2010年3月29日月曜日

ルイ=フェルディナン・セリーヌ 『なしくずしの死 上・下』

『夜の果てへの旅』の爆発的な成功で一躍有名になった作者が四年後の一九三六年に発表した本書は、その斬新さのあまり非難と攻撃によって迎えられた。今日では二十世紀の最も重要な作家の一人として評価されるセリーヌは、自伝的な少年時代を描いた本書で、さらなる文体破壊を極め良俗を侵犯しつつ、弱者を蹂躙する世界の悪に満ちた意志を糾弾する。

“絶望のアナーキスト”から“反ユダヤ主義者・対独協力者・戦争犯罪人”まであらゆるセンセーショナルな肩書きを背負ったセリーヌは、呪われた作家だ。だがその絶望と怒りの底には、声なき弱者への限りない慈しみが光る。そして哀しみとユーモアも。生来負債として負わされている死を、なしくずしに支払っていくしかないと謳う、狂憤の書にして愛に満ちた救いの書。

『夜の果てへの旅』に続き、二作目のセリーヌ。ただ『夜の果てへの旅』を読んでからだいぶ時間が経ってしまったので、重ね合わせながら読むことはできなかった。
文体破壊云々は、日本語に変換されてしまうとよく分からなくなってしまう。原語で読むとなかなかの衝撃、らしい。最も翻訳を介してもこれだけの衝撃を与えるわけですが。あとがきによればある批評家は「この卑猥な叙事詩はフランス語ではない、俗語で書かれている」、と評したとか。最下層の人々の日常やその生き様を克明に描き出そうとすれば、「フランス語」の域からは外れてしまう。逆に言えば、セリーヌ以前のフランス文学においては、最下層の人々の生というのはここまで露骨に描かれてこなかった、ということなのかもしれない。

反ユダヤ主義者やら戦争犯罪人やら、セリーヌを指してよくいわれるけれども、僕が読んだ2つの作品でそれらはほとんど前景化していない。だから、率直に言ってよく分からない。もっとも略歴によると、彼の反ユダヤ主義的言説が活発になったのは『なしくずしの死』刊行以後らしいが。反ユダヤ主義的言説というのが具体的にいかなるものなのか、その背景は何なのかについては若干興味がある。というのも、この2つの小説を読む限り、この世界のあらゆるものが罵倒の対象になっているし、そこにユダヤ人が付け加えられたからと言って特に驚くことはない。にも関わらずユダヤ人に呪詛をはくシーンが全くと言っていいほど登場しないのはなぜか。反ユダヤ主義的言説は彼がこの2つの小説を書いた時点でも、のさばっていただろうに。まぁ、ひとまずそのことは置いておこう。

この小説が呪詛と怒りに満ちた小説だとあらかじめ知っている人は、冒頭の一節に意表を突かれるかもしれない。この物語はこんな文章で始まる。

みんなまたひとりぼっちだ。こういったことはみんな実にのろまくさくて、重苦しくて、やり切れない……やがて私も年をとる。そうしてやっとおしまいってわけだ。たくさんの人間が私の部屋にやって来た。連中はいろんなことをしゃべった。大したことは言わなかった。みんな行っちまった。みんな年をとり、みじめでのろまになった、めいめいどっか世界の片隅で。

『なしくずしの死』というタイトルと、内容紹介の「生来負債として負わされている死を、なしくずしに支払っていくしかないと謳う」、というくだりと、訳者によるあとがき。それらとこの一節を重ね合わせると、なんとなく見えてくることがある。フェルディナンや彼の家族、そして発明家クルシアル、彼らは絶えず不条理な運命に翻弄される(もちろん自分でそれを招き寄せている部分はあるけれど)。人生は苦痛に満ちていて、彼らはきしんだ悲鳴を上げ続ける。彼らの世界、人生はどこまでもこの苦痛の繰り返しに過ぎない。それを繰り返していくうちに、いつしか年を取り死んでいく。彼らは、あらかじめある負債を背負っていて、それを支払い続ける。それが帳消しになったときにもたらされるものが死なのだろう。
ただ、負債それ自体は苦痛だとしても、その支払い自体は希望や歓びのある行為なのかもしれない。彼らは、様々な困難に直面する。それに憤り、嘆き、絶望する。しかしその中でも、何かを見出してそれに乗り越えようとする。そうした乗り越えを目指す彼らの様子を、セリーヌは昂揚感とともにつぶさに描き出している。こうした彼らの強靭さは生の力強さそのものであって、こうした根源的な生の肯定がこの小説にはある。つまり、あらかじめ背負わされた負債を彼らは生の力そのものによって報いようとする。神は助けてくれない。助けてくれるのは、生それ自体なのだ。

だからこの小説はとても力強いし、面白い。「……」を多用し、地の文と会話文と心情の独白が自由に入り交じるこの文体は、否応無しに読む者をこの虚構の世界へと引きずり込む。距離を保ちながらこの小説を読むことはひどく難しい。気付けばフェルディナンやクルシアルと一体化している。そして彼らの思いが転移するがごとく、様々な心情・怒り・共感を読者の植え付ける。だから、読んでいて気分が悪くなることが何回もあった。これほどの力を持つ小説はそうはないだろう。

思わず笑ってしまうシーン、目を背けたくなるシーン、ごちゃごちゃして訳が分からなくなってしまうシーン、色々あります。個人的には家族一緒に船でイギリスに旅行する際のゲロ地獄シーンにどん引きしました。

2010年3月25日木曜日

佐藤俊樹 『桜が創った「日本」—ソメイヨシノ起源への旅』

一面を同じ色で彩っては、一斉に散っていくソメイヨシノ。近代の幕開けとともに日本の春を塗り替えていったこの人工的な桜は、どんな語りを生み出し、いかなる歴史を人々に読み込ませてきたのだろうか。現実の桜と語られた桜の間の往還関係を追いながら、そこからうかび上がってくる「日本」の姿、「自然」の形に迫る。

ちょうど時期も時期ってことで。
岩波新書の隠れた(?)名著です。実に良くできた本で、つくづく感心しながら読んでいました。
桜そのものよりも、桜に関する語り、イメージに焦点を当てています。
面白い点は幾つもありますが、まず古来の人々が「桜」に持っていたイメージ、理想的な桜の有り様を具現化したのが、ソメイヨシノであったということ。このことがソメイヨシノのイメージをそれ以前の(そして今日にもある)桜の多様な有り様に対して押し付けていったということ。それゆえソメイヨシノが登場し、広範に拡大していった後にそれ以前の桜の有り様を見ようとするとどうしてもソメイヨシノのイメージに引きずられてしまう。そうしたソメイヨシノを近代の産物だと見なして、それ以前の、「本来的」な桜の有り様を「ヤマザクラ」に見いだそうとする、つまり人工的かつ近代的なソメイヨシノに対して自然で伝統的なヤマザクラを対置させようとする発想も、まさしく近代的思考に他ならない、と喝破している。
このことがすぐ連想させるのは「ポスト・コロニアリティ」を巡る議論だろう。ポスト・コロニアルな局面において、植民地支配に対する反発として、しばしば、それ以前の原初的な姿を見出し、それに立ち返ろうとする動きが見られる。ただ、それは結局のところ植民地支配下の鏡像に過ぎず、それこそ西洋的な思考に他ならない。こうした矛盾に覆い尽くされた状況が、ポスト・コロニアルな局面ではないか。これについて、酒井直樹は「ポスト・コロニアル」という用語の「ポスト」にはpost factumとしての意味合いがあるという卓抜した指摘していた。植民地体制とはそうした、まさしく取り返しのつかない出来事なのであり、もはやそれ以前に立ち返ることなどできない、ということだろう。

話が逸れてしまった。次に面白いのは、桜と「日本人」が相互参照的に、あるいは再帰的に互いを創出させてきた、という点。「日本人」なる存在が「桜」を育て上げたのではない。ある人々が新たな桜を創出し、桜が「日本人」を創出させていく。そうした連累の果てに、現代の桜を巡る語りは位置している。「桜は日本にしかない」とか「桜のように日本人は……」とか「桜は日本人の感性に合っている」とか「西洋のバラが一輪の美しさであるのに対して、日本の桜は集合の美しさである。これは、西洋は個人主義的性格と日本の集合主義的性格に対応するものだ」とか。
現代の桜の語りの特徴として、個人的な桜に対するイメージが、突然日本人の桜のイメージや「日本」へのイメージへと飛躍していく点を指摘していた。何の論理もなく、情緒的に、あるいは随想的に両者が結びつけられる。こうした語りは確かによく耳にするし、違和感を感じるのだけれども、桜の描写の美しさにごまかされがちなのも真実だった。マイケル・ビリッグがバーナル・ナショナリズムという言葉を提唱していたけれども、確かに彼のいうようにネイションにまつわるイメージはこうした何気ない、日常生活のすぐ近くで機能しているのだろう。

もう一つ挙げれば、ソメイヨシノが接ぎ木によって広がっていくが故に、ほぼ同時期に、同じように咲き、同じように散っていく、ということ。このことが国民国家形成や帝国主義の拡大において一定の役割を果たしていたのではないか、という指摘である。同じような桜を見て、同じように楽しむ、そうしたソメイヨシノを取り巻く空間を地域は違えど多くの人々が共有する。そもそも桜は日本のイメージを密接に結びついている。そんな中でソメイヨシノは「日本/日本人」が形成されるにあたってのいわばイデオロギー装置の一端として機能したのではないか、ということはとても興味深い指摘だった。ソメイヨシノがクローンであるがゆえに、結果的に時間や空間を共有することが可能になった、ということだ。しかも何にも増して興味深いのはその時間、空間の原点ともいうべき地点が靖国神社であったということだろう。この靖国神社と桜の結びつきについて、第2部の前半にかなり紙数を割いて考察を行っている。

桜って面白いなぁとつくづく。桜を巡る語りに改めて注目したくなります。桜に対する著者のスタンスが明確で、単純化や飛躍を自制する語りがとても気に入りました。とても優秀な方なのかな、と勝手に思いました。
ソメイヨシノが咲いているうちに、とはいわないけれどもぜひご一読を。

2010年3月22日月曜日

ダンテ・アリギエーリ 『神曲 天国篇』

三昼夜を過ごした煉獄の山をあとにして、ダンテはベアトリーチェとともに天上へと上昇をはじめる。光明を放つ魂たちに歓迎されながら至高天に向けて天国を昇りつづけ、旅の終わりにダンテはついに神を見る。「神聖喜劇」の名を冠された、世界文学史に屹立する壮大な物語の完結篇、第三部天国篇。巻末に「詩篇」を収録。

ようやく読了。ちょうど各篇1ヶ月ペースで、3ヶ月かけてのんびり読みました。
ラストに向かうにつれて、妙な昂揚を感じますね。おぉ、ついに神のところまで!みたいな。とはいえ、天国篇は、ダンテの警告通り、そしてよく言われるように、難解というか馴染みにくい印象でした。口頭試問みたいな問答や神学的(?)な説明が大部分を占めていて、地獄篇や煉獄篇を読むのとはちょっと勝手が違いました。あと、ダンテの「これを詩で伝えることはできない」といった発言があまりにも多いのにもちょっとなぁ、と。たぶん、彼の言う通りなのだろうけれど。天国での出来事は人間には理解できない、といったことは天国の住民にも再三指摘されることだし、そうしたそもそも人間が理解できないということと、更にそれを言語化して他の人に伝えられるようにしなければならない、ということは不可能なことなのかもなぁ、とか。面白いのは天国には遠近法が成立しないということ。遠くも近くも同じように見える。ダンテのこの時代には遠近法は成立していないはずだけれど、あれはどこまでも人間の擬似的な視点(トリック)だものね。きっと逆遠近法の世界なんだなぁ、と。
煉獄篇を読んだときベアトリーチェとダンテの痴話喧嘩にどん引きした、と以前書きましたが、ベアトリーチェ=神学なんだよ、ということを天国篇を読んでいるなかで教わりました。ベアトリーチェとダンテの関係を単なる男女関係と読んではいけないのですね。あれは痴話喧嘩ではなく、俗人ダンテに対する神学からの叱責、みたいなものなのですね。俗人ダンテが神学によって深く自己を省みて、神学に魅了され、探求し、それとともに天国を旅していく、ということなのですね、反省。でも学問だけじゃなくて、観想も必要だということは、聖ベルナールへと導き手が変わることからわかるそうです。だとすると、ヴェルギリウスとは何だったのでしょう。
ともあれ、やはり天国で歓びに満ち、健やかに過ごしているはずの人々も、例によってフィレンツェやら法王庁やらには痛罵を繰り広げるんですね。あまりにも口さがない、そして俗っぽくはないか、と思いますがダンテの政治に対する執念やら怨恨やらが透けてみえて面白いです。

読んでよかったか?と聞かれると「よかったよ」って答えます。やっぱり面白い、あらゆる意味で。よくまぁこんなものを作り上げたなぁ、と驚嘆、です。『神曲』のなかで再三自分でも言ってるからあんま言いたくないのだけれど、この人は天才的ですね。細かな部品14233個を丹念かつ緻密に汲み上げて、恐ろしく巨大で、にもかかわらず均整のとれた構築物を作り上げたダンテというのは常人ではないですね。


以下は完全におまけです。いつも以上に意味不明かついい加減な内容になっていると思われますので、間違っても信じたりしないように。

少し前に、NHK教育でカステルッチの舞台・インスタレーション『神曲』が放映されていて、それを見て思ったこと。
ダンテの『神曲』に霊感を受けて作られた、あるいはそれを翻案したといった感じ。特に考察をする訳ではなく、疑問やら、素朴な印象やらを断片的に書き連ねただけですが。

地獄篇について、ダンテのそれとはっきりと重なるのは、ぱっと見たところでは、作者のカステルッチが冒頭シーンの犬に襲われるところくらいだろうか。ヴェルギリウスに連れられて地獄を順に巡っていく、というダンテのそれとは大いに異なるように思う。ダンテが地獄を明確かつ幾何学的に秩序づけたのに対し、カステルッチの舞台では、ダンテもヴェルギリウスも登場しない。
ただ、冒頭の犬に吠え立てられるシーンでは、カステルッチだけではなく、あたかも観客も犬に吠えかけられているように思う。そしてそれ以降ダンテ=カステルッチが登場しないことを考えたら、以降この舞台でダンテの役割を果たし、地獄を垣間みるのは観客自身なんだろう。
序盤の登場する“INFERNO”の文字がなぜ左右逆なのか。観客席から見るとそれは左右逆だけれども、舞台の方から見ると、それは左右正しく表記されている。つまり、観客こそが地獄篇の世界に入り込んでいるのだ。

また、ヴェルギリウスに相当する人物がいない訳ではない。この舞台に要所要所に登場するアンディ・ウォーホルがそれに近い役割を果たしている。途中、舞台の男女が次々と両手を開いて投身するシーンで背景に登場するテロップに書かれているのはウォーホルの作品とその製作年。なぜウォーホルなのか。ダンテがヴェルギリウスの影響下にあったのと同様に、私たちはウォーホルとともにあるということか?これは謎。

反復について。投身シーンでも、バウンドシーンでも、首切りシーンでも、同じ「ような」行為が何度も繰り返される。けれども、それは同じではない。バウンドの反復は違った光と音の反応を生み出すし、首切りもいつの間にか人数が減っていく。一方、ダンテの地獄では、地獄の住民は「終わりない責め苦」に苛まれる。火に炙られ、瀝青に煮られ続ける。それは同じものの繰り返しであり、違うものを生み出さない。この違いは一体なんだろうか。これも謎。

上映後のインタビューで、カステルッチは、(多分に韜晦が含まれているであろうが)興味深い発言をしている。地獄篇をなによりも彼は「生」や「人間関係」という文脈で捉えているのだという。
確かに、ダンテ地獄篇で際立つのは亡者たちの過去(生の時代)についてのダンテへの語りであり、様々な責め苦を甘んじて受け続ける亡者の強さだったと思う。彼らが語るのは、故郷、祖国、家族、友人たちとの関わりであり、カステルッチはそれを「人間関係」という。私たちは人間関係を切り離すことのできない「必要なもの」ととらえている。だから、私たちは「人間関係」から逃れることなどできない。それは往々にして地獄行きと結びつく。天国に行くことができる人間はごく僅かなのかもしれない。あるいはその僅かの者も本当に天国に行けるのだろうか。

「天国篇」のインスタレーション。あそこに流れている水をレテ川として捉えてみたい。レテ川は全てを忘却させる力をもつ。煉獄をこえ、天国へ向かうものは、この川の水を飲み、全てを捨て去る。
…しかし、このインスタレーションの男は、いつまでもレテ川から出ることはできない。つまり、それ以前の人間関係などを捨て去ることができないのだ。そしてその様はあたかも地獄の責め苦のようにも見えてしまう。天国行きを約束されたはずの男は、忘却を果たすことができず(それは彼を彼たらしめているものだから)、いつまでも天国に辿り着くことができない。天国篇の短さの意図について、カステルッチは本心を隠した回答をしているのは明らかだろう。天国篇の短さの理由は、天国に辿り着くことが不可能だからに他ならない。実際のところ、レテ川の水を飲むのは煉獄篇最終部のことであり、実のところ私たちはダンテの天国篇の世界に踏み込むことすらなく、現実の世界に送り返されてしまう。

あと、アメリカについて。ウォーホル、バスケットボール、そして煉獄篇の舞台。なぜアメリカなのか。これまた謎。ただ、近代(モダニズム)においてアメリカのもつ象徴性とか神話性とかと関係づけることができるかもしれない。また、イタリアにとってのアメリカ、は気になるテーマ。

ダンテの神曲において、地獄と天国が永遠のものであるのに対して、煉獄は過渡的な移行の状態である。煉獄にいる人々は、生前の行いに応じて、様々な苦行を負い、それは生前の行いを贖うに足るまで続く。煉獄は許しの場ではなく、苦行への忍耐の場である。したがって、煉獄では唯一時間が意味をもつ。カステルッチにおいても同様に、煉獄篇だけが、時間をもつ。しかし、この作品の息苦しさは何といえばいいのだろう。煉獄にいるのは誰かすらも分からない。
ただ、こう考えることはできる。煉獄において贖われるべき罪が人間関係に起因するものであり、私たちがそれを避けることができないのであれば、そしてそれでも天国を希求するのであれば、私たちは煉獄においてそれを贖わなければならない。それは、避けることのできないものだから、どこまでも不条理のものに見える。同様に、このカステルッチの煉獄篇も、どこまでも不条理な物語である。だけれども、煉獄とは、やはりこういったものなのかもしれない。

ダンテの『神曲』はどこまでも英雄譚である。彼らは名をもつ存在である。
一方カステルッチの取り上げるのは「匿名」の人々である。だから、それは英雄が不可能な時代における「私たち」なのだ。天国にも、地獄の奥深くにも行くこともない、大多数の「私たち」。

…本当かよって自分でも突っ込みながら、ですが。時間があれば、ちょっと観なおしてみたい。