2010年4月17日土曜日

『ミクロコスモス—初期近代精神史研究 第1集』

レオナルド・ダ・ヴィンチに代表されるような、一人の人間があらゆる領域に手をそめて優れた業績を残した《初期近代》という時代(15-18世紀)がいま、見直されつつある。その時代の多様な豊かさと深さを解明するには、分野横断的な精神史研究が欠かせない。『ミクロコスモス』はそうした現代的要請に応えるべく発刊される学術誌であり、オリジナル論考のほか、海外の優れた研究論文の翻訳やラテン語等の重要原典テクストの翻訳、最新の研究動向や文献紹介をお届けする。第1集では、8本の多彩な論考や3本の動向紹介のほか、ゴルトアマーやフィチーノの翻訳を収める。シリーズ「古典転生」第2回配本(別巻1)。

あっというまに品切れ状態になったらしい、『ミクロコスモス』。こうした野心的な思想誌が刊行されること自体、喜ばしいことだと思うし、それが注目を集め、売れていったことはもっと喜ばしいことだと思う(どれくらい刷ったのだろう。1500くらいかな)。
青土社からも、澤井繁男さんの『魔術師たちのルネサンス』が刊行され、フランセス・イエイツの『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス教の伝統』も近刊予定と聞く。ブームが来るのだろうか。
確かにこうしたジャンルに関心をもつ人々は多いもので、特に出版人にはそんなマニアックな人が多いらしい。平凡社で中世思想原典集成をやった編集者さんの話はよく聞くけれど。また、ちくま学芸文庫でも一時期、こうしたジャンルのものを多数刊行していたことがあるけれど、現在はほぼ品切れ状態のようだ。そう、このジャンルは「難しい」のだ。人文・学術書とはいえもちろんビジネスであって、このジャンルは好きな人はいるけれども、なかなか売れにくい。オカルティズムまで完全に振り切って(方向付けを変えて)しまえば、また違う人たちを集めることができるのかもしれないけれど、オカルティズムとこうした本は明らかに違うのだ。だから、そんななかで『ミクロコスモス』が刊行されたこと、そしてそれが意外なほど良く売れたこと、それはとても素晴らしいことだと思う。
ここまで書いて、「このジャンル」とか「こうした本」という言い方を多用していることに気付く。そう、こうした『ミクロコスモス』や『魔術師たちのルネサンス』に典型されるようなジャンルは、とても名付けにくいのだ。どう呼べばいいかいつも困ってしまう。錬金術とか、占星術とか、というと誤解を招くし、パラケルススとかだよ、といっても知らない人には伝わらない。それらの研究は非常に横断的なものなので、特定のディシプリンに押し込むこともできない。だから、この本の副題を見て、「そうか、そういう命名の仕方があったのか」と得心した。
「初期近代精神史」
ここに2つの驚きがあった。ただ、あまりにそれが当たり前すぎるので、こんなことに驚くのは僕くらいかもしれない。
それは一つには、「精神史」という形で彼らの思考の系譜を位置づけることができるということ、もう一つには彼らの思考が「初期近代」であったということだ。
前者についていえば、確かに知の歴史として括ることで、その学問横断的な性格は掴むことができるし、地下水脈として流れ続ける思想の系譜として、あるいはそれらを星座のように位置づけることも可能にしている。他方で、intellectual historyが「精神史」と訳されたときに、少し違う色合いを帯びてしまうことは否めないけれど。
もう一つの「初期近代」という言葉。もちろんこれは15〜18世紀という時期区分を何よりも指しているようだけれど、本書に登場するような様々な思想が「初期近代」として位置づけられる、ということにも注目したい。彼らの思想は、近代における異端というよりも、また近代において排除された前近代的なものというよりも、近代の萌芽そのものであった、ということができるのではないか。まさしくそれは近代に養分を与え、様々な果実をみのらせるような、豊穣な土壌として、あるいはその地下を流れる水脈としても理解されなくてはならないのではないか。その水脈は、地上に湧き上がっているのかもしれないし、ひょっとすると大地の奥底に沈み込んでいるのかもしれないが。
だから、とても重要な研究であるし、僕は興味深くこれらの論文を読んだ。多いに面白がりながら、時に(頻繁に?)わかんないなぁ〜、と呟きながら。
ゴルトアマーの論文やフィチーノの『光について』、はとても面白そうなんだけど僕にはハイレベルだった。というか、冒頭から庭園の論文までのところは、面白い面白いといいながら読んでいたのだけれど、だんだんよく分からなくなってきた。それはたぶん僕が息切れしたせいなんだろうけど。なんだろう、ものによっては精神史というかもっと表層的な素描に留まっているものもあったりして、それは少し残念だった。
とはいえ、知ることは面白い、とつくづく。第2集(はあるのか?)を期待しつつ、もう少し勉強することにします。

追記:第2集も話は進んでいるようです。
(以下参照http://twitter.com/microcosmos001
それにしてもみなさんツイッター好きですね。僕はあまり気が進みませんが。

2010年4月12日月曜日

ギャビン・ライアル 『深夜プラス1』

ルイス・ケインの引き受けた仕事は、マガンハルトという男を車で定刻までにリヒテンシュタインへ送り届けることだった。だが、フランス警察が男を追っており、さらに彼が生きたまま目的地へ着くのを喜ばない連中もおり、名うてのガンマンを差し向けてきた! 執拗な攻撃をかいくぐり、ケインの車は闇の中を疾駆する! 熱気をはらんで展開する非情な男の世界を描いて、英国推理作家協会賞を受賞した冒険アクションの傑作。

どうやら僕にはハードボイルドさが足りない。そんなことをふと思って、とりあえずハードボイルドな小説でも読んでハードボイルドな気分に浸ることにしました。
やや安直な経緯だけれども、読み終わった今はすっかりハードボイルドです。

そんなこんなでギャビン・ライアル。いちいちかっこいいですね。わざとらしくかっこいいのが素敵です。Amazonのレビューに、これだけは知っておいてね、という固有名詞が幾つかあって、銃器やら自動車の名前なんですけど、画像検索してみると期待通りにかっこいい。
話は、もうどうでもいいです。金持ちをリヒテンシュタインまで送っていくだけの話なので。極端な話、リヒテンシュタインじゃなくてスロヴェニアでもいいし、金持ちじゃなくて仏像でもいいんだと思います(仏像じゃかっこ悪いからだめかな)。こういうのって何よりも雰囲気を楽しむ小説じゃないでしょうか。
ただ、いかんせんオリジナルの刊行が1965年。なかなか伝わりにくくなっているところもあるのではないでしょうか(上野車の名前とかもその一つでしょう)。レジスタンスとか、第二次世界大戦とか、この小説が刊行された頃はそれを通過してきた人々がほとんどで、そうした人には、ある種の「生々しさ」を伴いながら、この小説は読まれたのかもしれない、と思います。武器を手に取り戦場に向かった人間たち(レジスタンスも含めて)がその後、ある者は弁護士となり、産業スパイとなり、あるいは銃から離れられずにガンマンになる。この小説に登場する人物の背後には、戦争とレジスタンスという劇的な経験が横たわっていて、当時の読者たちはその存在をひしひしと感じ取ったことでしょう。
だけれども、この小説をそんな風に読むことができる人はもはやほとんどいないんだと思います。先にこの小説の内容はどうでもいいと言い放ったり、何よりも雰囲気を楽しむべきだ、とあえて言ったのはそういった意味合いです。このかっこよさの奥底に絡み付いている何かの正体が分からなければ、「かっこよさ」それ自体を楽しめばいいのだと、僕は思います。
また、この小説では何人か「ガンマン」が登場する。彼らは言ってしまえば、先の大戦の生き残りで絶滅危惧種みたいなものなんでしょう。しかし、この「ガンマン」って言葉は、アメリカの西部劇をイメージさせますね。そうか、1965年だから丁度マカロニ・ウェスタンの時期と重なるんですね。ギャビン・ライアルはマカロニ・ウェスタンを観ていたのでしょうか。
まぁそんなことよりも、ガンマンはタバコを左手で吸うらしいですよ。右手は空けておかなければいけないらしいです。警察は買いかぶってはいけないけれど、侮ってもいけないそうです。マティーニのとき、グラスは凍らせてはいけません。うっすらくもるくらいがいいそうです。なるほど。
車と銃と暴力と酒、の世界ですね。中学生くらいの時に読んでいたら、痛々しい真似をしていたかもしれません。というか、ひょっとして今の40代くらいの人たちって、もろにこういった冒険ハードボイルド小説をくぐり抜けてきた世代じゃなかろうか、いや憶測ですが。

何と言えばいいのか分からないけれど、かっこよさとともに、ある種共感に近いものを感じたんですね。その共感って言うのは喩えていうと、絶滅危惧種の動物の姿に対して覚えてしまう、失われていくものに対する寂寞と同情みたいな、いわく言い難い感情なのですが。

他方で、この小説でのホモソーシャルな結びつきや、性別的な役割分担、男性中心主義的な感じはこの「かっこよさ」の裏返し(別の一面)でしょうし、「ハードボイルド」ってマスキュリニティそのもののような気もします。マスキュリニティがあまり好きではない僕は結局ハードボイルドにはなれないのでした。

2010年4月9日金曜日

ガブリエル・ガルシア=マルケス 『予告された殺人の記録』

町をあげての婚礼騒ぎの翌朝、充分すぎる犯行予告にもかかわらず、なぜ彼は滅多切りにされねばならなかったのか?閉鎖的な田舎町でほぼ三十年前に起きた幻想とも見紛う殺人事件。凝縮されたその時空間に、差別や妬み、憎悪といった民衆感情、崩壊寸前の共同体のメカニズムを複眼的に捉えつつ、モザイクの如く入り組んだ過去の重層を、哀しみと滑稽、郷愁をこめて録す、熟成の中篇。

やられてしまいます。文句なしにすばらしい、お手本みたいな(でも絶対にまねすることのできない)中編小説。

村人誰もがそのことを知っていた。犯人たちは悠々と刃物を研ぎ、その時を待っていた。けれども、その殺害を誰も止めることはできなかった。なぜだったのだろう?
この小説は(少なくとも表面上は)この問いに向き合い、緻密な調査・インタビューによって、事件前後の村の様子、人々の行動とその背景を分析し、緻密に再構成した、という形をとっている。だからカポーティ的なノンフィクション・ノベルというべきなのかもしれないが、どの程度ガルシア=マルケスが「現実に即して」ということを意識していたのかはよくわからない。非常に強くそのこと意識していたようにも見えるし、それよりももっと共同体や人々の深層を抉り出すことに主眼を置いているようにも見える。
…あるいは、この発想がそもそも間違っているのかもしれない。この事件の「真相」に辿り着くにあたってはどうしてもインタビュー、つまり当事者の語りに頼らなければならない。こうした語りがそれぞれ真実というわけでは無論なく、それは一面的なものの見方で、しかもその根底にはインタビュイーの価値観や限界がどうしても入り込んでいる。とはいえそれらを緻密に組み合わせることによって、真相に接近することくらいはできるだろう。しかも、その組み合わせの素材一つ一つに住民の価値観や感性が入り込んでいるのであれば、それらを組み合わせることによって、住民の心性を排除するのではなく、それを組み込んだまま真相に接近することになる、と考えられる。だから、「真相」に辿り着こうとすることと、共同体や人々の心性、深層を抉り出そうとすることは背反しない。

住民たちの鬱屈や、アラブ人や金持ちに対する反感、憎悪みたいなものがこの小説には見え隠れする。確かにそれはそうで、吐き出し所がない、あるいは吐き出し切れないようなどうしようもない鬱屈さ、やり切れなさみたいなものが人々の言葉には滲んでいる。
それと同じように、この共同体は既に崩壊しかけている、あるいは崩壊している。解説のなかにバヤルド・サン・ロマンが「モダニティ」を体現する人物だ、という指摘があった。言われてみれば確かに。ただ、ガルシア=マルケスの巧みさは、こんなところにも見え隠れしていて、どうやらこのバヤルドは彼の家族の階級からはつまはじきにされているらしい。そしてバヤルド自身も、(恐らくは)金銭的に依存しつつも、自分が属する階級に不満を抱いている。「モダニティ」を体現する人物が実はそれ自体から疎外されているという奇妙な構図がここにある。更に、ガルシア=マルケスはアンヘラ・ビカリオとの再会という後日談も織り込む。バヤルドへの恋心に気付いたアンヘラが書いた2000もの手紙(しかも開封されていない)を携え、バヤルドは23年後アンヘラの前に姿を現す(このシーンは結構好き)。なんでこんな後日談を組み入れたのか、不思議と言えば不思議だけれど。


この小説は無数の語りの積み上げからなっている。過去のある出来事、それが無数の(というか住民数の)解釈によって多様化する。つまり一つの出来事がN個の物語となる。そうしてできたN個の物語、それは30年もの時間のなかで更に変化を遂げていく。そうした物語を再び組み合わせ、伝承を作り出す(祖型化)、ガルシア=マルケスはひょっとしたらそんな伝承生成をこの小説で行ったのかもしれない。

何よりも終盤部、殺害現場が見事に再現される。まるでスローモーションで映像が頭にこびりつくような、圧倒的な筆致、表現力。そう、読者はこの本を読み進めるなかで、凄惨な殺害シーンがいつか再現されることを期待している。そしてその期待が頂点に達するその瞬間に、ガルシア=マルケスはその場面を描き始める。その時に読者が味わう感情の奔出と昂揚感。「カタルシスとは何か?」を問われたなら、この本を読んでもらえばいい。この小説はそれが何たるかを十全に教えてくれるだろう。
小説を読む歓びを改めて教えてくれる1冊。この小説が420円で読めることを私たちは幸福に思うべきなのかもしれない、とさえ思わせてくれる。