2009年3月26日木曜日

的場昭弘 『超訳『資本論』』

いまこそ読むべき『資本論』―
教育を受けた若者が、定職もなく街にあふれ、庶民のなけなしの預金は減る一方。景気が伸びても、給与は上がらず、物価だけが上がった。悲しいかな、これが、資本主義の本当の顔である。
『資本論』をいったん遠くに放り投げた日本人は、いま再び拾い上げ、ページを引く必要に迫られている。
この書には、剥き出しの資本主義が、驚くべき洞察で描かれている。資本主義の実態は21世紀になってもなんら変わっていない。
今回、待望の『資本論』第1巻の超訳をお届けする。どうか大著のエッセンスを味わって欲しい。

ここのとこはめっきり入門書づいてますが。今回は『資本論』を要約した新書です。マルクスに対してそこまで深い思い入れもなく、ちょっと興味あるかもくらいな僕にはうってつけですね。ええ安直ですとも。『賃労働と資本』も買ったけれども積読状態ですし。
でこの本、かなり時間をかけて読んでいました。なんせ全くといっていいほど畑違いなもんですから登場する概念やら議論の展開やらを押さえるだけでだいぶ苦労してしまいました。もっとちゃんと説明してくれたらいいのに、と思ったりもしましたが。これこれという概念が重要なんですよね、って書いておきながら、その概念についてきちんと整理してくれてないのはどうにも不親切だなぁと。まぁそんくらい自分でやれやってことなんですかね。
まぁ、でも概ね面白かったですね。引用箇所だけ読んでいてもやはりマルクスという人物は非常に頭が切れるんだなぁ、と驚かされました。これを読んで『資本論』に手を出すか、って言われたら、たぶん出さないんですけどね。というよりも60年代の学生運動の担い手たちはどの程度『資本論』を理解していたんですかね。ちょっと疑問に思ったりしました。
ちょっとコメントしづらい、そんな本も時にはあります。
ああそういえば、2巻と3巻も発売されたみたいですね。もう少ししたら手に取ってみようかと。



高階秀爾 『近代絵画史 上・下』

人はしばしば、思いがけない絵に接してとまどい、時にこれが絵画かとさえ疑う。しかし、一見わけの分からぬ抽象画や不気味なシュールレアリズムの作品も、決して画家の気紛れや偶然の産物ではない。ルネサンス的世界像の崩壊に伴い、近代絵画の流れの中で生まれるべくして生まれてきたのである。このような情況を、19世紀初頭から第二次大戦まで、代表的な画家の業績と美学的理念、表現方法を通じて明らかにする。

近代西洋美術に興味がある人なら恐らく読んだことがあるであろう、高階さんによる近代西洋美術史概論。
今日でも75年に刊行された本書は、いまだに近代西洋美術史に関する最良の入門書であり続けているように思う。
内容としては、ゴヤからモンドリアンまでという副題通り、印象派登場の要因の一つをなしていたロマン主義から抽象絵画までの「流れ」を概観しており、非常に「オーソドックス」な形で美術史が論じられている。
印象派から抽象絵画まで、あるいはモネからボロックまでの絵画史を一つのナラティヴとして語るやり方は、書かれた当時(あるいは今日でも)優勢なものとなっており、本書もそうした手法に則っている。本書ではモンドリアンまでだが、しばしばボロックを一種の到達点として従来の近代美術史が描かれてきたことに、恐らく私たちは注意深くなる必要がある。こうした美術史観はアメリカの美術史家によって打ち立てられたものであり、モネからセザンヌ、ゴッホ、ピカソ、モンドリアンなどを経由しつつボロックに至る、という一種の発展史観に根付いたものであり、逆にいえばそこには直接結びつかないもの、同時代には高い評価を得ていたにもかかわらず現在の評価が低いもの(そもそも誰が評価するのか?)などは軽視されるか、場合によっては捨象されてしまう。例えば、ラファエル前派しかり、19世紀の宗教画しかり。
(そもそもある画家の一連の作品を歴史的な「役割」として位置づける姿勢は妥当ではないと思う)

勿論、高階さんほどの美術史家ならばそのことも十分理解できているであろうし、本書はあくまで新書の体裁で作られた入門書である。だから間違っても本書を読んで、近代西洋絵画を理解したなどということはできない。そのための入り口を提供しているに過ぎないのだから。

とはいえ、これだけのサイズの本にここまで詰め込めるものか、と驚嘆した。印象派登場をもたらした要因の分析は実に見事だし、美術史家としての含蓄の深さ(僕は印象派登場とコンスタブルにおける筆触分割的傾向がドラクロアを介して結びついていたことは全く知らなかった)はさすが、と思わせるものがある。美術史にそれなりの知識がある人も、そうではない人も十分に楽しめる著作だと思いました。
あと、図版がほとんどないので、画集やネットなどで作品を見ながら読み進めていくとより深く理解できるのかな、と思います。この本を読んで一人でも多くの人が絵画好きになりますように。




2009年3月23日月曜日

金泰明 『欲望としての他者救済』

ともに生きようとする意志を確認すること―
わたしたちは日々、さまざまな場面で他者へ手を差しのべようとする。お年寄りに席を譲り、災害救援のボランティアに出かけ、発展途上国へ井戸を掘りに行くこともある。このように自分の利益や資産、時間を消費してまで他者を救済することにどのような理由付けが可能なのだろうか。ホッブズ、ルソー、ヘーゲルらの哲学・思想を援用しつつ、自身も在日韓国人政治犯救援活動に関わった経験を踏まえ、人権論の立場から、一つの方向性を提示しようという試み。
救済を逡巡するすべての人を力づける一書。


私たちはなぜ他者を助けようとするのか。彼らに思いを馳せ、彼らのために何かしたいと思うのか。
この他者救済というテーマに対して、筆者は2つの対立的な観点から考察を試みます。一つは「義務としての他者救済」という観点です。この観点に立つ論者として、彼はカントやアマルティア・センを取り上げ、とりわけセンの「社会的コミットメント」という概念に対して批判的な考察を加えます。義務とは当為であり、つまり「すべきこと」です。私自身、センについてさほど詳しくないので彼の批判が適切なものかどうか分かりませんが、本論を読む限りではその批判はかなり本質を突いたものなのかな、という印象を抱きました。具体的には彼の批判点は次の四点です:①他者救済を義務とみなす社会的コミットメントは普遍的妥当性を持つのか、②それは誰にとっての義務なのか、③社会的コミットメントを義務として捉えることがもたらす問題、④その理念主義的傾向が孕む問題。
ただ、彼はこうしたセンの議論を斥けようとしているわけではないんですね。こうした発想は極めて重要であるし、何よりもそれが人々のより良い生活(或いは人生においてより幅広い選択の自由)をもたらしているわけですから。しかし、そうした発想には上記のような問題があって、それが「義務としての他者救済」を制約したものにしてしまっている、というわけです。
その上で、彼は当為ではない「欲望としての他者救済」を主張します。ですから先に、この2つを対立的な観点と言いましたが、それは必ずしも適切ではなくて、著者はこの2つの観点を補完的なものとして捉えている、といえるでしょう。「義務~」が定言命法から発せられたような、自己の外部にある最高善へ到達することを端緒としているのに対して、「欲望~」はまず自己への配慮と他者への共感を端緒としています。前者が理性から発するのに対して後者は感性から発するものといえるかもしれません。
その後、彼は他者を「親密な他者」と「見知らぬ他者」の2つに分け考察を進めていきます。この線引き自体はかなり曖昧なもののように思われますが(彼は前者に家族、知人から民族まで組み込んでいきます)、まぁそれはいいとしましょう。そして「親密な他者」に対しては、彼らの受けている苦難が自身の「生きられる経験」として受け止められやすく容易に救済へと向かうが、後者においてはそのように受け止めることが難しいといいます。それゆえこれを補完するものとして国家、NPOなどのエージェントによる義務としての他者救済を組み込んでいくことになります。このように「欲望~」の契機には他者への共感、同情というものがあり、そこによって取り結ばれる他者との関係、相互承認を彼は重視します。それに彼は「市民」としての義務を付け加えることも忘れません。

この本は非常に面白く読みました。「他者」、「人間性」、「社会」、「市民」など実に様々なキーワードが交錯する、複雑な地点に位置しているこの問題について、ここまで鮮やかに論じきった著作もあまりないのではないでしょうか。ただ、僕はあまり詳しくないのでよくわかりませんが(と逃げ道を作っておきますが)、彼の思想、哲学の読みは如何なものなのでしょうか?あまりにもヘーゲルやらホッブズやらカントやらを簡単にざっくりと要約したり手短な引用を加えたりしているものだから、ちょっと気になりました。あと個人的にはアリストテレスまで遡って議論するのかなって思ったりしたので若干肩透かしを食った印象もありますが。あぁ、あと「あとがき」がよくわからなかったですね。逆に論旨をずらしてしまったような気がします。

とはいえとても勉強になりました。ヒュームも読んでみたくなりました。


2009年3月22日日曜日

堤未果 『ルポ貧困大国アメリカ』

「新書大賞2009」第1位だそうです。うちの店でも長い間売れ続けている本なのでようやく手を出してみました。

とても緻密に質的調査と量的調査が行われていて、説得力があります。貧困と肥満の関係については初めて理解できました。80年代以降(そして90年代以降更に拡大していくことになる)のアメリカが抱える問題について教育、軍事、医療など様々な観点から考察を進めていて、読み応えのある内容でした。
レーガノミクス以降のアメリカの変容の一つに、もはや対外競争力(対内競争力も)失った製造業に代わるものとして金融やIT産業などへの傾斜化が挙げられるでしょう。それは金融サービス等に携わる「シンボリック・アナリスト」や高度専門技能者の高所得化をもたらし、他方ではそれまで製造業や農業によって生計を立ててきた人々の低所得化(本書の中では中間層の崩壊としています)をもたらしました。もちろん、これらの産業がご破算になったというよりも、より経営効率を上げるために彼らの所得を切り下げ、同時に工場を海外進出していったことがあるでしょう。農業においても企業ビジネスが浸透することによって従来の農家がもはや立ち行かなくなったことがいえると思います。そしてそれ以上に決定的だったのが本書でも再三指摘されている通り「民営化」の影響です。これは彼らの生活を直撃し、本書でつぶさに記述されているような状況―「貧困」―をもたらすことになりました。そして民営化と一体になった市場化は彼らの領域をも食い物にしていきます。サブプライムローン、医療制度の崩壊…更にこれに軍需産業が関わるわけですから。「不法」移民を「合法化」をエサに軍隊に勧誘したり、大学進学をエサにして貧しい学生を勧誘したり。なんてゆう情況なんでしょうか。
そしてなによりも滑稽なのは、これまで散々大儲けしてネオリベ万歳とのたまってた人々が一挙に政府による資金注入やら規制やらを求める様。さもしい。彼らよりも、今後本書で取り上げられていたような貧困層はますます困窮状態に陥ることを考えると、ちょっとやりきれなくなります。企業の保護よりもこうした明日の生活も立ち行かない人々の生活を守ることのほうが大切な気がしてしまいます。

そんな中、著者はなんとか希望を見出そうとしています。ビリー牧師しかりAMSAしかり。だけれどもこうやって一旦動き出した壮大な装置を止めるのは容易なことではないでしょう。政権が民主党に変わって2ヶ月ですが、何が変わりつつあるのか僕にはまだ見えてきません。国家の役割はそこに住まう人々の生を担保することにある、違いますかね。


2009年3月20日金曜日

トルーマン・カポーティ 『ティファニーで朝食を』

第二次世界大戦下のニューヨークで、居並ぶセレブの求愛をさらりとかわし、社交界を自在に泳ぐ新人女優ホリー・ゴライトリー。気まぐれで可憐、そして天真爛漫な階下の住民に近づきたい、駆け出し小説家の僕の呼び鈴を、夜更けに鳴らしたのは他ならぬホリーだった……。表題作ほか、端正な文体と魅力溢れる人物造形で著者の名声を不動のものにした作品集を、清新な新訳でおくる。

今更ながらカポーティの小説を読みました。僕は彼をいわゆる「ノンフィクション・ノベル」の作家として捉えていて、『冷血』ぐらいしか読んだことなかったんですね。先日友人とその話をしていたところ、「お前バカじゃないの?カポーティは寧ろ短編小説の方が良質だよ」みたいなことを言われまして。すっかり反省した僕は、ちょうど文庫になっていたこの短編集に手を出してみたわけです。

確かに僕が間違っていました。彼の小説家、ストーリーテラーとしての才能は抜群だと(村上春樹訳を通じてですが)感じました。展開、表現、描写の巧みさは、僕みたいな素人目にもわかります。
ただ、僕は表題作よりも最後の短編「クリスマスの思い出」が気に入りました。村上春樹があとがきで指摘しているように(彼は自分のお気に入りの作家についての「あとがき」を書くのが抜群に上手いと思います)、彼の小説の根底にあるのは「純真さ」であって、ホリー・ゴライドリーにしてもミスタ・シェーファーにしても彼の作品で主要な位置を占める人物にはある種の純真さ―それは時には屈折した形で表出し、彼/彼女の行動を規定する―があって、それが僕がこの作品群に胸を打たれた理由でしょう。
そのような純真さの最たるものとして僕はこの最後の短編が気に入ったわけです。

この作品を読んで、思ったのは中勘助の『銀の匙』に似てるなぁ、ということです。語り手の子どもと祖母(伯母)との深く親密な関係。子ども時代の純真さ。そしてそれがもはや失われてしまったということ。温かく無垢でユーモアにも富んだ、けれどもどこか寂しい物語。ノスタルジア?確かに。けれどもそれは例えば、3丁目の夕日とかを懐かしむとは全く質の違うものでしょう。後者のノスタルジアは忘却/隠蔽と親和性が高いように思われます。

最後に一言。小説家カポーティから。
「欲しいものがあるのにそれが手に入らないというのはまったくつらいことだよ。でもそれ以上に私がたまらないのはね、誰かにあげたいと思っているものをあげられないことだよ」(p.256)



2009年3月19日木曜日

プリーモ・レーヴィ『天使の蝶』

「先史時代の鳥類」のような奇怪な骨を見つけたのは、廃墟と化した大戦後のベルリンのアパートの一室……。表題作「天使の蝶」には、化学者でもあったレーヴィの世界観が凝縮されている。人間の夢と悪夢が交錯する、本邦初訳を多数収録した傑作短編集。


僕がレーヴィのことを知ったのは、アガンベンを通じてだった。ひょっとしたら岡真理の著作を介してだったかもしれないが。アウシュビッツから奇跡的に生還し た化学者。文字通り非‐人間的な環境下で、自らの人間性を保持し続けるためにダンテの『神曲』を口ずさみ続けたユダヤ人。そんなイメージがあったからだろうか、この本を開いた時一種の当惑を感じた。
まるで星新一のショート・ショートのようなサイエンス・フィクション。確かに読んでいて面白いけど、 僕の予測は覆された。しかし…そもそも僕は何を期待していたのだろう?アウシュビッツ生還者が「普通のSF」(それが普通ではないことはよく読んでいけば分かるのだが)を書くことの意外性は何なのか?寧ろアウシュビッツの中で人間を人間であり続けさせるために物語が果たした役割に目を向ければ、彼がそのよ うに物語を編み続けたどこに不思議なことがあるだろうか。

「アウシュビッツ以降詩を書くことは野蛮である」と誰かは言った。その通りかもしれない。アウシュビッツのような「野蛮性」が近代の―より啓蒙された文明社会の―根底にあり続け、「詩を書く」行為がそうした「野蛮性」を隠蔽するよ うな、あるいは表裏一体のものだったのかもしれない。近代は私たちから人間性を奪い取り、そして与え返した、不均衡に、部分的に。けれども…

レーヴィの話にもどろう。彼のSFには幾つかの要素が頻出する。一つは科学者の時に狂信的な研究への没頭であり、もう一つは新たな機械、とりわけそれ以前では人間によって担われていた精神的な領域を代替しうるような機械の発明、そしてケンタウロスのような半人間半動物である。
前の2つは他のSFにもよく見られる要素だろう。科学者の狂気。テクノロジーの発達。
しかし、最後の要素は少しそこから逸脱するように見える。レーヴィにおいて、この人間と動物の中間の存在を扱うことは何を意味していたのだろう?

「天使の蝶」はナチス支配下のベルリンにおける人体実験を扱った作品である。一人の科学者がアホロートルのネオテニーに注目して、それを成体に変化させるホルモンを抽出する。そしてそのホルモンを人間に対して注入する実験がベルリンのあるアパートでナチスの主導によって行われた。
計画によれば、人間はそのホルモンによってより完全な姿に、つまり天使になる予定だった。けれども実際に誕生したのは人間にも動物にも似つかないような奇怪な生命体だった。
このナチスによって生み出された人間でもなく動物でもない存在、それこそ「ムージルマン」だったのではないだろうか。周知の通り、彼らは「完全な人間」を作り上げようとしていた。そのための排除の方策としてユダヤ人、ロマニ、同性愛者、身体障害者などを虐殺し消滅させようとした。そのような「完全な人間」を求める虚妄の果てに、アウシュビッツではもはや人間ではない存在、「ムージルマン」が生み出された。ちょうど天使を作り上げようとして奇妙な半人間・半動物を作り上げてしまったように。そしてそれは人間と動物の閾に立つが故、嫌悪され殺されてしまう。
そして何よりも、この実験を行ったレーブ博士はいまだ発見されておらず、またいつか姿を現すのだ。