべきだろうから。

2010年2月7日日曜日

上野修 『スピノザ—「無神論者」は宗教を肯定できるか』

聖書の敬虔と哲学の自由は両立できるか? 神の存在が揺らぎはじめた時代に、この難問をクリアーすべく徹底的に考えた男、スピノザ。未解決だったスピノザの「神学・政治論」の謎に挑み、スピノザ哲学のエッセンスを語る。

NHK出版の「哲学のエッセンス」シリーズ。装幀はきれいだし、値段は安いし、読みやすい。書き手をなかなかしっかりしている。ベルグソンや西田やスピノザなど、なかなかどうしてこういった入門書シリーズからは外れがちな思想家たちもしっかり押さえている。そんなこともあって、好きなシリーズです。
さて、そのスピノザ。上野修は、著名なスピノザ研究者の一人ですね。講談社現代新書から『スピノザの世界』というスピノザの入門書を書いています。これはとても好きな本。『スピノザの世界』が専ら、『エチカ』、『小エチカ』の読解だったのに対し、本書で扱われるのは『神学・政治論』であり、あるいは『国家論』である。だからこの二冊は一対のセットと考えたほうがいい。

とても読みやすいのでさらっと読んでしまうけれど、すごい重要な問題を扱っている。信仰と理性はいかに両立できるのか、そして神学と哲学はいかに両立できるのか。上野の解釈によれば、スピノザは、この両者を完全に独立したものとして考えていた。哲学は、何より「真理」を巡るものであるけれども、神学はそうではない。聖書を合理的に解釈しようとしてはならないし、無理に合理的に解釈しようとすれば、キリスト教そのものを掘り崩してしまう。他方で、それは聖書を非合理的に、超自然的に読まなければならない、ということを意味しない。キリスト教の最も重要な基盤は、神より命ぜられる「愛」であり、「正義」である。それに服従すること、敬虔であること、それだけで十分なのであり、それが真理であるかは問題ではないのだと。
スピノザの生きた時代、彼の生きた共和国のなかで、デカルト主義者への攻撃、彼らを「不敬虔」だとして排撃する気運が高まっていた。そんな中で、何が敬虔であり、何が不敬虔であるかをスピノザは探求しようとする。敬虔/不敬虔の線引きをするのは何か、それは第三者の「最高権力」に他ならない。それは神政国家においては神、もしくはその代理人であった。一方、スピノザの生きた時代において、それは共和国の最高権力、ということになる。しかし、それは共和国の権力を握る人物が、すべてを掌握することを意味しない。なぜなら、彼らの権力は、臣民の服従によって得られる群衆(マルチチュード)の力、彼らの潜在的な暴力に由来しているからであり、「最高権力掌握者を正義へと強い、と同時にそうやって臣民各人に正義を守るように強いているのは、彼らひとりひとりを等しく超える群衆の潜在的な暴力だということがわかる。」(77ページ)

この本は、どこまでも入門書であって、これ以上深く知りたいと思ったら、『神学・政治論』に手を出さなければならない。そうしたいのはやまやまだけれども、なかなかそんなことはできそうにない。ネグリの『野生のアノマリー』も気になるし、浅野尚哉のスピノザ論も気になる。ちょっと前の『情況』の別冊の「68年のスピノザ」も。

フランソワ・ドス 『ドゥルーズとガタリ 交差的評伝』

はじめてのドゥルーズ、ガタリの伝記。膨大な証言をもとに2人の軌跡を交差させながら、時代と思想の流れをたどるという、かつてない試み。60~90年代の思想/運動の歴史としてもまたとない書。
ドゥルーズとガタリの思想はいかに形成され、ドゥルーズ+ガタリの思想となったのか―これを読まずしてドゥルーズ/ガタリは語れない。厖大な証言と未公開資料を駆使して創造の核心に迫る。

ようやく読了。9月くらいから読み始めたわけですから、かれこれ半年近くこの本をつきあったことになります。もっとも何度か中断をはさんだわけですが。
ドゥルーズの思想、ガタリの思想、ドゥルーズ+ガタリの思想、これらはいかにして形成されたのか。もっといえば、ある哲学者の思想、これはいかにして形成されるのか。それは、ただその思想家の著述を辿るだけでは掴むことができないし、社会的文脈、時代精神的なものにすべてを還元させることもできない。彼がいかにしてそのような思想に至ったか、それを動的に把握するにあたって、「評伝」がもつ意義はとても大きい。そもそもドゥルーズの思想、とかフーコーの思想といった時に、あたかもその思想は一貫した、あらかじめ完成されたものとして受け取られてしまう。それってなんだか後付け的だし、すごい静的な図式のような気がする。付言すれば、これはドゥルーズやフーコーに一貫したものがないということを意味する訳ではない。ただ、そうした謂いは、彼らの思想を動的に把握した上でなされなくてはならない。評伝はそのための一つのやり方になりうる。ただしそのなかで彼らを英雄視することは避けなければならないが。

ドゥルーズとガタリに関心をもつ人々にとって、この本がもつ意義は大きいのではないだろうか。膨大なインタビューと資料発掘の積み上げによって明らかにされるドゥルーズとガタリの生涯。そうした資料一つ一つがとても貴重なものだろうし、彼らの思想を探求する上で大きな役割を果たしうる。
…んだろうけれど、僕は、そんな人ではないので。とても素直に読んでいた。へー、ドゥルーズってこういう人だったんだ、とかガタリってさぞかし面白い奴だったんだろうなぁ、とか。こうやって二人の評伝が重なっていると、改めて対照的な二人だったんだなぁ、と。絶えず動き続けるガタリと、一つの場所に留まることを好んでいたドゥルーズ。ドゥルーズに焦点を置いた章では、その多くが彼の思想を噛み砕いて紹介することに重点が置かれる。だから単純に読み物として面白いのはガタリを扱った部分かもしれない。少なくとも朝日新聞の書評で柄谷行人はそう語っていた。しかし、時間をかけて読んでいくなかで、ガタリもドゥルーズも同じくらいアクティヴだったのかもしれない、と思うようになった。ガタリは行動する。様々な活動に加わり、団体を設立し、雑誌を創刊し、精神分析を行った。一方ドゥルーズはむしろ思想のレベルでアクティヴであり続けた。過去の思想家を掘り返し、蘇らせ、その背後に回って自分の子をはらませることを通して。また、文学、映画、音楽など幅広いジャンルへの横断を通して。そしてガタリとともに。

この二人の思想には強烈な共感を覚える。彼らが何を考えていたのかなんてほとんどわかっちゃいないけれど。ちょうど、國分さんと千葉雅也さんが訳した『アンチオイディプス草稿』が刊行されたことだし、読み続けていこうかな、と。

決して安い値段ではないし、重たいし、読んでいてうんざりするかもしれないけれど、これは面白いですよ。二人の評伝であると同時に、これは20世紀後半フランスの思想家たちの内実を明らかにしているから。場合によってはスキャンダラスでさえあるかもしれない。
特にバディウへの批判は痛烈。ともあれ、ぜひぜひ。

2010年2月4日木曜日

ガブリエル・ガルシア=マルケス 『エレンディラ』

コロンビアのノーベル賞作家ガルシア=マルケスの異色の短篇集。“大人のための残酷な童話”として書かれたといわれる6つの短篇と中篇「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」を収める。『百年の孤独』と『族長の秋』の大作にはさまれて生まれたこの短編集は、奇想天外で時に哄笑もをもさそう。

いいですね。これまでガルシア=マルケスをさほど読んでこなかったことを後悔。集英社文庫の短編集くらいしかなぜか読んだことがなかったんですね。この数年、ラテンアメリカ文学を少しずつ読んでいますが、そろそろガルシア=マルケスに挑む頃合いのような気がします。

短編が面白い作家って、大抵長編を読んでも面白いんですよね。逆は必ずしも成立しませんが。日本の小説家が、どんどん短編が下手になっている、という不満を聞きますが、それが真実であれば、とても残念なこと。
一方、ラテンアメリカの作家たち(適当な括りですが)は短編を読んでいても面白い。ひょっとしたら、日本の作家とラテンアメリカの作家では、構成の方向性が逆なのかもしれませんね。つまり、長編→短編という方向性と、短編→長編という方向性、みたいな違い。前者には、長編的な大きなストーリーが根幹にあって、それを短編に持ち込もうとしてしまう。後者は、そうではなく短編的なストーリーがもとよりあって、それを織り合わせるようにして長編小説を組み立てているのではないか。そんな気にもなります。勿論こんな簡単な対比が日本とラテンアメリカで成り立つ訳はありませんが、傾向というかモデルとしては考えられるのではないか。この違いってなんだか重要な気がします。

あとがきで書かれていたことに、ガルシア=マルケスが本書のような短編集を習作と見なしていて、それを後に書かれる長編小説に組み込んでいったという指摘があります。もし、彼の長編(僕がまだ読んでいない)が、そうした(書かれたものも、書かれなかったものも)短編一つ一つを織り合わせる形で作られているんだとしたら、これはものすごく面白いに違いない、と。
過去の出来事が神話化され、伝承によって残されていく。その過程で、登場人物は抽象化され、物語も幻想的なものへと変容を遂げる。過去の出来事それ自体と、伝承、どちらがリアルなものか、と考えたとき、一般的には前者だと考えられがちだろう。けれども、恐らく後者なのだ、少なくともその物語に触れる者にとっては。「祖型化」の過程のなかで、物語は「出来事」の経験者から切り離され、浮遊し、その物語を聴く者にまとわりつく。こうした物語はウィルス、のような性質を帯びているのかもしれない。可塑的であり、ヴァイラルに広がっていく。(散種的という言葉が浮かぶが、それが適切な表現なのかは分からない。)
こうした土着的な伝承がラテンアメリカには(そして恐らくは世界の各地に)無数にあり、つまりそこには無数の物語がある。そして、そこから小説のストーリーが抽出される。そしてそうしたストーリーを更に変容させることによって短編小説が出来上がる。更に作家たちは各々、それらを自在に変化させ、組み合わせていくことで長編小説が出来上がる。こんな流れが頭に浮かんだ。
こういうと、長編小説を頂点にしたピラミッドとして理解されてしまいそう(長編が一番偉くて、次の短編、その下が伝承だね)だけれども、そんなことを言いたいのではない。伝承には伝承なりの、短編には短編なりの、長編には長編なりの良さがある、当たり前の話。

現に、ここに登場する小説たちは、どれも抜群に面白い。数行で読み手を引きずり込んでいくような、魔力的な語り。天使なんてあり得ないよ、なんて思う人は「大きな翼のある、ひどく年取った男」を読んでみるといい。きっと天使があり得るか、あり得ないか、なんてことはすっかり忘れ、物語の世界に没入していくことになるだろうから。
ちなみに、これらは独立した短編だけれども、微妙に重なり合う連作でもある。だからきっと最後まで読み進めることになるだろうけれど。

2010年2月1日月曜日

池内恵 『現代アラブの社会思想』

なぜ今、終末論なのか。
なぜ「イスラームが解決」なのか。
学術書からヒットソングまで渉猟し、苦難の歴史を見直しながら描く「アラブ世界」の現在。

終末論の地層――イスラーム教の古典的要素にさかのぼることのできる要素の上に、近代に入ってから流入した陰謀史観の要素と、現在に流入したオカルト思想の要素が、いわば地層のように堆積して、現代の終末論は成り立っている。そして、イスラーム教の古典終末論の要素にも、また積み重ねがある。イスラーム教はユダヤ教・キリスト教から続く「セム的一神教」のひとつである。ユダヤ教とキリスト教が発展させた終末論体系を基本的に継承しており、両宗教から受け継いだモチーフがかなり多い。その上に「コーラン」や「ハーディス集」によってイスラーム教独自の修正や潤色が加えられている。

2002年に大佛次郎論壇賞を受賞した新書。品切れにさせておくのはもったいないよ、講談社さん。とっても面白いのだから。
2002年1月、9.11から数ヶ月後にこの本が刊行されたということは、その前から練り上げられていた企画だったんでしょう。2002年から2004年くらいまで、イスラーム関係の新書が多数刊行されることになりますが、ここまでまともに分析した新書はなかったのではないだろうか。まとも、というのは、勝手なイメージを作り上げ、それに合うような素材を持ち出して、虚構のイスラーム像を構築しようとしていない、という意味だ。あるいは、イスラームを論じることによって、それに対置される日本や「西洋」を見いだそうとするのではなく、あくまでイスラームを見ようとしている。彼は、イスラームやアラブ諸国(特にエジプト)の現実を捉え、同時にその背景を思想的にえぐり出そうとする。

したがって本書は、イスラーム社会思想史とでも呼べるだろうか。イスラーム思想はもともと僕に未知の領域だった(恐らく多くの読者にとってもそうだっただろう)し、現代のオカルティズムの流行や陰謀論などはその存在すら知らなかった。だから、著者の意図に反して、本書がイスラームの「狂信性」を植え付けることになってしまったかもしれない。
ともあれ、この本は1967年以降のイスラーム思想の展開を論じている。大まかに素描すれば、マルクス主義と民族主義の混淆としての「人民闘争」論が破産した後に、イスラームへの回帰にその行き詰まりの打開を見いだそうとする思想、「イスラーム的解決論」が台頭する。しかし、そうした思想は、イスラームに帰ればすべてがうまく行く、といった程度の思想でしかなく、広く人口に膾炙したものの、それは現状に対するひたすらのアンチテーゼでしかなかった。他方で、「アラブ現実主義」が政治的主導者によって唱えられる。しかし、人々が政治的主体として振る舞うことが困難な事態が続いていることからすれば、民衆にはその不満を解消するための具体的な路はない。
そんな背景から一方では、過激な「原理主義」が台頭し、他方では終末論や、さらにはユダヤ人陰謀論、オカルティズムなどが民衆に浸透していった。ざっくり言ってしまえばこういうことだと思うけれど、多数の文献や史料の分析などによってこうした整理が大きな説得力をもって読む者に受け入れられるだろう。池内氏の分析や論旨展開は極めて明晰かつ真っ当なもののように感じられた。ユダヤ人陰謀論やUFO、バミューダ・トライアングル(懐かしい響きだ)がなぜイスラームの思想と結びついてしまうのか、どうやって整合性を担保しているのか、ということは容易には理解しがたいことだけれども、そうしたことに行き着いてしまうこと事態が、何よりも今日のイスラーム思想の閉塞感を表しているのだろう。オカルティズムをめぐるノーマン・コーンからの引用も効果的。

こうした思想の行き詰まりを露にさせていく行為は非常に苦痛だった、と著者はあとがきで述懐している。恐らくはイスラーム思想の研究者としての本音だったのだろう。イスラームが「隔絶された他者」でなくなってきている今日だからこそ、その等身大の姿を描こうとした、と彼は語る。そしてこれ以降の彼の著作・論文も、そうした問題意識の上に成り立っているように思う。品切れ状態みたいですが、かなり売れた本のようなので、古本屋などに行けば容易に見つかるでしょう。