2009年6月28日日曜日

ロベルト・ボラーニョ 『通話』

スペインに亡命中のアルゼンチン人作家と〈僕〉との奇妙な友情を描く「センシニ」をはじめ、心を揺さぶる14の人生の物語。ラテンアメリカの新たな巨匠による、初期の傑作短編集。


エクス・リブリスの先頭を華々しく飾るはずだったボラーニョ、延期が決まってどうなるかと思ったんですけど無事刊行されてなによりです。チェーホフ、カフカ、カーヴァー、ボルヘス、ウディ・アレン、タランティーノ、ロートレアモン…錚々たる面々の融合と受容がある、とか書いてあって、「ホントかよ!」とか「どんなんだよ!」突っ込みながら買ったんですが、まぁそれはさておき、非常によかったです。総じてドライな文体、マッカーシーやカーヴァー、デリーロやデニス・ジョンソンを髣髴とさせる。淡々と物語る姿勢、それによって悲哀やら可笑しさが際立ってくる。自分からも遠く距離を置いたような独白や、その対極にあるかのような率直な表現、不遇や何かしらの喪失感を抱えて生きる人々の生、節合的で刹那的なふれあい、それが一体となって読み手の心を揺さぶる、そんな感じです。会話だけで小説を構成したり、あるいは改行をほとんど設けずに語り続けたり、小説ごとに様々な技巧を凝らしている、それがそれぞれの物語ととてもよく調和しているように思います。
長編も同シリーズから刊行されるようなので、こちらも楽しみです。

2009年6月22日月曜日

ジェームズ・グラハム・バラード 『結晶世界』

忘れられぬ人妻を追って、マタール港に到着した医師サンダーズ。だが、そこからの道はなぜか閉鎖されていた。翌日、港に奇妙な水死体があがった。四日も水につかっていたのにまだぬくもりが残っており、さらに驚くべきことには、死体の片腕は水晶のように結晶化していたのだ。それは全世界が美しい結晶と化そうとする不気味な前兆だった。バラードを代表するオールタイムベスト作品。星雲賞受賞。

美しい。その一言に尽きる。僕なんかはFF世代ですから、あぁこの小説の森をイメージしてあのゲームの森は作られたのかな、なんて思ったりしました。結晶化していく世界とその結晶にどうしようもなく魅了されていく人々。ディストピア?いやユートピアなんだよ。この結晶の森の描写は怖いくらい魅力的、というか怖いから魅力的なのかもしれない。崇高。どんな科学的分析も意味を失ってしまうような美しさ。なぜ宝石は結晶に対抗する力をもつのか。宝石もまた人々を本当に長い間魅了し続けている。宝石の美しさは権力や権威と一体になっている。しかし結晶は森から生まれた。なぜそれが生まれたのか、それについて解き明かされることはないけれども。アフリカの奥深く、そこは宝石の産出地域ではあるけれども、(近代以降、と留保をつけるべきだろうか)その宝石を享受することとは縁遠かった地域だろう。そこから結晶は生まれ、世界を覆いつくす。宝石は結晶に対抗する力を持つけれども、それはやがて磨耗していく。いつかは私たちもみな結晶化していく。この小説で主人公がたびたび二項対立を発見する。その対立は結晶が拡大するにつれて消え去っていく。やはりこう訂正するべきなのか、結晶世界はディストピアでありユートピアなのだと。その二つは案外似通ったものなのだろうか。西洋-非西洋も、宗教も貧困も豊かさも全て結晶は覆い尽くしていくのだから。

ヴィクトル・ペレーヴィン 『眠れ』

コンピュータゲームの世界と一体化した中央官庁に働く職員、自我の目覚めを経験して苦悩する倉庫、夢の中で生活する学生、死の意味をめぐって怪談を続ける子供たち…。この時代に存在するものすべてを哲学的幻想で包み込み、意識のまどろみの中で変身話から東洋の宗教思想まで味わいつくす作品をつぎつぎと生み出すロシア新世代の作家ヴィクトル・ペレーヴィン。20世紀の終りに現われた異才の浮遊する世界。

なんというか…、こんなぶっとんだ短編集読んだことなかったかもしれません。倉庫が主人公かと思えば、ブロイラーが主人公だったり、ゲームと現実が渾然一体となった世界を描き出したかと思えば、眠りながら生活する術を学び、みんなが眠っていることを発見する…。
でももちろんただ面白いだけではない。この一つ一つの話がそれぞれ寓意的だし、その根底には様々な思想がない混ぜになった哲学のようなものが流れている。社会諷刺ももちろん。例えばブロイラーの話であれば、それを擬人化して描くこと、それ自体が一つの有効かつ意表をつく表現方法だけれども、それが再び人間に跳ね返ってくる。鶏の話のはずなのに、工場の中の話のはずなのに、なぜかそれが社会諷刺としても読めてしまう面白さ。
あちこちに鏤められたオリエンタリズム(というかロシアなんだから東じゃなく南なんだけど)的演出をどう考えるのかは、解説でも指摘されていた通り微妙な問題だとは思います。作為的ですらあるような気もしますけれど。しかし、これは面白い。62年生まれなんですね。ロシアの現代文学ってこんな人も出てきているのか、と驚きました。他の著作にも手を出してみたいなぁ。

2009年6月17日水曜日

前田司郎 『夏の海の半魚人』

「力みゼロ、の演劇界の鬼才」が描く、 リアルな響きの「エデンの園」
小学5年・魚彦。ちょっとオカシイ母、足の不自由な親友・今田、転校生の海子……。魚彦の日常と、日常に潜む「エデンの園」からの旅立ちを描いた、不思議でリアルな物語

今年の三島由紀夫賞ですね。短いですが、とても好きな小説です。
なんというか「分かる」んですよね。そして思い出す。
あぁ、こんなだったかもしれないって。確かにこんなこと考えてた、こんなことしてた、こんな風に過ごしていた。ヘドロの海坊主のような魚彦の感情の爆発も、主人公気取りも、悪人ぶりたい気持ちも、ヒーローになりたい気持ちも、大人になりたい気持ちもそれを表に出すことを恥ずかしく思う気持ちも。これは僕たちが通ってきた路なのだろう。

タイトルもこれでいいのか分からないし、文章も不自然なところもいくつかある。けれどもそれはさほど気にならない。最後の終わり方も、恐らくこれ以外には考えられないだろう。
「瑞々しい」という言葉はあまり好きではないけれども、そう使わざるを得ないような、澄んださらっとした美しさがある。
友人は「エロい」と評していたけれどもそれもわかる。ただ、その「エロさ」ってのは例えば僕たちが小学生の時に思っていたような「エロさ」なんですけどね、官能性の対極にあるような。

そういえば、僕はこの街に生まれたらしい、彼らと同じ五反田に。その後物心つく前に郊外に越してしまったけれども。そんなこともあって、僕はこの小説は好きですね。

岡田温司 『キリストの身体―血と肉と愛の傷』

キリスト教にとって大切なのは、身体ではなく精神、肉体ではなく霊魂ではなかったか。しかし、このキリストの身体をめぐるイメージこそが、この宗教の根幹にあるのだ。それは、西洋の人々の、宗教観、アイデンティティの形成、共同体や社会の意識、さらに美意識や愛と生をめぐる考え方さえも、根底で規定してきた。図像の創造・享受をめぐる感受性と思考法を鮮烈に読み解く、「キリスト教図像学三部作」完結篇。図版画像満載。

読み終わった本が何冊かあるんですが、ちょっと忙しいのであんまり書けていません。
中高がミッションスクールだったので、ミサやらなんかは偶にあったんですね、聖水なる液体をかけられたり、信者の学生がウェハースを食べてたり。僕は当時全く関心がなかったのでなんだこれ?って感じだったんですけど。あぁでも聖書を読むのは好きでした。どこへいったんだろう?

この本はなかなか面白かったです、なかなか内容が濃い。内容は5つのチャプターに分かれていて、(やや冗長ですが)それぞれの内容を紹介してみようと思います。
1章ではキリストは美しかったのか、醜かったのか
2章では聖体拝領という「儀礼」について、あるいはキリストの肉や血を食す、ということについて
3章ではキリストのイコンと聖遺物について
4章では「鏡」としてのキリストのイメージについて
5章ではキリストの受難の傷がいかに「愛」についてのイメージを喚起してきたかについて
それぞれ考察を行っています。

たとえば1章でキリストの美醜について取り上げる際、彼が注目するのはその歴史的な変遷です。様々な教父の発言、そして絵画からその揺れ動き、移り変わりに注目していく。美しい/醜い、あるいは醜いから美しい。画家はある時代には醜さを描くことに最大限の努力を払い、別の時代には理想的な美しさを追求しようとする。キリストを描く際、美/醜は美意識の位相にあると同時に宗教感情の位相にもある。キリストの想像を絶する受難の様は人々の心に深く訴えかける。それは行き過ぎるとキリストに対する冒涜として見做されるかもしれない。逆に理想的な美をもって描くことはその超越性や美しさを訴えかけることになるが、時にそれは官能性、異教性を孕むことになる。その揺れ動きが今日も続いており、例えば映画においてキリストを描くこと(「パッション」)に対する批判や評価もこういった問題の延長線上にあるのだという。

この本の面白さは、彼の自在で横断的なアプローチにあると感じます。例えば聖体拝領についてはその儀礼的な側面に注目し、人類学的なアプローチで接近する。パンは肉であり、ワインは血である。だとすればそれは最大の禁忌であるカニバリズムではないのか?あるいはそれは「神」を食べることではないのか?メアリ・ダグラスやヴィクター・ターナーやらも出てきたり。

読んでみて、改めて図像解釈学(イコノロジー)って面白いなぁと感じました。本書のように人類学的であったりジェンダー研究的であったり神学的であったり、宗教学的であったり様々なアプローチを用いることで1枚の絵画から本当に沢山のことを知ることができるんだなぁと。「おわりに」で著者が語るように、それぞれの時代の人々がその絵画をどのように見つめていたか、そしてその視線が絵画を鏡として人々にどのように跳ね返ってきたのかを考えることの難しさと面白さ。彼は人々の想像力や欲望、感情を度外視した美術史の有り様には批判的であって、そうではない美術の語り方をめざしている―それにはヴァールブルグから受けた影響が大きいのだというが。900円以下でこんな面白い本が買えるなんてって感じです。中身のない感想で本当に申し訳ありませんが。

後日書き直します

2009年6月7日日曜日

仲正昌樹 『今こそアーレントを読み直す』

アーレント的思考が、現代社会を救う! 閉塞した時代だからこそ、全体主義を疑い、人間の本性・公共性を探る試み 20世紀を代表する政治哲学者が、なぜいま再評価されるのか。人間の本性や社会の公共性を探った彼女の難解な思考の軌跡を辿り直し、私たちがいま生きる社会を見つめ直す試み。

さて、かなり売行き好調な講談社現代新書の新刊です。仲正はやっぱり売れますね、何でだろうと思いますが。
3月にアーレントの『カント政治哲学講義録』の翻訳を上梓し、引き続いて『〈学問〉の取扱説明書』なる新刊も。絶好調ですね。

さて、「いまなぜアーレントなのか?」
ある研究者によると90年代以降のアーレントの再評価は東欧などにおける同時革命が端緒になったという。東欧における非‐暴力的な革命の解釈を巡ってラディカル・デモクラシー(ムフを筆頭として)など「デモクラシー」にまつわる新たな地平が切り開かれた。齋藤純一も『政治の複数性』のなかでラディカル・デモクラシーを思想的に練り上げる中で(ニーチェらと並置しつつ)アーレントについて言及を行っていた。こうしたやり方でアーレントを扱うことに疑問を覚えると先の研究者は指摘していたが。とはいえ、本書において仲正がアーレントを扱うのはそうした文脈とは異なっている。一言でいってしまえば「分かりやすさ」批判の一端としてだ。それでいいのか、とは思わなくもないですが、まぁ色々な読みができるということで。

はっきりいって彼の文章は好きではありません。癖があるとか独特とかそういった次元ではなく、美しくない、全く練り上げられていない。まぁ新書だからあえてこういう書き方をしているんだと好意的に解釈しましょうか(新書だから文体が適当でいい訳はないと思いますが)。
内容は悪くないんじゃないでしょうか。1~3章は彼女の思想の最も際立つ部分だけを掴み取り、「分かりやすく」噛み砕いて(噛み砕きすぎ感もありますが)説明しているなあと。アーレントに触れたことがある人は、さくさく流して読んでいくことと思います。
個人的には4章がとても面白かったですね。アーレントがなぜ最後にカントの『判断力批判』に依拠して思想を展開しようとしていたのか?この問いに対する一つの答えを非常に理知的に説明していたのではないかと。むしろこの4章の内容だけに絞ってもっと詳しく議論を展開して欲しかったくらいですが。あ、それは『カント政治哲学講義録』の解題でやってるのかな?
アーレント、あまり読んでこなかったなぁ。ちくま学芸文庫から『人間の条件』『暗い時代の人々』『革命について』は出てるんですよね、できれば他の著書も出して欲しい。とくに『全体主義の起原』は。みすずが版権を手放さないのかな。どれも学部生の時に読んだはずなのにほとんど印象に残っていないというのは、きっと読めてなかったってことなんですね。あーあ。時間があれば読み直したいけれど。


ってことで、値段的なことも踏まえればアーレントの入門書としてはいいんじゃないでしょうか。僕は彼の文章と相性が良くないようですが、それなりに評判はいいみたいですし。

ハリーム・バラカート 『六日間』

1948年、イスラエル建国の美名のもとに押し潰されていったカナンの地、故郷パレスチナの運命と西欧的自我、イスラム殉教者の娘との愛との間で苦悩する主人公ソヘイルを劇的な六日間を通して描く。古い土着的なアラブが崩れパレスチナ解放の萌芽が生まれるまで。


まず、ハリーム・バラカートについて簡単に。例によってウィキぺディアですが。
Halim Barakat (Arabic,حليم بركات), is an Arab novelist and sociologist. He was born in 1933 into a Greek-Orthodox Arab family in Kafroun, Syria, and raised in Beirut. Barakat received his bachelor's degree in sociology in 1955, and his master's degree in 1960 in the same field. He received both from the American University of Beirut. He received his PhD in social psychology in 1966 from the University of Michigan at Ann Arbor.

From 1966 until 1972 he taught at the American University of Beirut. He then served as research fellow at Harvard University until 1973, and taught at the University of Texas at Austin in 1975-1976. From 1976 until 2002 he conducted research in the field of society and culture at The Center for Contemporary Arab Studies of Georgetown University.

Barakat has written almost twenty books and about fifty essays on society and culture in respected books and journals such as the British Journal of Sociology, the Middle East Journal, Mawakif and al-Mustaqbal al-Arabi. His publications are primarily concerned with difficulties facing modern Arab societies such as alienation, crisis of civil society, and a need for identity, freedom and justice. He has also published six novels and a collection of short stories. These are rich with symbolism and allegory to world events.
(http://en.wikipedia.org/wiki/Halim_Barakat)

社会学者さんなんですね、全然知りませんでした。この本を読むに至った経緯は、①岡真理の『アラブ、祈りとしての文学』を読んで、②ガッサン・カナファーニーの『ハイファにもどって』を読む。その内容に衝撃を受け、文学からパレスティナと、そこに生きる人々の生活、苦悩、葛藤にアプローチしたいを思う。③『ハイファにもどって』の訳者の他の翻訳を探す。その結果としていま、この本は僕の手元にあります。
1980年刊行(初版です)のものが版元に在庫が残ってるのもすごい話ですが、1200円でこの本が手に入るということにも驚きました。安い、ですよね。

1948年、パレスティナのデイル・バハル(デイル・バハルは架空の都市だがそれゆえパレスティナそのものである)。シオニズム勢力との協定によって残された最後の1週間…のはずが6日目に彼らは侵攻を受けることになる、この6日間を一日ずつ追っていく形で物語は進行する。ロンドン帰りのキリスト教徒ソヘイルと英雄と見做される殉教者を父に持つ娘ナヒーダの恋愛を軸に、彼の友人であるファリードやラミア、ナヒーダの家族の模様も絡めながら。単なる恋愛物語ではないです。恐らくバラカートは様々な問題や主張をこの中に詰め込んでいる、象徴化させた形で。それが明確に示されるのは最後のシーンだけれども。全てが灰になった。けれども灰は土を豊かにする。将校とのそんなやり取りは全く噛み合わない。灰が土を豊かにするという真の意味を将校は汲み取れない。ソヘイルにとって「灰が土を豊かにする」ということは、デイル・バハルに住まう人々が、パレスティナ人が蒙った被害、苦悩がむしろ「パレスティナ人」を団結させる―ソヘイルはそれまで口々に形式だけまとまってるように見えるけれども中身はてんでばらばらな街の人々を批判していた―ということだ。そして、それは彼らの血と灰から築き上げられた土台となる。ソヘイルの6日間の変化もそれを傍証する。ロンドンから帰り、故郷に馴染むことができず、かといって逃げ出すこともできず、思いもしない演説をぶち、ナルシスティックな一人語りを繰り返す。そんな彼が次第に変わっていく。なぜだろうか?なぜ彼は拷問に耐え抜いたのか?ナヒーダと再会するため?それとも友情のため?それともデイル・バハルの人々を真摯に思って?
どれも間違ってはいないのだろう。彼はそれら全てのもののために耐え抜いた。それが彼の「居場所」そのものだったから。故郷に居場所を見つけられなかったソヘイルは最後にそれを見出す、けれども同時にそれは破壊され、失われてしまう。彼はもはやナヒーダに出会うこともないだろう。デイル・バハルからも放逐されることだろう。けれども、血と灰によって築き上げられた場所が彼にある限り、それを守り続け、デイル・バハルをいつか取り返すことが出来る。そうソヘイルは(そして恐らくバラカートは)信じているのだろう。
しかし、現実はそうではなかった。2009年に生きる私たちは知っている。パレスティナが侵略され続けていることも。パレスティナが決して一枚岩にはなりきれなかったことも。何も変わらない。悪くなり続けている。そこには絶望しかないように見える。希望が相容れる隙が全くない状況に。それでもまだ希望はあるのか?

なぜアラブ文学を読むのか、なぜパレスティナ文学を読むのか。それは上にも触れたように、彼らの生活・心象風景・生き様・苦悩に触れる最良の術だからだ。僕は知りたいと思う、彼らに出会いたいと思う。もっとパレスティナ文学は多くの人々に読まれるべきだ。ここには「力」がある。その「力」は読んだ者の中で生き続ける。たとえ形にならなくても、それがいつか、何かを変えるかもしれない。

2009年6月4日木曜日

村上春樹 『1Q84 1・2』

1949年にジョージ・オーウェルは、近未来小説としての『1984』を刊行した。そして2009年、『1Q84』は逆の方向から1984年を描いた近過去小説である。そこに描かれているのは「こうであったかもしれない」世界なのだ。私たちが生きている現在が、「そうではなかったかもしれない」世界であるのと、ちょうど同じように。

Book 1
心から一歩も外に出ないものごとは、この世界にはない。心から外に出ないものごとは、そこに別の世界を作り上げていく。

Book 2
「こうであったかもしれない」過去が、その暗い鏡に浮かび上がらせるのは、「そうではなかったかもしれない」現在の姿だ。


さて、どうしたものか。やはりこれくらい経つとぼちぼちブログなどでもレビューが出始めて、色んな人が色んなことを考えているのだなぁと(しかし彼の作品のレビューの多くはなぜか文体まで村上春樹風ですね)。あまり僕が何か書くようなこともないのかもしれない。きっと彼の作品に精通している人であれば、過去の作品のテーマや95年以降の彼の転回などと絡めながらこの作品を語ることができるんだろう。また全く知らない人であれば、面白いとかつまんないとかで終わらせることもできるんだろう。

とりあえずこの小説がこれだけ売れていること(ほとんどの書店では品切れで8日の重版待ち状態)には驚きを禁じえないし―私の書店でも各400冊が2日ほどで売り切れた―、これを手に取った何十万もの人々がこれをどう読むのかというのはとても興味深いことだろう。こうした小説が何十万部も売れる…率直にいって信じがたいことだ。この小説で彼が描く世界について考えれば考えるほど。

この小説が孕む「不穏さ」、それは文体上の問題ではない。ヤマギシ(大学紛争から農業コミューンまでの過程はそれを想起させる)、オウム(1984年はオウムの母体が創立した年でもある)、エホバの証人を思わせる宗教団体への言及、あるいはビックブラザーの対置としてのリトルピープル、そして消しがたい大学紛争の痕跡。夫婦間のDV(当時はこんな言葉もなかっただろう)と殺人、そしてセックス。これだけ「不穏さ」を孕んだ小説が何十万と売れること(しかもこれだけ出版不況が叫ばれる時代に!)はブームということ以上の意味を持つのではないだろうか。

この小説には、それまでの彼の作品、あるいは考えてきたことが溶かし込まれているように思う―そういった意味では彼は実直な作家だ、似通ったテーマを様々な形で反復していく。「さきがけ」はオウム真理教を間違いなく想起させるし、青豆と天吾はまるで「四月のある晴れた朝に100%の女の子に出会うことについて」に登場する2人のようだ。リトルピープルの描写はTVピープルを否応なしに連想させるし、こちらとあちらの世界は村上が一貫して扱ってきたことだろう(厳密に言えば本作では少し違う、つまりそれが現実‐物語という関係とも交錯するから)。
しかし、従来の作品とは異なる不穏さをここから感じずにはいられない。ビッグブラザーに対置されるものとしてリトルピープルがいる。「1984年」はビッグブラザーという単一の独裁者によって完全に全てが統制された世界だ。歴史は絶えず書き換えられる。言葉も、思想も、本も。Big Brother is watching you.
しかしこの小説にビッグブラザーは登場しない。それが本作の不穏さを助長する。ビッグブラザーのいない全体主義。そんなことがありえるだろうか?この問いに、否をもって答える人はいないだろう。戦前の日本こそビッグブラザーなしの全体主義国家であったのだから。
だからこう考えるべきだろう、村上春樹はこの小説で「日本」を扱っていると。戦前の日本を独裁者なしの全体主義というときに、「天皇は?」と問うことは村上の意図に沿ったものでしかない。一見全てを統治しているかに見える「リーダー」はリトルピープルの傀儡としての役割を果たしている。
しかしここで村上は更に混沌とさせるような設定をおく、つまりパシヴァとレシヴァだ。知覚するものと受け取るもの(ここには「伝える」役割もある)を分離することレシヴァなしにはパシヴァは意味を成さず、パシヴァなしにはレシヴァは意味を成さない。何かを感じ取ることとそれを適切な手段で伝えること。ここはよくわかんなかった。ただ、ふかえりのたどたどしい語り口は観念としてのふかえり(もう1人のふかえり)が造られたせいなんですよね、その一方で老婦人に保護される女の子(つばさでしたっけ?)は観念としてのつばさなのに、ほとんど口を聴くことが出来ない。伝える能力はいったいどこへ行ってしまったんだろう?それと対照をなす「リーダー」の饒舌っぷり。
あと、空気さなぎ。リトルピープルが紡ぎだすもの。観念としての人間を作り出す。現実と観念の世界を分割して、その行き来を扱うのは彼お得意の構成だけれども。ここもよくわからないんだけれども(こんな複雑な構造を一読で分かる人はすごいと思う)、リトルピープルによる全体主義のようなものを想定した時に、空気さなぎから観念としての存在を作り出すことは何を意味しているのだろう?そもそもリトルピープルは誰か?何か?それもまた観念なのだろうか?彼らは大きさも数も自由に変えられる。主要人物には手を出すことはできないけれども、その周りを掘り崩すことによってその人自体を破壊することもできる。(なぞなぞじゃないけど)これは何か?意識?観念?言説?ちょっと読み直さないことにはなんともいえません(つまり今手元にないので何もいえません)。
ただ、エルサレム賞受賞時の彼のスピーチが一つの参照軸にはなるのかなとも思います。壁としての「システム」ですね。

反リトルピープル的モーメント?小説によって世界は変わるのか?あぁそうか、この小説自体が反リトルピープル的モーメントなのか。村上は神の子どもたちが感じたものを伝えるレシヴァなのか。何れにしろ「日本社会」批判として読めてしまうのが面白いところですね。

また違う話をすれば、青豆と天吾。この2人の奇妙な恋愛が軸となっているわけですが。一方はエホバの証人、もう一方はNHKの徴収人の親をもち、休日は親に付いていくことを余儀なくされる。一方に新宗教、もう一方に労働。この2つを同じ位相に載せて2人だけの関係性を描き出す意図も汲まなくてはいけないだろう。

この小説は終わってはいない(これで終わりだったらかなり多くの部分の埋め合わせを読者に要求することになる)。だからまぁよくわかんないですけど、これだけはいえる。これはカルト集団を扱った話「ではない」、決して。というよりもカルト集団として特異化してしまうこと(オウムを典型として)は適切ではない。彼らを「異常者集団」として括るべきではなかった。それは間違いなく私たちの社会が生み出した鬼子なのだから。だから私たちは「オウムとはなんだったか?」を問い続けなければならない。それが私たちの社会そのものに根ざしていることに気づくまで。だから彼が扱ったのは「日本社会」そのものであって、これは「私たち」の物語でもあるのだろう。

ってかゆうかタイトル、英語だとどうなんだろうって思ったんですけど、1984と1q84だから十分ニュアンスが伝わるんですよね、さすがというかなんというか…

あまりに混沌としているので又書き直します。