ナチ占領下のフランス国民は、人間の尊さと自由を守るためにレジスタンス運動を起こした。ヴェルコールはこうした抵抗の中から生まれた作家である。ナチとペタン政府の非人間性をあばいたこの二編は抵抗文学の白眉であり、祖国を強制的につつんだ深い沈黙の中であらがいつづけ、解放に生命を賭けたフランス人民を記念する。
古本屋で買った途端に復刊されてしまったヴェルコール。『星への歩み』は加藤周一が訳したのですね。
『海の沈黙』が1942年、『星への歩み』が1943年ですから、まさに「抵抗文学」と呼ぶにふさわしいだろうし、フランスの「国民文学」といってもいいかもしれません。画家であったジャン・ブリュレルが、抵抗運動のなかで、作家ヴェルコールとなる。こうした最中に書かれる作品が、誰に向けて書かれたものだったかといえば、「フランス国民(民衆)」だったであろうし、彼らを目覚めさせ、解放運動へと駆り立てていく、それがこうした作品の果たした役割だったかと思います。
何が言いたいかといえば、それがこの作品の魅力であると思うのだけれど、そのせいでいまいちこの小説に入っていけなかったんですね。フランスの描き方が、特に「あるべき」フランスの姿というのが、あまりにナルシシスティックというか、鼻についてしまった。しかも、それを「他者」に仮託している点にも違和感を抱いてしまった。具体的に言えば、『海の沈黙』のドイツ人将校フォン・エブレナクは、フランス文化に深い愛情を抱いており、ドイツによる侵攻の結果としてドイツとフランスが融合することを夢想している。『星への歩み』のトーマ・ミュリッツはフランス、特にパリを愛するあまり、フランスに帰化したユダヤ系(?)チェック人である。どちらからもフランスはこよなく愛されている。そしてその愛ゆえに、彼らは戦争の犠牲となっていく。それに対して、じゃあフランス人はどうする? こうヴェルコールが迫っているように感じてしまった。『海の沈黙』においてフランス人の「私」と「姪」は沈黙を守り続ける。最後の最後になって、彼らは口を開くことになるのだけれど、彼らのしたことと言えばそれだけである。フランス人の沈黙や無抵抗さをヴェルコールは挑発的に掻き立てているのではないか。
もちろん素直に読めば、ナチスとペタンなどそれに迎合したフランス人への弾劾なのだろうけれど、この2作が書かれた背景が、そうした読みに留まらせてくれない。彼らが抱くフランスへの愛こそ、フランスをまとめあげ、フランス国民を結びつける理念のあるべき姿であるにも関わらずそれが台無しにされてしまったこと、そしてそれを「フランス」が守るどころか、それを踏みにじったナチスへ迎合する姿勢すら示していること、ヴェルコールが弾劾しているのはまさにこの点なんだろうと思う。トーマやヴェルネル自身を描きたかったのではなく。
個人的にはいまいちでした。
2010年5月6日木曜日
2010年5月5日水曜日
矢部史郎 『原子力都市』
人文・社会科学の分野で異彩を放つ思想家・矢部史郎が、日本全国の「原子力都市」を自らの足で訪ね描いた現代日本地理。私たちは「鉄の時代」の次にあらわれた「原子の時代」の都市の全貌をいまだはっきりと把握できておらず、本書はそれを実際に都市を歩くなかから探り出そうとする。オバマ政権の誕生以降、あらためて注目をあびはじめた「核の時代」。こうした時代背景のなかで、「在野の思想家」のユーモアと鋭さを併せもつ分析の刃が、新しい時代の政治と文化を斬る。
都市を歩くことは難しい。都市を見つめることはもっと難しい。
何らかの目的なしに、都市を見つめ、感じ、語らうこと、それはよっぽどのことがなければできるもんじゃない。僕は「郊外」と呼ばれる場所に生まれて、「都会」にはうんざりするほど長い間通い続けている。今住んでいるところだって、「都会」と呼ばれる地域にある。僕は頻繁に、そこに行く。例えば、渋谷に行く(服を買いに、あるいは映画を観に)、銀座に行く(お昼を食べに、あるいは文房具を見に)、神保町へ行く(古本を漁りに、そしてコーヒーを嗜むために)、下北沢に行く(髪を切りに)……といったように。まるで、都市とは何かをするための場所で、街路はそのための通路でしかないかのように思いながら。
そんなとき、僕は都市を見てはいないし、それと語らってなどいない。なにもせずに都市と戯れながら、また思いを馳せつつ、ただ遊歩すること。それって単純な行為のようで、その実とても難しいことのように思う。
だけど、そういえば海外に旅行するとき、僕はひたすらに歩き回る。よくわからない住宅地に迷い込んだり、怪しげな界隈に入ったり、「ここは行った方がいいよ」と言われた場所に行き着けなかったり。そんなふわふわした散歩はとても好きで、そんなことを何日も続けていると、なんとなくその街のことが「分かった」つもりになったりする。けれど、それを続けていく中で今度は頭の中に地図ができあがってしまう。今までふわふわした、いわば混沌とした世界が、秩序付けられて、ここを行けばこっちに辿り着けて、本屋はここにあって、美術館地区はあっちにある、という具合に。そうすると、都市は、後景へと引き下がってしまって、「街を歩く」という楽しさも、ふわふわした感覚もなくなってしまう。それはもう帰ってこない。
勿論、これはごく私的な印象論に過ぎなくて、矢部史郎のこの本とは何の関係もない。この「都市」というものの掴みがたさや、「都市」そのものを意識することの難しさについて、僕は言いたかったのだ。
都市を見つめることは難しい。ましてや都市を研究することなど、僕にとっては不可能なことのように思える。
都市社会学(観光社会学を加えてもいい)や都市空間論について僕が感じる空虚さもこの点に関わってくる。こうした研究や、研究者たちは、結局のところ「都市」について何一つ語ってはいないのだから。彼らは、「郊外」について語る、あるいは「都市問題」について語る、「都市開発」について語る。しかし、「都市」そのものについては何も語っていないに等しい。それは「都市」について語ることの難しさを、そのまま浮き彫りにしている(ような気がする)。都市人類学と言えばいいのか、都市に住まう人々の(とりわけ移民やエスニックマイノリティなど)エスノグラフィックな調査なんかは結構面白いと思うのだけれど(例えば、松田素二さんの『都市を飼い馴らす』とか)。
そんななか、矢部史郎は本書で、それとは全く違う観点から、「都市」について思考している。本書は随想的でもあるし、紀行文のようでもある。そうした読み物として見ても、優れた著述だと思うし、難解な用語などほとんど出てこない。けれど、僕はこの本は、日本における都市研究の最先端なんじゃないか、とすら思う。彼は都市を歩くこと、都市を見つめること、そしてそれぞれの都市の観察を縫い重ねることによって、全く新しい「都市」概念を創り上げている。それが「原子力都市」である。
本書の冒頭、矢部は次のように語る。
では、「原子力都市」の特徴とは何か。それは、
①技術と投機的な巨大計画による専制とそれに伴う労働者の地位の喪失
②放射性物質の性質が、時間/空間の秩序を平滑化させる点。ひいては、資本主義的活動領域と非資本主義的活動領域との区分を無効化する点
であるという。どちらにおいても、(名前こそ挙がらないものの)U.ベックのリスク社会論との関わりが推察される。特に9.11以降、リスク社会論は少し違う意味合いもはらむようになったが、そもそもベックが念頭においていた出来事はチェルノブイリであり、近代社会を支えてきた技術革新が、そうした社会を破滅へと導くような放射能汚染や環境問題を生み出してきた。つまり、近代社会の推進力が近代社会そのものを掘り崩してしまうような再帰的状況、そのことを彼はリスク社会と呼んでいたように思う。そのリスクは、国境や階級を超え、まさしくグローバルに共有されるものであり、各国民-国家によって対処できる性質のものではない。彼が最近コスモポリタニズムに傾倒しているのはその当然の帰結なんだろう。(ベックを長らく読み返していないので、内容あやふやです。そもそもちゃんと読めてなかったか。)
話がそれた。リスクという言葉は、今日あらゆる領域へと拡散している。金融危機も、テロリズムも、偽装も、車の故障も、みんなリスクである。そしてそのリスクと最も結びつけられるのは、管理という言葉だ。企業のリスク・マネージメント。リスクをいかに読み込み、それに対処するか。そもそも目に見えず、管理できないからこそリスクなのだし、従ってリスク・マネージメントは十全には達成できない。だけれども(それゆえに)、あらゆるリスクに対処するために各企業は懸命な努力を続ける。そうしたリスク・マネージメントの対象になるのは、究極的には労働者に他ならない。リスク・マネージメントは、ある意味でそうした労働者の切り下げと、労働への没入の強要(古典的に搾取と呼んでもいいだろうし、「労務管理」とも呼べるかもしれない)の言い換えに他ならない。
矢部氏は、それを労働者から人材(ライヴ・ウェア)へと端的に表現している。
しかし、そうした中で、平滑空間と化した「原子力都市」の内部にはさまざまな蠢き、分子的運動が見られるという。そうした民衆の蠢動を、国家は都市計画という名の下に無力化させようとしてきた。にもかかわらず、そうした国家による統制を脱臼化させるような運動が起こっていることを彼は見逃さない。この点は少しマルチチュード的でもあるし、それゆえに正直に言ってやや楽観的な観測のようにも見えるけれど。
都市計画や首都圏の拡大(つくばエクスプレス、副都心線、スカイツリー)などをこうした文脈から捉えたことがなかったので、とても面白い。(とりわけ東京など)都市についての見方が変わることは間違いないし、そうしたパフォーマティヴな意味合いも本書にはあるのだろう。
難しい言葉はほとんど出てこないし、読み物としてもよくできている。その実ドゥルーズ=ガタリ、ハキム・ベイ、ネグリ=ハート、ウルリッヒ・ベックなどさまざまな領域から思想を汲み上げつつ、それと都市を見つめる独自の視線とを実に魅力的な形で組み合わせている。こんな面白い都市論ができるんだなぁ、と。とてもよい本。
都市を歩くことは難しい。都市を見つめることはもっと難しい。
何らかの目的なしに、都市を見つめ、感じ、語らうこと、それはよっぽどのことがなければできるもんじゃない。僕は「郊外」と呼ばれる場所に生まれて、「都会」にはうんざりするほど長い間通い続けている。今住んでいるところだって、「都会」と呼ばれる地域にある。僕は頻繁に、そこに行く。例えば、渋谷に行く(服を買いに、あるいは映画を観に)、銀座に行く(お昼を食べに、あるいは文房具を見に)、神保町へ行く(古本を漁りに、そしてコーヒーを嗜むために)、下北沢に行く(髪を切りに)……といったように。まるで、都市とは何かをするための場所で、街路はそのための通路でしかないかのように思いながら。
そんなとき、僕は都市を見てはいないし、それと語らってなどいない。なにもせずに都市と戯れながら、また思いを馳せつつ、ただ遊歩すること。それって単純な行為のようで、その実とても難しいことのように思う。
だけど、そういえば海外に旅行するとき、僕はひたすらに歩き回る。よくわからない住宅地に迷い込んだり、怪しげな界隈に入ったり、「ここは行った方がいいよ」と言われた場所に行き着けなかったり。そんなふわふわした散歩はとても好きで、そんなことを何日も続けていると、なんとなくその街のことが「分かった」つもりになったりする。けれど、それを続けていく中で今度は頭の中に地図ができあがってしまう。今までふわふわした、いわば混沌とした世界が、秩序付けられて、ここを行けばこっちに辿り着けて、本屋はここにあって、美術館地区はあっちにある、という具合に。そうすると、都市は、後景へと引き下がってしまって、「街を歩く」という楽しさも、ふわふわした感覚もなくなってしまう。それはもう帰ってこない。
勿論、これはごく私的な印象論に過ぎなくて、矢部史郎のこの本とは何の関係もない。この「都市」というものの掴みがたさや、「都市」そのものを意識することの難しさについて、僕は言いたかったのだ。
都市を見つめることは難しい。ましてや都市を研究することなど、僕にとっては不可能なことのように思える。
都市社会学(観光社会学を加えてもいい)や都市空間論について僕が感じる空虚さもこの点に関わってくる。こうした研究や、研究者たちは、結局のところ「都市」について何一つ語ってはいないのだから。彼らは、「郊外」について語る、あるいは「都市問題」について語る、「都市開発」について語る。しかし、「都市」そのものについては何も語っていないに等しい。それは「都市」について語ることの難しさを、そのまま浮き彫りにしている(ような気がする)。都市人類学と言えばいいのか、都市に住まう人々の(とりわけ移民やエスニックマイノリティなど)エスノグラフィックな調査なんかは結構面白いと思うのだけれど(例えば、松田素二さんの『都市を飼い馴らす』とか)。
そんななか、矢部史郎は本書で、それとは全く違う観点から、「都市」について思考している。本書は随想的でもあるし、紀行文のようでもある。そうした読み物として見ても、優れた著述だと思うし、難解な用語などほとんど出てこない。けれど、僕はこの本は、日本における都市研究の最先端なんじゃないか、とすら思う。彼は都市を歩くこと、都市を見つめること、そしてそれぞれの都市の観察を縫い重ねることによって、全く新しい「都市」概念を創り上げている。それが「原子力都市」である。
本書の冒頭、矢部は次のように語る。
「原子力都市」はひとつの仮説である。
「原子力都市」は、「鉄の時代」の次にあらわれる「原子の時代」の都市である。「原子力都市」は輪郭を持たない。「原子力都市」にここやあそこはなく、どこもかしこもすべて「原子力都市」である。どれは、土地がもつ空間的制約を超えて海のようにとりとめなく広がる都市である。(中略)
生活が味気ないというだけのはなしはそろそろきりあげて、次の話をしようと思う。(pp.4-5)
では、「原子力都市」の特徴とは何か。それは、
①技術と投機的な巨大計画による専制とそれに伴う労働者の地位の喪失
②放射性物質の性質が、時間/空間の秩序を平滑化させる点。ひいては、資本主義的活動領域と非資本主義的活動領域との区分を無効化する点
であるという。どちらにおいても、(名前こそ挙がらないものの)U.ベックのリスク社会論との関わりが推察される。特に9.11以降、リスク社会論は少し違う意味合いもはらむようになったが、そもそもベックが念頭においていた出来事はチェルノブイリであり、近代社会を支えてきた技術革新が、そうした社会を破滅へと導くような放射能汚染や環境問題を生み出してきた。つまり、近代社会の推進力が近代社会そのものを掘り崩してしまうような再帰的状況、そのことを彼はリスク社会と呼んでいたように思う。そのリスクは、国境や階級を超え、まさしくグローバルに共有されるものであり、各国民-国家によって対処できる性質のものではない。彼が最近コスモポリタニズムに傾倒しているのはその当然の帰結なんだろう。(ベックを長らく読み返していないので、内容あやふやです。そもそもちゃんと読めてなかったか。)
話がそれた。リスクという言葉は、今日あらゆる領域へと拡散している。金融危機も、テロリズムも、偽装も、車の故障も、みんなリスクである。そしてそのリスクと最も結びつけられるのは、管理という言葉だ。企業のリスク・マネージメント。リスクをいかに読み込み、それに対処するか。そもそも目に見えず、管理できないからこそリスクなのだし、従ってリスク・マネージメントは十全には達成できない。だけれども(それゆえに)、あらゆるリスクに対処するために各企業は懸命な努力を続ける。そうしたリスク・マネージメントの対象になるのは、究極的には労働者に他ならない。リスク・マネージメントは、ある意味でそうした労働者の切り下げと、労働への没入の強要(古典的に搾取と呼んでもいいだろうし、「労務管理」とも呼べるかもしれない)の言い換えに他ならない。
矢部氏は、それを労働者から人材(ライヴ・ウェア)へと端的に表現している。
しかし、そうした中で、平滑空間と化した「原子力都市」の内部にはさまざまな蠢き、分子的運動が見られるという。そうした民衆の蠢動を、国家は都市計画という名の下に無力化させようとしてきた。にもかかわらず、そうした国家による統制を脱臼化させるような運動が起こっていることを彼は見逃さない。この点は少しマルチチュード的でもあるし、それゆえに正直に言ってやや楽観的な観測のようにも見えるけれど。
都市計画や首都圏の拡大(つくばエクスプレス、副都心線、スカイツリー)などをこうした文脈から捉えたことがなかったので、とても面白い。(とりわけ東京など)都市についての見方が変わることは間違いないし、そうしたパフォーマティヴな意味合いも本書にはあるのだろう。
難しい言葉はほとんど出てこないし、読み物としてもよくできている。その実ドゥルーズ=ガタリ、ハキム・ベイ、ネグリ=ハート、ウルリッヒ・ベックなどさまざまな領域から思想を汲み上げつつ、それと都市を見つめる独自の視線とを実に魅力的な形で組み合わせている。こんな面白い都市論ができるんだなぁ、と。とてもよい本。
2010年5月2日日曜日
本谷有希子 『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』
「お姉ちゃんは最高におもしろいよ」と叫んで14歳の妹がしでかした恐怖の事件。妹を信じてはいけないし許してもいけない。人の心は死にたくなるほど切なくて、殺したくなるほど憎憎しい。三島由紀夫賞最終候補作品として議論沸騰、魂を震撼させたあの伝説の小説がついに刊行。
なんというか、とっても分かりやすい小説。文章は粗い感じですし、日本語が上手という感じはしませんが、とりあえず、分かりやすい。突っ込みどころも多々ある。演劇的なのかどうかわからないけれど、すごく図式化しやすい感じ。この人はこういうキャラで、あの人はこんな感じ、で、こんなことがあって、二人の関係はこうなって……とか言った具合に。頭を使わずにそのまま読んでいけます。分かりやすい分、強烈な面白さはあります、きっちり落としますし。人物造形が余りにも平面的とか、リアクション(行動・振る舞い)がわざとらしい、とか、登場人物に人間味がない(役柄とかキャラみたい)とか、こういう点に突っ込みを入れてはいけないのかな。著者の思うつぼのような気がします。
ただ、どうにも気になるのは、ここまで家族の死をぞんざいに扱った小説はそうはないだろう、ということ。両親が死に、更にはその息子も死んでしまうのというのに、人を悼む、という感情が(登場人物の誰一人として)これっぽっちも見られないのはどういうことか。葬式も、仏壇も、まるで登場人物の書き割りや場面設定に過ぎない。いくらなんでも、これはやり過ぎだと思うが、他方でこの感性の決定的な欠落こそが、現代の若手作家の特徴なのかもしれない。あとは、描写力の貧しさと世界の狭さか。それでも(ごく短時間に)読ませてくれる、その疾走感は心地よい。
なんというか、とっても分かりやすい小説。文章は粗い感じですし、日本語が上手という感じはしませんが、とりあえず、分かりやすい。突っ込みどころも多々ある。演劇的なのかどうかわからないけれど、すごく図式化しやすい感じ。この人はこういうキャラで、あの人はこんな感じ、で、こんなことがあって、二人の関係はこうなって……とか言った具合に。頭を使わずにそのまま読んでいけます。分かりやすい分、強烈な面白さはあります、きっちり落としますし。人物造形が余りにも平面的とか、リアクション(行動・振る舞い)がわざとらしい、とか、登場人物に人間味がない(役柄とかキャラみたい)とか、こういう点に突っ込みを入れてはいけないのかな。著者の思うつぼのような気がします。
ただ、どうにも気になるのは、ここまで家族の死をぞんざいに扱った小説はそうはないだろう、ということ。両親が死に、更にはその息子も死んでしまうのというのに、人を悼む、という感情が(登場人物の誰一人として)これっぽっちも見られないのはどういうことか。葬式も、仏壇も、まるで登場人物の書き割りや場面設定に過ぎない。いくらなんでも、これはやり過ぎだと思うが、他方でこの感性の決定的な欠落こそが、現代の若手作家の特徴なのかもしれない。あとは、描写力の貧しさと世界の狭さか。それでも(ごく短時間に)読ませてくれる、その疾走感は心地よい。
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