ともに生きようとする意志を確認すること―
わたしたちは日々、さまざまな場面で他者へ手を差しのべようとする。お年寄りに席を譲り、災害救援のボランティアに出かけ、発展途上国へ井戸を掘りに行くこともある。このように自分の利益や資産、時間を消費してまで他者を救済することにどのような理由付けが可能なのだろうか。ホッブズ、ルソー、ヘーゲルらの哲学・思想を援用しつつ、自身も在日韓国人政治犯救援活動に関わった経験を踏まえ、人権論の立場から、一つの方向性を提示しようという試み。
救済を逡巡するすべての人を力づける一書。
私たちはなぜ他者を助けようとするのか。彼らに思いを馳せ、彼らのために何かしたいと思うのか。
この他者救済というテーマに対して、筆者は2つの対立的な観点から考察を試みます。一つは「義務としての他者救済」という観点です。この観点に立つ論者として、彼はカントやアマルティア・センを取り上げ、とりわけセンの「社会的コミットメント」という概念に対して批判的な考察を加えます。義務とは当為であり、つまり「すべきこと」です。私自身、センについてさほど詳しくないので彼の批判が適切なものかどうか分かりませんが、本論を読む限りではその批判はかなり本質を突いたものなのかな、という印象を抱きました。具体的には彼の批判点は次の四点です:①他者救済を義務とみなす社会的コミットメントは普遍的妥当性を持つのか、②それは誰にとっての義務なのか、③社会的コミットメントを義務として捉えることがもたらす問題、④その理念主義的傾向が孕む問題。
ただ、彼はこうしたセンの議論を斥けようとしているわけではないんですね。こうした発想は極めて重要であるし、何よりもそれが人々のより良い生活(或いは人生においてより幅広い選択の自由)をもたらしているわけですから。しかし、そうした発想には上記のような問題があって、それが「義務としての他者救済」を制約したものにしてしまっている、というわけです。
その上で、彼は当為ではない「欲望としての他者救済」を主張します。ですから先に、この2つを対立的な観点と言いましたが、それは必ずしも適切ではなくて、著者はこの2つの観点を補完的なものとして捉えている、といえるでしょう。「義務~」が定言命法から発せられたような、自己の外部にある最高善へ到達することを端緒としているのに対して、「欲望~」はまず自己への配慮と他者への共感を端緒としています。前者が理性から発するのに対して後者は感性から発するものといえるかもしれません。
その後、彼は他者を「親密な他者」と「見知らぬ他者」の2つに分け考察を進めていきます。この線引き自体はかなり曖昧なもののように思われますが(彼は前者に家族、知人から民族まで組み込んでいきます)、まぁそれはいいとしましょう。そして「親密な他者」に対しては、彼らの受けている苦難が自身の「生きられる経験」として受け止められやすく容易に救済へと向かうが、後者においてはそのように受け止めることが難しいといいます。それゆえこれを補完するものとして国家、NPOなどのエージェントによる義務としての他者救済を組み込んでいくことになります。このように「欲望~」の契機には他者への共感、同情というものがあり、そこによって取り結ばれる他者との関係、相互承認を彼は重視します。それに彼は「市民」としての義務を付け加えることも忘れません。
この本は非常に面白く読みました。「他者」、「人間性」、「社会」、「市民」など実に様々なキーワードが交錯する、複雑な地点に位置しているこの問題について、ここまで鮮やかに論じきった著作もあまりないのではないでしょうか。ただ、僕はあまり詳しくないのでよくわかりませんが(と逃げ道を作っておきますが)、彼の思想、哲学の読みは如何なものなのでしょうか?あまりにもヘーゲルやらホッブズやらカントやらを簡単にざっくりと要約したり手短な引用を加えたりしているものだから、ちょっと気になりました。あと個人的にはアリストテレスまで遡って議論するのかなって思ったりしたので若干肩透かしを食った印象もありますが。あぁ、あと「あとがき」がよくわからなかったですね。逆に論旨をずらしてしまったような気がします。
とはいえとても勉強になりました。ヒュームも読んでみたくなりました。
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