ネオリベラリズムが主導するグローバリゼーションの下、世界各国で「スラム化」が進行、10億を超えるスラム居住者が生まれている。都市問題の論客デイヴィスがその現状と構造を鋭く抉り、貧困の世界的な同時進行にどう立ち向かうかを考察する。待望の邦訳。
これは先週に読み終えた本。なんだかいまいちでしたね。『要塞都市L.A.』みたいなのを期待していたのに、ひたすらと国連のレポートやら他の人の研究やらを書き連ねているばかり。フィールドワークをしたわけじゃなくて、二次文献を整理している、もっと有り体に言ってしまえば、整理も資料の精査もせずにただ盛り込んでいるだけ、のような気がします。『要塞都市〜』を読んだのはだいぶ前で、手元にもないので分かりませんが、マイク・デイヴィスってこんな感じだったっけ?と思ってしまいます。
確かにこれだけ書き連ねれば、スラム化という現象が世界中で生じていることはよく分かる。けれども、何も見えてこない。実態とかけ離れた開発計画なんかを批判するけれど(もちろんその批判は真っ当だと思う)、マイク・デイヴィスのこの著作もまた、実態を描くということ、そこに住んでいる人の生を描くということとはほど遠いのだろう。果たして、(こと第三世界における)都市貧困と「スラム化」というものは常にイコールなのか。彼が「スラム化」と指しているものは何なのか。彼はそれぞれの地域、国家、都市によって異なる文脈があるにもかかわらず、それを安易に「スラム化」と名指すことによって、問題を単純化し、見誤ってしまっているのではないか。そんな疑問をもつ読者もいるだろう。だから、都市研究、特にスラムなどの研究にはエスノグラフィックな調査が必要だと思うし、それをせずにひたすら統計データと二次資料を積み重ねていく彼の手法には正直感心しなかった。都市スラムのエスノグラフィックな調査のほうが、個人的には読んでいて楽しいので。そういえば昔読んだ松田素二さんの『抵抗する都市』なんか面白かったなぁ。あれ、『都市を飼い馴らす』のほうだっけか、ナイロビのやつ。まぁいいや。
いくら手法は単調だとはいっても、時折見せる分析はやはり鋭いし、エピローグなんかはけっこう面白かった。明石書店だし、買いかどうかは微妙ですが、図書館などで読む分にはいいのかもしれません。「都市」って最近気になる、という人にも。
2010年6月29日火曜日
2010年6月28日月曜日
マルカム・ラウリー 『火山の下』
ポポカテペトルとイスタクシワトル。二つの火山を臨むメキシコ、クワウナワクの町で、元英国領事ジェフリー・ファーミンは、最愛の妻イヴォンヌに捨てられ、酒浸りの日々を送っている。1938年11月の朝、彼のもとに突然イヴォンヌが舞い戻る。ぎこちなく再会した二人は、領事の腹違いの弟ヒューを伴って闘牛見物に出かけるが、領事は心の底で妻を許すことができず、ますます酒に溺れていく。彼を現実に引き戻そうとするイヴォンヌとヒューにもなすすべはなく、二人の救いの手を拒絶する領事は、ドン・キホーテさながらに、破滅へと向かって衝動的に突き進んでいく。ナチスの台頭やスペイン内戦など不穏な世界情勢を背景に、領事の悲喜劇的な一日が、の祝祭的な禍々しさと重なり合い、ジョイスの『ユリシーズ』を思わせる圧倒的な凝集力で描き出される。聖書、ギリシア神話、メキシコの歴史、更に『神曲』『失楽園』『ファウスト』等の文学作品をモチーフとして、領事の滑稽ながらも切実たる狂気の行方が、叙情的かつ重層的に、イメージ豊かにあぶり出されていく。ガルシア=マルケス、大江健三郎ら世界の作家たちが愛読する二十世紀の不滅の傑作、待望の新訳。
これは2週間くらい前に読み終えた本でしょうか。すごい小説です。
なんというか胃もたれしてしまいました。圧倒的な筆力に消化不良を起こしてしまいます。
図書館で借りたのですが、これは買い直すべきだ、とつくづく。繰り返し読むに足るし、そうやって反芻して読まなきゃまたやられてしまいます。ある意味、『闇の奥』をクルツ大佐の側に立って描き直したらこんな感じになるのかもしれない、とか思ったりしました。というか『闇の奥』への一つの応答なのかもしれませんね。
なんか一気呵成に書き上げたようにも見えるし、綿密に計算して構築したようにも見える。こんな小説書ける人いるんですね。現実と幻想の間を漂う、なんて言葉が生温く聞こえるほど、混沌としています。小説の中でいわゆる「事実」なんてさして重要なことではないのかもしれない。会話をしているうちに全然違うことを想起して、その妄想が途方もなく、現実を圧倒するほどに肥大していく。時間がものすごくたったような気もするし、あっという間なような気もする。そんなことは誰にでもあると思うけれど、小説のなかにその感覚を落とし込むのってすごく難しいような気がする。けれどラウリーは難なくこなしてみせる。章毎に人物の視点が入れ替わるけれど、その視点によって、物事の見え方も捉え方も違うし、「世界」も違っていく。描写なんかも、一見とりとめのないようで、でも無駄なところは全くない。あるいは無駄さえも必要な部分として読ませるような、そんな感じです。うーん、うまく言えない。すごく、インプリケーションに富んでいるし、寓話的にすら思えるんだけれど、その先のものもなかなか掴めない。
なんというか、すごいです。できれば注釈が欲しかった。
もっとまともな感想が書ければと思うけれど、なかなか僕にはできません。やられてしまいました。いつかまた立ち向かってやろうと思います。
これは2週間くらい前に読み終えた本でしょうか。すごい小説です。
なんというか胃もたれしてしまいました。圧倒的な筆力に消化不良を起こしてしまいます。
図書館で借りたのですが、これは買い直すべきだ、とつくづく。繰り返し読むに足るし、そうやって反芻して読まなきゃまたやられてしまいます。ある意味、『闇の奥』をクルツ大佐の側に立って描き直したらこんな感じになるのかもしれない、とか思ったりしました。というか『闇の奥』への一つの応答なのかもしれませんね。
なんか一気呵成に書き上げたようにも見えるし、綿密に計算して構築したようにも見える。こんな小説書ける人いるんですね。現実と幻想の間を漂う、なんて言葉が生温く聞こえるほど、混沌としています。小説の中でいわゆる「事実」なんてさして重要なことではないのかもしれない。会話をしているうちに全然違うことを想起して、その妄想が途方もなく、現実を圧倒するほどに肥大していく。時間がものすごくたったような気もするし、あっという間なような気もする。そんなことは誰にでもあると思うけれど、小説のなかにその感覚を落とし込むのってすごく難しいような気がする。けれどラウリーは難なくこなしてみせる。章毎に人物の視点が入れ替わるけれど、その視点によって、物事の見え方も捉え方も違うし、「世界」も違っていく。描写なんかも、一見とりとめのないようで、でも無駄なところは全くない。あるいは無駄さえも必要な部分として読ませるような、そんな感じです。うーん、うまく言えない。すごく、インプリケーションに富んでいるし、寓話的にすら思えるんだけれど、その先のものもなかなか掴めない。
なんというか、すごいです。できれば注釈が欲しかった。
もっとまともな感想が書ければと思うけれど、なかなか僕にはできません。やられてしまいました。いつかまた立ち向かってやろうと思います。
修道士マルクス/修道士ヘンリクス 『西洋中世奇譚集成 聖パトリックの煉獄』
腹を食い破る蛇、悪霊たちの打擲、四肢を断ち切る処刑人、灼熱と悪臭……
想像を絶する責め苦と試練が待ち受ける西欧版地獄とは?
12世紀、ヨーロッパを席巻した冥界巡り譚「聖パトリキウスの煉獄」「トゥヌクダルスの幻視」を収録。2人の騎士は臨死体験を通して、異界を訪問する。無数の悪霊の襲来から始まり、灼熱、悪臭、寒冷、虫、蛇、猛獣が跋扈する煉獄で、執拗な拷問と懲罰を受けた後、甘美にして至福の天国を見学し、現世へと帰還する。中世人の死生観を熟読玩味する。
しばらくパソコンから離れた生活を送っていたので、なかなか書けませんでした。その間に、何冊か本を読み終えたのですがだいぶ時間が経っているので、とりあえず読んだ本の紹介程度に。また7月からはちゃんとしたいと思うのですが。
ってことで、3週間ほど前に読んだ、講談社学術文庫「西洋中世奇譚」シリーズの新刊。「トゥヌクダルスの幻視」と「聖パトリキウスの煉獄」の二篇を収めています。『神曲』を読んでいて地獄篇の拷問場面が一番面白かった、という人にはおすすめです。『神曲』ってやっぱ洗練されているんだなぁ、こっちはもっと露骨にえぐいです。神曲は地獄→煉獄→天国だけども、この二篇では、どちらも天国には行かないんですね。煉獄の最後にある地上の楽園止まりだったと記憶しています。「幻視」というのはとても面白いテーマで、以前ヴィクトル・ストイキツァの『幻視絵画の詩学』という本を読んで感銘を受けたことがあります。といってもあの本で扱っているのは16〜17世紀ごろのスペインの宗教画でしたが。ただ、幻視を描く宗教画と、こういった幻視譚はそれが担った役割においては似ているところがあるのかもしれません。こういった煉獄譚が当時、誰にどのように読まれていたのか、その辺は気になるところですね。平民の生活を(自発的に)統制/管理するための技術、みたいな役割を果たしていたであろうことは予測がつきますが、それだけに尽きない魅力があるようにも思います。
詳細な解説も魅力。
想像を絶する責め苦と試練が待ち受ける西欧版地獄とは?
12世紀、ヨーロッパを席巻した冥界巡り譚「聖パトリキウスの煉獄」「トゥヌクダルスの幻視」を収録。2人の騎士は臨死体験を通して、異界を訪問する。無数の悪霊の襲来から始まり、灼熱、悪臭、寒冷、虫、蛇、猛獣が跋扈する煉獄で、執拗な拷問と懲罰を受けた後、甘美にして至福の天国を見学し、現世へと帰還する。中世人の死生観を熟読玩味する。
しばらくパソコンから離れた生活を送っていたので、なかなか書けませんでした。その間に、何冊か本を読み終えたのですがだいぶ時間が経っているので、とりあえず読んだ本の紹介程度に。また7月からはちゃんとしたいと思うのですが。
ってことで、3週間ほど前に読んだ、講談社学術文庫「西洋中世奇譚」シリーズの新刊。「トゥヌクダルスの幻視」と「聖パトリキウスの煉獄」の二篇を収めています。『神曲』を読んでいて地獄篇の拷問場面が一番面白かった、という人にはおすすめです。『神曲』ってやっぱ洗練されているんだなぁ、こっちはもっと露骨にえぐいです。神曲は地獄→煉獄→天国だけども、この二篇では、どちらも天国には行かないんですね。煉獄の最後にある地上の楽園止まりだったと記憶しています。「幻視」というのはとても面白いテーマで、以前ヴィクトル・ストイキツァの『幻視絵画の詩学』という本を読んで感銘を受けたことがあります。といってもあの本で扱っているのは16〜17世紀ごろのスペインの宗教画でしたが。ただ、幻視を描く宗教画と、こういった幻視譚はそれが担った役割においては似ているところがあるのかもしれません。こういった煉獄譚が当時、誰にどのように読まれていたのか、その辺は気になるところですね。平民の生活を(自発的に)統制/管理するための技術、みたいな役割を果たしていたであろうことは予測がつきますが、それだけに尽きない魅力があるようにも思います。
詳細な解説も魅力。
2010年6月7日月曜日
白石嘉治 『不純なる教養』
資本主義の終わりを、われわれはどのように生きればいいのか?時間と場所を倒錯させ、無数の新たな夢をつむぐための「不純なる教養」。
とても魅惑的かつ挑発的な論集。『超訳なんちゃら』を読んでいる暇とお金があったらこっちを読みましょう。
とりわけ数百万もの借金を背負って大学院を出た僕にとって、とても刺激的な1冊だった。奨学金という名の下に行われる悪質な学生ローン。運良く僕は無利子だったけれど、大多数は利息付きの借金を背負わされることになる。貸与の奨学金なんて語義矛盾もいいとこだろう。将来の自分から借金しているだけで、学生支援機構なる団体は、そんな生活に困窮する学生たちに取り憑いて、利益を吸い上げる寄生虫に過ぎない。寄生虫の割りには偉そうな連中で、自分がいいことをしている、と本気で信じているかのようだ。寄生虫なら寄生虫らしくすればいいのに。ついでにいえば、彼らの奨学金には有利子の第2種と、無利子の第1種がある。貸与人数を見ると平成21年度には、有利子が80万人、無利子が34万人となっている(文科省のHP)。学生のための奨学金なのにそもそも利息をふんだくる神経も信じ難いけれど、もっと深刻なのは誰が有利子で誰が無利子か、という点だ。無利子と有利子であれば、基本的には(有利子の方が高い金額を借りることができるものの)無利子を選ぶのが当然だけれど、3分の2は有利子での貸与を余儀なくされている。有利子については年収制限さえ合えばほぼ受給できるけれど、無利子については学力条件などが厳しい。しかし、この学力条件とは一体何を意味しているのだろう? 僕のいた大学では無利子の奨学金をもらっている人ばかりで有利子の奨学金をあえて受給している人を見たことがなかった。(あえてこう言うのだけれど)「いい大学」→「いい企業」という図式が確固として存在している現状からすれば、将来大企業などで安定的な雇用に就き高い所得を得ることが予測される学生には無利子の奨学金を貸与し、そうではない(つまり、安定的な取り立てが望めないであろう)学生には有利子の奨学金を貸与する、という形になっている。つまり後者の学生の方が、明らかに重い負債を背負わされることになる上に、その返済も前者の学生にも増して困難になることが容易に見て取れる。それに追い打ちをかけるのが、返済滞納者の「ブラックリスト化」だろう。安定的な職にありつけないならば、奨学金など返せる訳がない。そんな人々にもっと懸命に働いてカネを生み出せ、じゃないとお前はクレジットカードも使えないし、家にも住めないぞ、と彼らはいう。彼らは、奨学金を滞納することは、「人間」として生きるにあるまじき行為であって、「負け犬」で「敗残者」である、という烙印を捺そうとしている。このことは学生支援機構が、学生を「支援する」わけでもなんでもなく、学生の不安定さに取り憑くたちの悪い借金取り以外のなにものでもないことを証している。
出発点に戻ろう。なぜ奨学金が借金なのか。しかもなぜその3分の2が利子付きなのか。この制度は誰のために、何のためにあるのか。
もちろん白石氏のいうように、給付型というのが奨学金のあるべき姿であることは間違いない。それがもし本当に困難であるならば(必ずしも困難とは思われないが)、有利子を廃し、ブラックリスト化を撤廃し、無利子の奨学金に一元化することは給付型に至るステップとして考慮されるべきだろう。学生ローンではなく、学生支援機構という名を冠しているのであれば、他の民間ローンとは一線を画したその名に恥じない機構のあり方があるのではないだろうか。
……とはいえこれはやや現実主義的な考えかもしれない。学生、ことに大学院生にとって、研究は「仕事」であるし、労働活動でもある。ちょうど家事労働と同じように、大学院生の研究活動もまた労働なのだ。しかし、この研究活動を行うにあたって、(一部のエリート学生を除き)彼らに対しては一切の賃金が支払われないどころか、大学に何十万(もしくはそれ以上の)学費を毎年納めなければならない。一部を除き、とは学振の特別研究生に選ばれれば、月々生活するに足る給与と研究費が支払われるからである。このことが示唆しているのは大学院生の研究活動は本来それだけの賃金を得るに値する労働だ、ということではないだろうか。だから、大学院生に賃金を!と叫ぶ声を、僕としては簡単に笑い流すことはできない。そして卒業した彼らの多くが非常勤講師という云ってしまえば「パート」労働という不安定な状況におかれていたり、予備校や高専などで生計を立てていくしかないことを考えたときに、もはや一体誰が学者なぞになりたがるだろうか、などと思ったりもする。だからこそ、彼らの研究にかける情熱には、本当に敬意を表したいと思う。
もちろんこの本は奨学金の話ばかりしているわけではない。というか、結局のところ奨学金の話の根底にあるものは、ネオリベ批判と大学とは何か、という2つの問題なのだろう。前者に関していえば、「私たちは経済学者に指図されるために生まれてきたのではない」(192ページ)という一言に集約されるだろう。後者の大学論は、(これは地下大学での西山さん×平井さん×白石さんの鼎談を聞いていても思ったことだけど)抜群に面白い。大学の起源にまで掘り下げながら、大学はどこにあるのか、知識人とは何かを饒舌に語っている。そう、「知識人」とは何かということについて、これまでの自分の認識を転換して改めて考えてみたい、と思った。僕はこの言葉をあまりに啓蒙主義的に捉えすぎていたかもしれない。
笙野頼子論は措いておいて、ベーシックインカムの議論と『来るべき蜂起』についての紹介についても少し。
ドゥルーズ=ガタリはベーシックインカムを擁護するだろうか?という一風変わった問いを提出しながら、彼はベーシックインカムを積極的に肯定する。BIが導入されれば、上記のような奨学金を巡る問題も、ひとまず片がつくわけだ。
しかし、ここで白石氏はBIの導入が労働意欲の減退をもたらすことはない、と断言する。こんなに簡単に断言できるかどうか、僕には少し自信がない。主婦の家事労働や院生の研究活動のように、人々はお金が支払われる/れないの問題に関わらず労働をする、確かにそうかもしれない。けれど、例えば工場でひたすらお弁当を作るような労働に、あるいは清掃に、それでもみながみな従事するのだろうか。これはそこで働いている人への軽蔑でもなんでもなくて、純粋な問いである。結局、誰かが弁当を作らなくてはいけないし、誰かが清掃をしなくてはいけない。それを誰が埋め合わせるのか?労働に貴賤はない、それが白石氏のBIへのあるいは人間の労働への前提にあるようだけれども、本当にそうなのか?(繰り返すけれど、これは修辞的な問いではなく、純粋な問いです。) そういえば現代思想のBI特集にも寄稿してたなぁ。そもそも現代思想がこれまでBIの特集をしていなかったことに驚いたけど。
『来るべき蜂起』は買いました。早く読みたいところですが、読書の予定が詰まっていてなかなか読めそうにありません。なので保留。しかし、やたらにみんなこの本のことに言及するのね。
あと、そう、ヴィルノの「環境」と「世界」の違いについての話とか、スティグレールの話とか結構面白かった。ヴィルノって読んだことなかったかも。スティグレールは『現勢化』がとっても面白かったので気になる思想家の一人です。
とまぁこんな風に読者をいい感じに挑発してくれます。あぁあれも読みたい、これも読みたい、と。面白い。
とても魅惑的かつ挑発的な論集。『超訳なんちゃら』を読んでいる暇とお金があったらこっちを読みましょう。
とりわけ数百万もの借金を背負って大学院を出た僕にとって、とても刺激的な1冊だった。奨学金という名の下に行われる悪質な学生ローン。運良く僕は無利子だったけれど、大多数は利息付きの借金を背負わされることになる。貸与の奨学金なんて語義矛盾もいいとこだろう。将来の自分から借金しているだけで、学生支援機構なる団体は、そんな生活に困窮する学生たちに取り憑いて、利益を吸い上げる寄生虫に過ぎない。寄生虫の割りには偉そうな連中で、自分がいいことをしている、と本気で信じているかのようだ。寄生虫なら寄生虫らしくすればいいのに。ついでにいえば、彼らの奨学金には有利子の第2種と、無利子の第1種がある。貸与人数を見ると平成21年度には、有利子が80万人、無利子が34万人となっている(文科省のHP)。学生のための奨学金なのにそもそも利息をふんだくる神経も信じ難いけれど、もっと深刻なのは誰が有利子で誰が無利子か、という点だ。無利子と有利子であれば、基本的には(有利子の方が高い金額を借りることができるものの)無利子を選ぶのが当然だけれど、3分の2は有利子での貸与を余儀なくされている。有利子については年収制限さえ合えばほぼ受給できるけれど、無利子については学力条件などが厳しい。しかし、この学力条件とは一体何を意味しているのだろう? 僕のいた大学では無利子の奨学金をもらっている人ばかりで有利子の奨学金をあえて受給している人を見たことがなかった。(あえてこう言うのだけれど)「いい大学」→「いい企業」という図式が確固として存在している現状からすれば、将来大企業などで安定的な雇用に就き高い所得を得ることが予測される学生には無利子の奨学金を貸与し、そうではない(つまり、安定的な取り立てが望めないであろう)学生には有利子の奨学金を貸与する、という形になっている。つまり後者の学生の方が、明らかに重い負債を背負わされることになる上に、その返済も前者の学生にも増して困難になることが容易に見て取れる。それに追い打ちをかけるのが、返済滞納者の「ブラックリスト化」だろう。安定的な職にありつけないならば、奨学金など返せる訳がない。そんな人々にもっと懸命に働いてカネを生み出せ、じゃないとお前はクレジットカードも使えないし、家にも住めないぞ、と彼らはいう。彼らは、奨学金を滞納することは、「人間」として生きるにあるまじき行為であって、「負け犬」で「敗残者」である、という烙印を捺そうとしている。このことは学生支援機構が、学生を「支援する」わけでもなんでもなく、学生の不安定さに取り憑くたちの悪い借金取り以外のなにものでもないことを証している。
出発点に戻ろう。なぜ奨学金が借金なのか。しかもなぜその3分の2が利子付きなのか。この制度は誰のために、何のためにあるのか。
もちろん白石氏のいうように、給付型というのが奨学金のあるべき姿であることは間違いない。それがもし本当に困難であるならば(必ずしも困難とは思われないが)、有利子を廃し、ブラックリスト化を撤廃し、無利子の奨学金に一元化することは給付型に至るステップとして考慮されるべきだろう。学生ローンではなく、学生支援機構という名を冠しているのであれば、他の民間ローンとは一線を画したその名に恥じない機構のあり方があるのではないだろうか。
……とはいえこれはやや現実主義的な考えかもしれない。学生、ことに大学院生にとって、研究は「仕事」であるし、労働活動でもある。ちょうど家事労働と同じように、大学院生の研究活動もまた労働なのだ。しかし、この研究活動を行うにあたって、(一部のエリート学生を除き)彼らに対しては一切の賃金が支払われないどころか、大学に何十万(もしくはそれ以上の)学費を毎年納めなければならない。一部を除き、とは学振の特別研究生に選ばれれば、月々生活するに足る給与と研究費が支払われるからである。このことが示唆しているのは大学院生の研究活動は本来それだけの賃金を得るに値する労働だ、ということではないだろうか。だから、大学院生に賃金を!と叫ぶ声を、僕としては簡単に笑い流すことはできない。そして卒業した彼らの多くが非常勤講師という云ってしまえば「パート」労働という不安定な状況におかれていたり、予備校や高専などで生計を立てていくしかないことを考えたときに、もはや一体誰が学者なぞになりたがるだろうか、などと思ったりもする。だからこそ、彼らの研究にかける情熱には、本当に敬意を表したいと思う。
もちろんこの本は奨学金の話ばかりしているわけではない。というか、結局のところ奨学金の話の根底にあるものは、ネオリベ批判と大学とは何か、という2つの問題なのだろう。前者に関していえば、「私たちは経済学者に指図されるために生まれてきたのではない」(192ページ)という一言に集約されるだろう。後者の大学論は、(これは地下大学での西山さん×平井さん×白石さんの鼎談を聞いていても思ったことだけど)抜群に面白い。大学の起源にまで掘り下げながら、大学はどこにあるのか、知識人とは何かを饒舌に語っている。そう、「知識人」とは何かということについて、これまでの自分の認識を転換して改めて考えてみたい、と思った。僕はこの言葉をあまりに啓蒙主義的に捉えすぎていたかもしれない。
笙野頼子論は措いておいて、ベーシックインカムの議論と『来るべき蜂起』についての紹介についても少し。
ドゥルーズ=ガタリはベーシックインカムを擁護するだろうか?という一風変わった問いを提出しながら、彼はベーシックインカムを積極的に肯定する。BIが導入されれば、上記のような奨学金を巡る問題も、ひとまず片がつくわけだ。
しかし、ここで白石氏はBIの導入が労働意欲の減退をもたらすことはない、と断言する。こんなに簡単に断言できるかどうか、僕には少し自信がない。主婦の家事労働や院生の研究活動のように、人々はお金が支払われる/れないの問題に関わらず労働をする、確かにそうかもしれない。けれど、例えば工場でひたすらお弁当を作るような労働に、あるいは清掃に、それでもみながみな従事するのだろうか。これはそこで働いている人への軽蔑でもなんでもなくて、純粋な問いである。結局、誰かが弁当を作らなくてはいけないし、誰かが清掃をしなくてはいけない。それを誰が埋め合わせるのか?労働に貴賤はない、それが白石氏のBIへのあるいは人間の労働への前提にあるようだけれども、本当にそうなのか?(繰り返すけれど、これは修辞的な問いではなく、純粋な問いです。) そういえば現代思想のBI特集にも寄稿してたなぁ。そもそも現代思想がこれまでBIの特集をしていなかったことに驚いたけど。
『来るべき蜂起』は買いました。早く読みたいところですが、読書の予定が詰まっていてなかなか読めそうにありません。なので保留。しかし、やたらにみんなこの本のことに言及するのね。
あと、そう、ヴィルノの「環境」と「世界」の違いについての話とか、スティグレールの話とか結構面白かった。ヴィルノって読んだことなかったかも。スティグレールは『現勢化』がとっても面白かったので気になる思想家の一人です。
とまぁこんな風に読者をいい感じに挑発してくれます。あぁあれも読みたい、これも読みたい、と。面白い。
2010年6月6日日曜日
ジャン=リュック・ジリボン 『不気味な笑い フロイトとベルグソン』
ベルクソン、フロイト、ベイトソンの思想、モリエール、カフカ、サルトルの文学、チャップリンやタチの映画などの新しい読解から、この永遠の謎の解明に一石を投じる、ブルデューとともにLiber叢書を立ち上げた現代フランスの知性による画期的な哲学エッセイ。
とても薄い本。注釈と訳者解説を除けば60ページちょっと。ジリボンという著者のことも知らず、タイトルにつられてなんとなしに読んでみました。
「フロイトとベルグソン」という副題になっているけれど、ほぼベースになっているのはベルグソン。特に『笑い』を、滑稽さと不気味さの共通点/分割点を考察する、という観点から再評価しようとしています。
文章も平易で読みやすいけれど、きっちり練り上げられた本、という印象はあまりしない。思いついたことをとりあえず繋げていった「研究ノート」といった感じ。論旨もやや錯綜しているし、ところどころに飛躍があるようにも思う。特にラカンの〈現実界〉を巡る議論を持ち出しかけ、手に負えない、とそれを撤回するところなんかはおいおい、と。ジリボンとしてはそっちに落としたかったんじゃないか、とも思えるのだけど。ただ、そうすると枠化=象徴化で、枠化できない残余=不気味なものということになって、それ自体整理としてはとってもシンプルで分かりやすいけれど、別にそんなに面白い話でもないし、喜劇=滑稽さ/悲劇=不気味さというそれまで依拠してきた二項対立の議論とは少しズレてしまう。そのせいだろうか? ただ、Ⅺ以降を読むと、やっぱラカン方向に落としたかったように読めるのだけど。
喜劇は滑稽さをもたらすものでそれを観る私たちは劇のなかに引きずり込まれることはなく、他方で悲劇は不気味さを伴うもので、そうした不気味さが私たちを劇の世界に引きずり込んでいく。こういった二項対立的な構図をベースに置きながら、それを少しずつジリボンは掘り崩そうとする。実は滑稽さと不気味さが対極にあるものというよりも、一つの反応の2つの有り様としてあるのだと彼はいう。つまり、ある枠(認識枠組み)と対象との乖離ゆえに滑稽さが生じ、枠が宙づりにされるときに不気味さが生じるのだと。しかしその閾を決定付ける因子とは何なのだろう。そもそも枠が「宙づり」になる、とはどういうことなのか。『モダン・タイムズ』の滑稽さと、アウシュヴィッツの底知れない不気味さ。この二つを同列に分析することができるのか(これは極論じゃない)。それは不可能ではないだろうし、必要なことと僕は思うのだけど、〈枠〉という概念がその分析装置として妥当なのかはよくわからない。
最終章の結論部分については、ちょっと意味が分からなかった。枠化(ここでは「意味づけられる」ことを意味する)以前の、生の豊穣さ(ベルグソン)やら不条理さ(カミュ)やら不気味さ(サルトル)やらに触れた後に、彼はそうした枠化されえない世界、意味消失の世界には別のヴァージョンもあるのだ、という。そこでは枠は依然として存在しているが、それらの審級(枠とは審級である)は特権的な存在ではなく、脆弱な、「消失のふり」をしたものであると。そしてそこでは滑稽さと不気味さが両立する。なんだか手順をすっ飛ばしたずいぶん強引な脱構築のような気もするけど。そしてその後には笑いは簡単に低俗化してしまうから私たちはそうした堕落から笑いを守らなきゃいけない、笑いは神秘に近しいものとなりうる(「笑いは夢の親戚であり、神秘に接して花を開き、熱狂のさなかにそれ自体が神秘に達する」)、などとよく分からない話になっています。ちょっとむりやり落とそうとしすぎな感があります。これはよくない。
この本は完成された本、というよりもやっぱり研究ノートなんでしょう。気になるところや面白いところもあるのですが、いかんせん……
何れにしても、ベルグソンの『笑い』は読みたいですね。岩波文庫でしたか。
とても薄い本。注釈と訳者解説を除けば60ページちょっと。ジリボンという著者のことも知らず、タイトルにつられてなんとなしに読んでみました。
「フロイトとベルグソン」という副題になっているけれど、ほぼベースになっているのはベルグソン。特に『笑い』を、滑稽さと不気味さの共通点/分割点を考察する、という観点から再評価しようとしています。
文章も平易で読みやすいけれど、きっちり練り上げられた本、という印象はあまりしない。思いついたことをとりあえず繋げていった「研究ノート」といった感じ。論旨もやや錯綜しているし、ところどころに飛躍があるようにも思う。特にラカンの〈現実界〉を巡る議論を持ち出しかけ、手に負えない、とそれを撤回するところなんかはおいおい、と。ジリボンとしてはそっちに落としたかったんじゃないか、とも思えるのだけど。ただ、そうすると枠化=象徴化で、枠化できない残余=不気味なものということになって、それ自体整理としてはとってもシンプルで分かりやすいけれど、別にそんなに面白い話でもないし、喜劇=滑稽さ/悲劇=不気味さというそれまで依拠してきた二項対立の議論とは少しズレてしまう。そのせいだろうか? ただ、Ⅺ以降を読むと、やっぱラカン方向に落としたかったように読めるのだけど。
喜劇は滑稽さをもたらすものでそれを観る私たちは劇のなかに引きずり込まれることはなく、他方で悲劇は不気味さを伴うもので、そうした不気味さが私たちを劇の世界に引きずり込んでいく。こういった二項対立的な構図をベースに置きながら、それを少しずつジリボンは掘り崩そうとする。実は滑稽さと不気味さが対極にあるものというよりも、一つの反応の2つの有り様としてあるのだと彼はいう。つまり、ある枠(認識枠組み)と対象との乖離ゆえに滑稽さが生じ、枠が宙づりにされるときに不気味さが生じるのだと。しかしその閾を決定付ける因子とは何なのだろう。そもそも枠が「宙づり」になる、とはどういうことなのか。『モダン・タイムズ』の滑稽さと、アウシュヴィッツの底知れない不気味さ。この二つを同列に分析することができるのか(これは極論じゃない)。それは不可能ではないだろうし、必要なことと僕は思うのだけど、〈枠〉という概念がその分析装置として妥当なのかはよくわからない。
最終章の結論部分については、ちょっと意味が分からなかった。枠化(ここでは「意味づけられる」ことを意味する)以前の、生の豊穣さ(ベルグソン)やら不条理さ(カミュ)やら不気味さ(サルトル)やらに触れた後に、彼はそうした枠化されえない世界、意味消失の世界には別のヴァージョンもあるのだ、という。そこでは枠は依然として存在しているが、それらの審級(枠とは審級である)は特権的な存在ではなく、脆弱な、「消失のふり」をしたものであると。そしてそこでは滑稽さと不気味さが両立する。なんだか手順をすっ飛ばしたずいぶん強引な脱構築のような気もするけど。そしてその後には笑いは簡単に低俗化してしまうから私たちはそうした堕落から笑いを守らなきゃいけない、笑いは神秘に近しいものとなりうる(「笑いは夢の親戚であり、神秘に接して花を開き、熱狂のさなかにそれ自体が神秘に達する」)、などとよく分からない話になっています。ちょっとむりやり落とそうとしすぎな感があります。これはよくない。
この本は完成された本、というよりもやっぱり研究ノートなんでしょう。気になるところや面白いところもあるのですが、いかんせん……
何れにしても、ベルグソンの『笑い』は読みたいですね。岩波文庫でしたか。
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