2009年10月31日土曜日

アーロン・スキャブランド 『犬の帝国』

現代日本人にとって,今や欠かせない伴侶となった犬.しかしほんの一五〇年ほど前,「野蛮な」日本犬と「文化的な」洋犬は,日本と西欧の文化的軋轢の象徴でもあり,「文明開化」の掛け声とともに在来の犬は受難の時代をくぐってきた.ところが昭和に入ると一転して「日本の犬」こそが帝国のシンボルにふさわしいと「忠犬」ハチ公がもてはやされ,挙国一致の戦争に多数の軍犬たちが動員され,死んでいった.そして,現代.ペット大国日本の犬たちは,主人たちとともに大量消費の時代を迎え,生活習慣病に悩むものまで現れている.犬という鏡に映し出された近現代日本の姿を,気鋭の米国人歴史家が鮮やかに切り取る.

面白い。日本研究、ポスト・コロニアル研究、歴史学、社会学の間を行くような。ウマ・ナラヤンの「文化を食べる」(『グローバリゼーションの文化政治』収)という論文のことを思い出しました。「近代化」、「文明化」そして「帝国主義化」、このなかで「犬」はどのように語られ、また何を語ってきたのか。「犬」(の表象)が果たしてきた役割とは何なのか。そして、現代のペットブーム(「かわいい」犬たち)とは何なのか。この現代のペットブームについての分析は十分とはいえないけれども、これは面白いですね。日本に主軸をおきながらも、常にその他の地域「非‐西洋」やその対蹠としての「西洋」というものに絶えず目を向けているところも評価できます。面白いですよ。

アラン・ムーア 『フロム・ヘル 上・下』

鬼才として知られるコミック原作者アラン・ムーアによるグラフィック・ノベルの傑作。ムーアが自作のなかでも特に達成度の高い一作と自負し、彼の際立った作家性に触れることのできる格好の作品である。
いわゆる「切り裂きジャック」の連続殺人事件が本作のモチーフ。ノンフィクション・ノベルに奇想をはめこんだような巧妙なプロットに、ムーアの本領たるダイナミックな構成力、奥行きのある世界観・人間観が活かされている。丹念に再現されたヴィクトリア朝末期の英国社会に、いくつもの象徴が生み出す複雑な磁場がはりめぐらされる。キャンベルの画との絶妙のコラボレーションにより、狂気の犯人しか知らないはずの場面までが、まさに圧巻の幻視力をもって描き出されている。
静止画の存在感をもつ各コマに込められた意味とニュアンスを読み解きながら、その世界に浸りたい。19世紀末ロンドンの陰鬱な景色が、巻を閉じた後も読む者の目に焼きついているだろう。
小説的な読み心地と鮮烈な絵の力を兼ね備え、サスペンスとイリュージョンに満ちた、無類のエンターテイメント。全2巻。


一気読みでした、正確にいえば上巻と下巻との間に食事を取ったけど。おもしれーなぁ、エログロ満載でフリーメイソンやらも絡んでくる、サブカル臭がむんむんします。切り裂きジャックのことはよく知らないし、さほどの興味もないんだけど、へぇ~、とかふーんとかえぇっ!とかグロっ!!とか呟きながら読んでました。終わったと思ったら、今度は膨大な注記が…途中まではちゃんと見返したりしながら読んでたのですが、途中で力尽きて流し読みでした。全部読み返したいとは思うけど、さすがにげっそりしてしまって、また今度にしようと思います。しかし、世紀末ロンドンの街並みや広告、衣装、部屋の造りなんかもここまで描いてみせる力はすごいですね、なんというかどんよりじめじめとした空気が伝わってくるようでした。

真面目に感想を書きたいところもあるのですが、それはいつか読み返した時にでも。

2009年10月25日日曜日

アティーク・ラヒーミー 『悲しみを聴く石』

戦場から植物状態となって戻った男。コーランの祈りを唱えながら看病を続ける妻。やがて女は、快復の兆しを見せない夫に向かって、誰にも告げたことのない罪深い秘密を語り始める……。

アティーク・ラヒーミー(今年のノーベル賞のオッズにも顔を覗かせていましたね)の邦訳としては2作目。「エクス・リブリス」よくやってくれました。前回は『ミスター・ピップ』なるひどく凡庸かつ西洋中心主義的な作品を紹介して(しかも誤植だらけの)唖然とさせられたものですが、これでよしとしましょう。

舞台はアフガニスタンのどこか、あるいは別のどこか。アフガニスタンでの出来事を強く意識しながらも、それを他のどこかでも起こっているような普遍的な問題として捉えてほしい、というラヒーミーの意図なのでしょうか。

更に冒頭の掲げられるエピグラフ;
「身体から、身体を通して、身体とともに、身体に始まり、身体に終わる」(アントナン・アルトー)

このエピグラフを掲げた目的は何なのだろうか。率直に言って、僕は精神分析には疎く、これから先に書くことはあまり自信がないけれど。
恐らくこの小説は「分裂症」をめぐるものだ。女の引き裂かれる感覚、幻覚、肥大した身体感覚…この女が「分裂症」に陥る、その原因は「オイディプス・コンプレックス」と結びつけて解釈されうるようにも読める。パパ‐ママ図式の中に囚われているようにも。「分裂症」を患った女性が、植物状態となった男(しかし精神科医とはこのようなものではないだろうか?)に対して、語り続ける。自らの「秘密」を次々と。その告白の過程は、自由連想法的な治療の過程そのものなのではないか。人が自らの悲しみを告白する、その告白は「サンゲ・サブール」に転移して、その告白が終わった時、その石は砕けるという。
彼女を抑圧しているのは、あるいはパパ-ママ図式ではないのかもしれない。オイディプス云々も関係ないのかもしれない。彼女を抑圧するものは社会そのものであって、そこに含まれる暴力や家父長制でもあるのだから。その全てが極めて男性性的なものなのは間違いないけれども。その象徴たる英雄=夫が植物状態となり単なる「石」と化す。それによって彼女はその抑圧から離れ、自由に語りだす。そして彼女の欲望は解放される。

なんだかよく分からなくなってきた。あまりよく知らないことをつなげて言いたいことを組み立てるというのはちょっとムリがありますね。なんだろう。この女性があまりにも西洋化しすぎているのではないかという批判がある。それはあとがきにも触れられていることだし、Amazonのレビューにも早速そんな趣旨のコメントがあった(その人はイスラーム圏の女性のことはよく知らないけれど、と但し書きを付けてはいたが)。
しかし、その意見はひどく高圧的なものだ。イスラーム圏の女性は、アフガニスタンの女性は西洋化されてはいない、性を露にすることはなく、雄弁に語ることはない、そういった前提の下に、この小説に出てくるムスリム女性は「西洋的すぎるね」とか、これは「いかにも厳格なムスリム女性だねぇ、イスラームはけしからん」とか言ったりする。そんなものオリエンタリズムの焼き直しではないか。あるべきオリエンタルな女性のイメージを勝手に抱き、それをそこにいるであろう女性に押し付ける。アフガニスタンで過ごし、フランスに移住することになった男性の語る女性像よりも、彼らの抱く表象としてのムスリム女性、アフガニスタンの女性は絶対的なものらしい。そんな一括りにアフガニスタンの女性はこういうものだ、なんてイメージをもつことはどう考えてもこっけいでしょう。「近頃の若いもんは~」っていうのと同レベル(もっと性質が悪い)の戯言でしかないだろうに。


何の話かわからなくなってきたけれども、この小説はなかなかよいですよ。削ぎ落とされた描写と女性の時に饒舌すぎるほどの語り。それをつなぎとめる空白。短い小説ですが、じっくりかみ締めながら読むことができる作品です。

2009年10月21日水曜日

オノレ・ド・バルザック 『グランド・ブルテーシュ奇譚』

妻の不貞に気づいた貴族の起こす猟奇的な事件を描いた表題作、黄金に取り憑かれた男の生涯を追う「ファチーノ・カーネ」、旅先で意気投合した男の遺品を恋人に届ける「ことづて」など、創作の才が横溢する短編集。ひとつひとつの物語が光源となって人間社会を照らし出す。

おもしろいなぁ、バルザック。他も読みたい。
どれから読めばいいのかわかんないとき、光文社古典新訳文庫は本当に助けになります。これからも良質な作品を次々と送り出してほしいなぁ、と。

しかし宮下さん、ラブレーもモンテーニュもご苦労様です。完結したらまとめて読もうと思っているのでこれからもがんばってください。

2009年10月14日水曜日

アントニオ・タブッキ 『イタリア広場』

舞台は中部イタリアの小さな村。三十歳で死ぬことが宿命づけられている一家の主の三代にわたる物語。ファシズム期をはさむ、激動のイタリア現代史をある家族の叙事詩として描く。

ある種の小説を読み終えた時に、頭の中がぐちゃぐちゃになるような、妙な混乱を感じるときがあります。それは一方ではとても心地よくて、けれどもそれをどこかに発露したくて仕方なくなる、そして実際に言葉にしてみようとするけれども、それは往々にして上手く行かない。最近読んだ小説では、ガッサン・カナファーニーの『ハイファに戻って』やボフミル・フラバルの『あまりにも騒がしい孤独』、あるいはフリオ・リャマサーレスの小説のあとでも同じような感覚をおぼえました。僕にとってこのごちゃごちゃした感覚は「いい小説」を判断する試験紙のようなものです。そしてこの小説を読んだ時にも。

タブッキを読め読め、といわれ続けていたけれどもなかなか読むことができず、『イタリア広場』が僕の読んだ初めての彼の小説でした。そしてこれまで読んでこなかったことをやっぱり後悔しましたし、これから読んでみたいな、と思っています(せっかくuブックスに幾つも入っているわけですし)。

30歳で死ぬことを宿命付けられた、ある家族の叙事詩。それだけでも興味が引かれるところですが、手にとって目次を開いてみると「エピローグ」から始まります。映画ではよくあるヤツですし、単なる回想という形でしたら別に目新しいこともない(中勘助の『銀の匙』)。けれどもこの小説の「回想」は、ある個人の記憶が呼び起こされてストーリーが展開していくのではなく、彼の家族の系譜そのものが「回想」される。あるいは、「彼」(まぁ読めばすぐ分かるので伏せることもないのですが)がそれまでまさしく吟遊詩人のようにアコーディオンを片手に各地を放浪しながら、その家族の物語を歌っていたことも含めると、まさしくここで回想されるのは叙事詩そのもののようです。そしてその家族の叙事詩は「イタリア近代史」そのものを描き出すことになります、ただしそれは「公的なイタリア近代史」として語られるような一種のマスター・ナラティヴとは異なった技法で、ですが。「叙事詩」は往々にして英雄譚ですし、彼を讃美することによってその統治を正統化する役割を果たすこともあります。それはそれまでの統治や政治体制を承認させ、下支えをする(上部構造の私的次元におけるヘゲモニーの問題を提起したのはグラムシでしたか)。であるならば、その統治に対する抵抗もまたこの位相において要請されるものなのだと思います。そしてタブッキはこの「公的な」イタリア近代史では消し去られてしまったある家族の叙事詩を紡ぎだすことによって、それにあくまでも文学的に抗おうとしているように感じました。この家族の男たちが30歳で死ぬことを宿命付けられているとはいえ、誰が彼らを実際に殺したのかということを思い起こした時、この抗いはより鮮明なものになるのではないでしょうか。この家族の叙事詩はそれ自体が一種の抵抗史であるとともに、それをつむぐこと自体もまた抵抗である、つまり二重の抵抗がこの小説には含まれているのではないでしょうか。
ただこういう謂いは、あまりにもこの家族だけに注目を寄せたものですね。この家族の傍らには常に共に闘う人々が、あるいはそれを見守る人々がいます。だからこれは、一つの「民衆史」なんですね。

特に最後の言葉、「平等は、小麦の分配装置では、手に入らない」。
教皇絶対的なカトリシズムからも、そして経済決定論的なマルクス主義からも一定の距離を置き、洞穴に隠遁したこの司祭の言葉に、そしてそこに込めたであろうタブッキの思いに、心が揺さぶられざるをえませんでした。

2009年10月6日火曜日

徳永誠 『現代思想の断層』

神は死んだ──ニーチェの宣告は,ユダヤ・キリスト教文化を基層としてきた西欧思想に大きな深い「断層」をもたらした.「神の力」から解き放たれ,戦争と 暴力の絶えない20世紀に,思想家たちは自らの思想をどのように模索したか.ウェーバー,フロイト,ベンヤミン,アドルノなどの,未完に終わった主著から 読み解く.

なんだかかっこいいタイトル。けど帯を見るとそこに並ぶ思想家はウェーバー、フロイト、ベンヤミン、アドルノ。彼らの思想を「現代思想」と括る人はほとんどいないと思いますが、彼はそう括ります。ドゥルーズもデリダもラカンもフーコーさえも顔を出さない。アドルノなどフランクフルト学派を中心に研究をずーっと続けてきた彼にとって「現代思想」とは彼らの思想なのか、と。この時の「現代」とはcontemporaryというよりもmodernなのかだと思いますが。それはいいんです、それは重要なところではないと思います。

この本の目的、徳永さんはそれを最終章で「『大きな物語』を発掘すること」だとしている。彼は「大きな物語」とは地下を流れる伏流水のようなものであり、あるいは時に地殻をも揺るがす大断層だという。そうした「大きな物語」を発掘するためには、単線的な「時間概念」とそれに則った「歴史記述」という発想から離れようともがかなくてはならないと。曰く、

歴史を見る・読む・書くという言語行為の主体は、流れる時間のただ中にあって、共に流れつつ、自らが切り開き、せき止める断面を通して流れを透視し、その重ねあわされた断面を透かして歴史を言語化し、視覚的な図面へと構成する。そのように物語ることに伴う視座制約性への反省は、正しい歴史認識の条件であると共に、また錯誤の源泉をも意識させる。(235)


そしてこの記述は恐らく序章において彼がハーバーマスに示している共感と対応している。ハーバーマスが擁護し続けている近代的理性、それに僕が疑問を感じるように、この記述を僕はすんなりと受け入れることはできなかった。いや、この記述の大半は理解できる、「流れ」なるものがあるとすれば、という留保つきだけど。僕は、歴史というものは「書き換えられる」(竹内)だと思うし、歴史を記述することとはまさしく創造的な行為だと。しかし、それは「正しい歴史認識」云々とはまったく別の話だ。徳永さんはこの種の反省を通じて「正しい歴史認識」が可能だと考える。なぜ?そのとき「正しさ」を確定するのは誰なのか?なぜ全き外部に立つことができず、自身もその中におかれていること、その「流れ」を透視するしかできないことが「正しさ」を担保することになるのか?この点を理解することができないでいる。

そこで止まっては勿体ないので、この点は置いておいて次に進もう。この本は、ニーチェの死以降の「神なき時代」(こういう安直な謂いもどうかと思うのだが…)の思想を幾つかの断面によって、つまりウェーバー、フロイト、ベンヤミン、アドルノという4つの断面を通して浮き彫りにすることを目指している。おぉ…かっこいい。

けれども…、やはり勉強不足の僕にはこの4人の未完の思想を通して何が浮き彫りになったのかさっぱりわからなかった。書いていくうちにそれが分かってくるかもしれないので最後のとこだけちょっと復習してみたい。

ウェーバーの章の終盤部、ウェーバーの思想(その説明は目新しいというよりも、配慮のない言葉遣いをすれば凡庸ですらあるように感じる)を追いながら、それがニーチェの議論からの論理的帰結であるという。ウェーバーの教説の根底にはニーチェに由来する「価値ニヒリズム」と「宗教的無神論」があり、それは「啓蒙」の一つの帰結であったと。
そして次の文章でこの章を閉じる。

ウェーバーの舞台装置は、今やヤーヴェの主宰する神政の風土を去って、異教の神々の遊ぶオリュンポスの山に移っている。学問的にも、人間的にも。そこにはアポロンに交ってディオニソスの姿も見える。さらにはアフロディテの姿も、それらの陰に見え隠れしているように思われる。(65)

フロイトの章。僕はフロイトの最後の研究『人間モーゼと一神教』を未読なので、面白く読んだ。そしてなぜフロイトはこのような研究を行ったのかという当然の疑問を持った。著者はそれをモーゼの脱ユダヤ化することを介した、反ユダヤ主義への一種の応答として読もうとする。かなり強引にユダヤ教に絡めて議論を展開させようとしている印象も持つが。そんなこの章の最後はこうだ。

神は図像としては表せない。しかし象徴としてアレゴリーとして、しかし象徴としてアレゴリーとして、端的に言って、偶像として自らを示し解釈される。彼の死んだロンドンのフロイト記念館には、彼の愛した数々の土偶、異教の神像たちが、偶像の虚実のアウラを漂わせながら、小物展示棚から我々を見下ろしている(111)

ベンヤミンの章も、それなりに面白く読んだ。きっと長く読み込んできたんだろうな、という印象。けれども、ここでも彼はあまりにそれをユダヤ神学に結び付けて解釈しているように思う。それが正しいとか正しくないとかそういう話をしているんではなくてあくまでも解釈の問題だけれども、そうした読みがどれだけ創造的なのかなぁと思う。第一テーゼだって、それを「マルクス主義とユダヤ神学の結合」と読むよりも、孫歌さんのように「ベンヤミンは『歴史』のなかに『人』がいるということをよく分かっていた人間なんですね」、というほうが好きだ(単なる好みの問題なのかな?)。史的唯物論が神学を「使いこなす」か、神学が史的唯物論の「助けになる」のか、という訳の問題に僕はさほどの重要性を感じなかった。第九テーゼにしてもそれをユダヤ神学という点から考察するよりも、僕自身は、「歴史の天使」はそれでも「死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集めて組み立て」る力をもっているということ、そして強風に抗い廃墟から「歴史」を積み上げていくことこそが歴史学者の使命なのだ、というように理解することのほうが僕は好きだなぁ。

アドルノの章はさすがに長年研究してきたこともあって読み応えありますね。数十年前の自分の研究をなんの衒いもなく再録するあたり、貫禄あります。ハイデッガーとの対比はなかなか。もっと勉強してから出直します、という感じでした。ハイデッガーの「故郷」がここで言われるほど「素朴」なものなのか、考える余地はありそうですが、もっと勉強しないと何ともいえません。


さて、なんだか後半部分は粗くなってきましたが。徳永さんは最後のところで、断層は1本ではなくて無数にあり、複雑に絡み合っているのだ、といいます。そのようなものとしての「大きな物語」(それは大きな物語と呼びうるのか??)を想定したとき「神なき時代」としての現代には、その代わりになる存在とは何なのか?(という問いを彼は提起したいんだと思う。元の文章が意味を成していないのでなんともいえませんが)
ついでにここで描かれた断面とは思想家個人の断面でもあるのだよ、といってこの本を閉じます。

ここまで書いてもぼんやりしたまま。決して悪い本ではないとは思うのですが、ひょっとしたら何かが欠けているのかも、と思わずにはいられませんでした。
今日読んでいた本に次のようななかなか面白い一節がありました(孫引きですご容赦下さい)

ある本に存在価値があるとしたら、てっとり早く言って次の三つのアスペクトを体現しているものだと、私は思います。つまり、人がしかるべき立派な本を書くことができるのは、(1)同じ主題あるいはよく似た主題が、一種の全体的な“誤り”に陥っていると考えられる場合(この場合、本は論争的機能を果たす)、(2)その主題について大事なことが“忘れられている”と考えられる場合(この場合、本は発明的機能を果たす)、(3)新たな“概念”を創造することができると思われる場合(この場合、本は創造的機能を果たす)、この三つです(『ドゥルーズとガタリ 交差的評伝』 129-130頁)

2009年10月5日月曜日

岡田利規 『わたしたちに許された特別の時間の終わり』

あ、始まったんだねやっぱり戦争。イラク空爆のそのときに、渋谷のラブホで4泊5日。――井上ひさし氏、野田秀樹 氏らに激賞された、岸田賞受賞作を小説化。フリーター夫婦の日常を描いた「わたしの場所の複数」を併録。とらえどころのない現代を巧みに描く新鋭、チェル フィッチュこと、超リアル日本語演劇の旗手、待望の小説デビュー!

「三月の五日間」と「わたしの場所の複数」、どちらも面白く読みました。好きなのは後者かな。
チェルフィッチュの舞台、行きたいなぁと思い続けてなぜか叶わない。行きたいなぁ。

さて、この小説。Amazonのレビューではぼろくそでしたが、僕はいいなぁ、わかるなぁ、という感じがした。なんというんだろうか、自分と感覚的に近いものを書く作家に初めて出逢ったのかもしれない。この言い方は語弊があるけど、そんな複雑なことではなくて、時代背景というんだろうか、それをある程度共有できる作家なのかもしれない、そう感じました。いままで、僕の読んだ本は全て僕より上の世代が書いたもので、見た映画も、みんなそうだった。それゆえにどうしようもない乖離がそこにあったように思う(この小説を読むまでそんなことに気付く術もなかったのだが)。そう、共感できるとか文体に惹かれるとか以前に「わかる」という感覚、それを抱いていた。きっと何を言っているんだか分からないと思いますが。
Amazonの痛烈なそして的外れなレビューを読みながら、それ書いた彼(あるいは彼女)と僕、あるいは岡田利規とのズレはきっとどうしようもないことなんだろうな、と感じています。

もちろんだらだらした文章は読んでいてうんざりさせられるけれども、それは恐らく意識的にやっていることで、このだらだらした感覚はある意味では僕も共有している(僕はそれを嫌悪しているけれど)。
何よりも、あの5日間に何をしていたのだろうと思わずにられなかった。そして僕にとってのその5日間のことを思い出せないことに―分かっていたけれども、それでも―ショックを受けた。勿論あのときテレビで流れていたイラク侵攻作戦の報道、ニュースキャスターの興奮した声色、「信長の野望」のようにマッピングされた米軍部隊とイラク全図。僕はあの出来事を、実際のところ経験しなかったしそれは僕の生を通過しさえしなかった。それはある意味ではどうしようもないことだけど、それでもそのことに対する負い目を感じる。それはさておき、声を上げることの妨げになるのは一体なんなのだろう?

もう一つの小説、これもよかった。古いアパート、ここで物語は始まって完結する。主人公の女性はそこから歩み出ることはないし、正直のところほとんど動かない。けれども、世界は広がっていく、ネットや携帯を介して、そして夢想を介して。だからその視点は自由に浮遊して時に夫が仮眠を取るベッカーズを描写し、時にブログの書き手のそれと一体となる。それがとても面白い。何よりもこのラストの部分を読んで「おぉ!」となった。このシーンをどう解釈すればいいのだろう…?
ともあれ、「個人的には」一読の価値はあります。他の人がどう感じるかは知りません。