2010年5月28日金曜日

小島信夫 『アメリカン・スクール』

アメリカン・スクールの見学に訪れた日本人英語教師たちの不条理で滑稽な体験を通して、終戦後の日米関係を鋭利に諷刺する、芥川賞受賞の表題作のほか、若き兵士の揺れ動く心情を鮮烈に抉り取った文壇デビュー作『小銃』や、ユーモアと不安が共存する執拗なドタバタ劇『汽車の中』など全八編を収録。一見無造作な文体から底知れぬ闇を感じさせる、特異な魅力を放つ鬼才の初期作品集。

「アメリカン・スクール」が読みたくて、手に取ったのですが、どれもこれも面白い。「占領下」や敗戦後の日米関係やらを扱った研究にはしばしば取り上げられる「アメリカン・スクール」。マイク・モラスキーさんか新城郁夫さんのどっちかが分析しているやつを読んだことがあるなぁ。内容は……忘れてしまったけれど、なんだか面白かったような気がする。

読みながら、なんだか滑稽で笑ってしまうシーンが幾つもあるんだけれども……なんというか、後味がすごく悪い。なんというか思わず笑ってしまって、後でそのことを悔いることって誰にでもあると思うんだけど、そんな感覚がする。笑えない笑い、というんだろうか。その理由を愚考するに、やっぱりこの小説群は「占領」や「戦後」というものの深層を抉りとっているからなんだろう。あるいは、その経験によってどうしようもなく刻み込まれてしまった心性のようなものを。戦後の日米関係がこれ以降今日に至るまで全くと言っていいほど同じ論理で動いているわけで、それを読みながら嗅ぎ取ったせいなのかもなぁ、とか思いました。でもAmazonレビューでは素直に楽しんでいる人もいるみたいだから、まぁ当てにはならないのだけど。
そんなこと考えて意味あるの?って聞かれたらそれまでだけど、この小説を同時代の人が読んだとき、どんな感情を抱いたのかってすごく興味がある。小島信夫のような小説を書ける現代作家がいないように、小島信夫を同時代的な感覚で読むことができる読者もいないと思うし、この小説群の痛烈な皮肉に彼らが気付かないはずはなかっただろうから。結局のところ、彼らは、その小説の中に彼ら自身を見出したであろうから。ひょっとしたら、僕もそうだったのだろうか?

「アメリカン・スクール」について。
大したことは言えないのでさっくりと箇条書きに。
1.伊佐と山田を、単に対照的な存在として捉えてそこに戦後の日本(人)の2つの有り様を見出す読み方よりも、それをひっくるめて、伊佐と山田を根源的には同じものとして、コインの裏表として捉える方が面白い気がする。
2.「親米保守」という言葉を久々に思い出した。酒井直樹の言うところの国民主義を超克した「新しい植民地体制」との関係。
3.何よりも解説を江藤淳が書いているのがなによりも面白い。色々な意味で「アメリカン・スクール」の解説に彼以上にふさわしい人間はいないだろう(酒井直樹『希望と憲法』参照)。
4.ジェンダー的にはかなり厄介な話かも。この小説に限った話ではないのだけれど、小島信夫の描く女性ってどこかおかしい。ただの女性蔑視の裏返しな気もする。この辺けっこう歪んでいるなぁと。名字だけ=男性、下の名前=女性なのね。
5.箸を忘れた、ってオチはどうなんだろう。
6.小島信夫って身体性がキーワードなのか?体が思い通りに動かなかったり、勝手に動いたり、怪我をしたり。それが行動をどんどん左右して色々な出来事を引き起こしていく。どうにもならないこと、そうせざるをえないこと、が幾つも彼の小説では起こるけど、その一つに自分自身もあるみたい。
7.やっぱこの舞台って沖縄だろうか。だとすれば、相当に厄介な小説。

そう、小島信夫の小説ってものすごく厄介だし、ときに不可解。出征先を舞台にした小説が幾つかあったけれど、現地の人間には驚くほど無関心というか鈍感(「燕京大学部隊」なんて典型だと思う)。とりあえずもう少し読むかな。

2010年5月24日月曜日

都甲幸治 『偽アメリカ文学の誕生』

フィッツジェラルド、サリンジャー、デリーロはもちろん本邦初紹介の作家から、日本では知られざる村上春樹の素顔にいたるまで最新型の“アメリカ文学”の魅力をこの一冊にパッケージ!21世紀もっとも話題のアメリカ文学者・都甲幸治の第一評論集、ついに刊行。

今月は日本の小説を読もう、と思っていたのだけれど、どうにも飽きてしまってふと手に取った本。都甲幸治って誰ですか、って感じだったけど、柴田さんの教え子なんですね。ふーん。

まぁ買いかどうかは置いておいて、図書館で借りるくらいはいいんじゃないでしょうか。さっくり読めてしまうし、読み返すことはあんまりないと思うので。
いかんせん文章が粗いし、別にテーマがある訳でもない。深い考察がある訳でもない。ブックガイド? うん、そんな言葉がぴったり。引用を除いたら内容がほとんどなくなってしまいそう、そんな本です。「偽アメリカ文学」ってキャッチーな響きだけど、結局のところそれだけの話?って思わなくもないし、もっと掘り下げられるテーマだとは思うのだけれど。ところどころフーコーやらスピヴァクやらボードリヤールやら(アメリカ文学の話なのにドゥルーズは出てきません、がっかり)が出てくるけど、装飾、といった印象は拭えない。

だけど、幾つかの点で評価するとしたら、まず村上春樹の海外でのインタビューを訳して載せている点。これは、彼が海外メディアへのインタビューで色々な話をしていることは知ってるけど、別に調べるほどの関心はないよね、という人(僕のことです)にとって。二つめに、現代アメリカ文学の書き手を紹介してくれていることについて。とはいえ「翻訳では読めないアメリカ文学」にデニス・ジョンソンが載っているのはいかがなものか。刊行の時点で少なくとも『ジーザス・サン』は刊行されていたし、『煙の樹』だってエクス・リブリスの刊行予定にあったじゃないか。追記なりなんなりしとけよ、とか思ってしまいます。別に細部に突っ込みたい訳ではなくて、こうやってあちこちに書いた文章を1冊の本として刊行するんだったら、ある程度の一貫性はもたせて、内容も加筆・修正するべきだと思うわけです。まぁいいや。で、評価する3点めはドン・デリーロにかなりの頁数を割いて個別の作品を紹介していること。ドン・デリーロと言えば、そのほとんどの作品が絶版状態でなかなか手に入らない、「読みたいけど読めない作家」を典型する書き手ですね。古本高すぎだろ、とか思いつつ、いまだに『墜ちていく男』以外読めていません。評価は高いのに、日本での知名度はピンチョンやら故アップダイクやらコーマック・マッカーシーやらに比べるとさほど高くない印象。彼を紹介してくれた意義は大きい。ますます読みたくなった。これだけで、この本のブックガイドとしての役割は十分に果たされたと思う。
ドン・デリーロと言えば、半年位前にヘイドン・ホワイト(『メタヒストリー』は作品社からようやく、まもなく、いよいよ刊行予定)が来日したときの講演で、トニ・モリスンやゼーバルトと並んで、歴史を語る小説の書き手として高く評価していましたね。トニ・モリスンは『ビラヴド』をゼーバルトは『アウステルリッツ』を挙げていたけれど、デリーロは何だったろうか、『リブラ』だったか? そう、その講演自体もとても面白かったのだけれど(特にギンズブルクに対する再反論)、それはまた別の話。ただ、デリーロについて論じている中で都甲さんがホイットマンに言及しているのが示唆的だった。これは、本書に対する不満ともつながるのだけれど、あまりに現代文学の特異性みたいなのに重きを置きすぎている、というか記述を絞りすぎている。むしろ、例えばドゥルーズがマイナー文学として称揚してみせたような「アメリカ文学」と彼の言うところの「偽アメリカ文学」との結びつき、あるいは離接を論じて欲しかった。ドン・デリーロはそのための手がかりになる、ような気が本書を読んでいるときにはしたのだけれど。
今後の活躍に期待、といったところでしょうか。でもこんな文章書いてて翻訳とか大丈夫なの?とか不安になります。余計なお世話ですね。

2010年5月15日土曜日

古井由吉 『聖耳』

現代文学の達成をしるす最新連作小説
現し世に耳を澄ませば平穏の内にひろがる静かな狂躁生死の、夢現の、時間の境を越えて立ちあらわれる世界の実相

古井由吉です。いいですよね、彼の文章は。読んでいるだけで不思議な心地になります。ゆらゆらしてしまいます。
病院の描写をしているかと思えば、そこから全く違う世界を連想する。ある人の話を聞いているうちに、その人の語りの世界に入り込んで、いつの間にか自分自身がそれを追憶していく。ふと見つめた光景から過去を想起する。そんな風にして文章がどんどん重ねられていく。文章の余りの美しさに陶然としてしまう。そして、読み終わった後の余韻。『忿翁』を読んだときは、心情や内的な印象を、あくまで身体的に表現する描写の巧みさ、その生々しい感覚にやられてしまったわけですが。なんだか、読んでいるうちに、幻惑されてトリップしてしまうような、そんな感じです。内容というか、主題のようなものは、ほぼ一貫していて、それがさまざまな形式でもって反復的に語られています。「空襲」についての語りも多かったのが印象的だった。
この小説、というか古井由吉の小説って、彼と同世代の人が読んだら、どう感じるのだろう。年齢的な要素とか、時代的な要素によって、(とりわけ彼の小説の場合)全く小説の印象が違うんじゃないか、とか思ったりします。「老い」の感覚みたいなものを僕はまだ実感しているわけではないので、魅力的に感じたりもするんだけど、実際のところどうなんだろうなぁ。

しかし、つくづく美しい文章なこと。