2009年5月5日火曜日

ミハイル・ブルガーコフ 『巨匠とマルガリータ』

焼けつくほどの異常な太陽に照らされた春のモスクワに、悪魔ヴォランドの一味が降臨し、作家協会議長ベルリオーズは彼の予告どおりに首を切断される。やがて、街のアパートに棲みついた悪魔の面々は、不可思議な力を発揮してモスクワ中を恐怖に陥れていく。黒魔術のショー、しゃべる猫、偽のルーブル紙幣、裸の魔女、悪魔の大舞踏会。4日間の混乱ののち、多くの痕跡は炎に呑みこまれ、そして灰の中から<巨匠>の物語が奇跡のように蘇る。SF、ミステリ、コミック、演劇、さまざまなジャンルが魅力的に混淆するシュールでリアルな大長編。ローリング・ストーンズ「悪魔を憐れむ歌」にインスピレーションを与え、20世紀最高のロシア語文学と評される究極の奇想小説、全面改訳決定版!

名前はよく聞くけど、読んだことのなかったブルガーコフです。これはいいですね。メフィストフェレス的な悪魔がモスクワにやってきて、燃やし放題、殺し放題、騙し放題です。すっきり。
ってことで終わりにするわけにもいかないので、感想まで。

悪魔って善い奴?悪い奴?って聞かれたら、恐らく100人中80人くらいは悪い奴っていうでしょう、もっと多いかな。けれども、善/悪を決めるのは誰ってことですよ。価値判断なんて社会的な要請によって変わるものです、ベルリオーズらにとっては神こそ悪で人間の理性こそが善なわけですし。その善であるはずの人間の姿が悪魔によって露呈されていく様、痛快です。悪魔=悪で読んでいって、なんだこの悪魔善い奴じゃん、って思っちゃうのも、同じことですね。価値判断は置いておきましょう。
この小説の面白さは一つには、キリストの4日間(エルサレム入城~復活)と悪魔の降臨と巨匠の小説の復活がパラレルになっているところですね。とりわけピラトゥスを巡る巨匠の小説、非常に面白いです。
焼かれた本(焚書)が悪魔によっていとも簡単に復活する。本を焼いたのは誰か?ソ連という強大な官僚システムと、その歯車と成り下がっている、文学界そのものでしょう。だから本作はソ連とその文学界に対する痛烈な批判となっている。初めにヴォランドがベルリオーズとイワンに語る物語、それは巨匠の小説の一部分だ。2人を当時のエルサレムに誘うほどの完成度の高さを誇っておきながら、それは評価されない。というよりも巨匠の小説をベルリオーズが全く知らないというのも奇妙な話ですが。
そして当のベルリオーズは首を切られ(死んだのはあくまで偶然ですが)、グリボエードフは燃やされる。イワンもリューヒンも偽善的にプロレタリアートを装いながらろくでもない詩を発表し、人々と焚きつける。官僚の一人は、ジャケットが勝手に署名した仕事を何のためらいもなく、自分の仕事として認める。金に、ファッションに飛びつく人々。
ソ連の実態がこれでもかと暴かれていきます。
そこから離れ、地下で平穏に暮らしてきたマルガリータと巨匠もその世界から真に逃れることはできない。本は燃やされ、彼らの生活は破綻する。しかし、マルガリータの愛は巨匠を精神病院から救い出し、真に平穏な世界へと彼らは旅立つ。ソ連というシステムに囚われず、書き続ける生活を送るにはこの道しかなかったということなのでしょうけど。結局のところ何も変わらない、歯車は取り替えられたかもしれないが、全体としては。今も、恐らくは。しかしそれだけだろうか。

最初に殺し放題と書きましたが、これは間違いですね。ヴォランドが直截に手を下した殺人はないといっていいでしょう。ベルリオーズはあくまでも足を滑らせた事故ですし、マイゲール男爵にいたっては猫を幻視した警察によって撃たれたわけですから。悪魔が行ったことは、実は予言したことと幻惑を見せること、あとは燃やすこと、これだけだと僕は読みました(誤読の可能性はありますよ)。そう燃やすこと。焼かれたはずの小説は復活し、それを焼失にいたらしめたいくつもの建物も燃やされ、破壊される。地下室も最後には燃え、巨匠とマルガリータは別の世界へと飛び立つ。マルガリータの愛はまるで炎のようだ。燃えること、それは既にある何かを破壊するだけでなく、新しく何かを生み出すこと。ブルガーコフは炎に何を託したのか。

ところでイスカリオテのユダを殺したのは誰なのか?聖書では確か、銀貨を神殿に投げ込み自殺したことになっている。けれども、この小説では誰かに殺されたことは明らかだろう。ピラトゥスが自分が殺したのだとマタイに語り、アフラニウスがニーザに会い、その後ニーザがイスカリオテのユダを郊外に案内してい ることから考えると、彼らが殺害に関与した可能性は十分にある。その場合問題となるのが、ピラトゥスとアフラニウスの語らいだろうが。この語らいは茶番だったのでしょうか。でも、殺害シーンに登場する第3の男はアフラニウスだと読めるわけですが。このアフラニウスという人物、とても謎めいています。
しかし、本当によく出来た小説だなぁとつくづく思います。伏線が無数に張り巡らされていて、まるで迷宮のよう。池澤が「巨大な建築」と喩えたのは言い当て妙だと思います。


2009年5月2日土曜日

檜垣立哉 『ドゥルーズ入門』

没後10年以上の時を経て、その思想の意義がさらに重みを増す哲学者ドゥルーズ。しかし、そのテクストは必ずしも読みやすいとはいいがたい。本書は、ドゥルーズの哲学史的な位置づけと、その思想的変遷を丁寧に追いながら、『差異と反復』『意味の論理学』の二大主著を中心にその豊かなイマージュと明晰な論理を読み解く。ドゥルーズを読むすべての人の羅針盤となる決定的入門書。

さて、ドゥルーズ入門です。ただ、このタイトル問題ありですよね。もちろんシリーズ化してるからしょうがないですけども。ホントにこの本を取っ掛かりにしようと思うとたぶん途中で挫折すると思います。私自身はところどころ難解(それがどこか、なぜなのかについては後述します)なところがあるように感じましたが、それでも非常に面白く読みました。なるほどね、という感じ。決してポップではありませんが、初期(つまり『アンチ・オイディプス』以前)のドゥルーズに注目することは、試みとしても面白いですよね。まず、哲学史家としてのドゥルーズが描かれなくてはならない。確かに。河出さんとかが頑張ってくれているおかげで、非常に幸いなことに初期の彼の著作は文庫化が進んでいて、手に取りやすい。こんな贅沢なことないよなぁ、と思ったりしますが。
初期のドゥルーズとガタリとの共同作業以降のドゥルーズ、確かに一貫しているところもあるんだけれどもなんとなく違う気がする、そんなことを感じていましたが、檜垣はそれを一つ「転回」として捉え、その根底にあったものを上手に説明しているなぁと思いました。

そんなわけで、3章まではとても分かりやすく、頷きながら読んだりしていたのですが、4章『意味の論理学』以降から少しわからなくなってきた。なんでだろうと思ったのですが、理由は単純で『意味の論理学』を僕は読んでいないから。つまりこういうことです、本書は全くドゥルーズの著作に触れてこなかった人にはちょっと難解すぎる。ある程度彼の思想に触れたことがあるか、著作を読んだことがあることが前提になっているような印象です。「『差異と反復』よくわかんなかったけどとりあえず読んだ」とかいう人は、きっとそうゆうことだったのね、となるのでしょう。(少なくとも僕にとっては)概説書と著作それ自体の反復作業、それを通して理解を深めていくことが一番近道なのかなと思います。本書を読みながら、久々に『差異と反復』を読み返していますが、以前よりも理解が深まっていると感じます。もう少し、継続的に初期のドゥルーズの思想にアプローチしていこうかと。

ただ、そんなことをいいながらも気にかけなきゃいけないことは、この本は檜垣なりのドゥルーズの読みでしかないということ。当たり前の話ですが、読む人の数だけ読み方がある。例えば、小泉義之の『ドゥルーズの哲学』なんかは典型で、あれは入門書というよりも彼流のドゥルーズ理解、あるいはドゥルーズを介した彼自身の生命哲学の議論に他ならないわけで。まぁあれはあれでかなり面白かったですが。檜垣がここで『差異と反復』を取り上げる時も、そこから抜け落ちる幾つもの要素、あるいは彼が取り上げなかったポイント、そういったものが間違いなくあるわけで、最終的には自分なりに読み込んでいくしかないわけです。ドゥルーズ自身、『対話』のなかで次のようなプルーストの一節を引用するわけですから。

美しい本は一種の外国語で書かれている。ひとつひとつの語の下に私たちのひとりひとりは自分なりの意味を盛り込み、あるいは少なくとも、自分なりのイメージを盛り込む。そのイメージは誤読になることもある。しかし美しい本のなかで作り出される誤読はすべて美しいのだ。




ジュディス・バトラー 『自分自身を説明すること』

他者との関わり合いにおいて主体は形作られ、他者への責任=応答可能性において主体は自らを変革する。道徳が暴力に陥る危険性を問い質し、普遍性の押し付けによって個性を圧殺する倫理的暴力の論理に抗いつつ、危機の時代に「私」と「あなた」を結び直して希望の隘路を辿る、剣呑な哲学。暴力論叢書第三弾刊行!

僕には少し難しかったです。バトラーがどこで格闘しているか、それを掴むこと自体はさほど難しいことではない。そういう意味では彼女は一貫している。真摯に向き合っている。バトラーが格闘する場所、それは「自分自身を説明すること」、あるいは「自分自身について真理を語ること」の可能性/不可能性が混交する領域であり、「私」に対して他者が語りかけ、それに応答しようとする場なのだろう。
バトラーは、フーコーをアドルノを主たる参照軸とし、それにカヴァレロ、レヴィナス、ラプランシュ、ニーチェらを批判的に読み解きながら、「倫理」について、そして「他者」について、なにより「私」について思考を進めていく。しかし、その思考のスピードに僕自身が付いていけなくなった。「分かっている」と思いながら読み進めているうちに、気づいたら字面を追っているだけの状態になっている。その繰り返し。完全に僕の知識不足なのだろう。これは仕方のないこと。僕の場合、恐らくもっと時間をかけて、あるいはノートなどに取りながら精読する必要があるのだろう。
ただ、分かった限りのこと、それだけでも取り出す価値はあるだろう。

バトラーがまず問題にするのは、「主体」の不透明性です。私は「私」自身を完全に説明することができない。その理由は、決して言語化しきれないような経験―「曝され」があるから、また、私の歴史には「私」にまつわる他者との原初的関係が存在していて、そういったものは私にとって「不透明」な領域にあるから、そして、他者から語り掛けられ、その応答として「私」自身を説明しようとするとき、私は他者や規範から「呼びかけ」られることでそれに応えるような位置に身を置いてしまうからだとバトラーは指摘します。その上で彼女が問いかけることは、こうした自分自身を説明することの不可能性、あるいは「主体」の不透明性は、他者との関係、あるいは倫理的な取持ちを不可能にしてしまう「失敗」なのだろうか、ということです。その後、彼女は私と他者との(原初的)関係について考察を進めるためにレヴィナスやラプランシュの議論を検討します。両者において、主体形成は他者への受動性を前提としています。レヴィナスにおいては「迫害」、ラプランシュにおいては「謎のシニフィアン」、これらが幼児に絶対的外傷を与えるということでしょうか。いずれにせよ、主体形成においては、〈他者〉が存在しなければならない。それだけではなく、私が自分自身を説明するとき、そこには語りかける対象―すなわち「あなた」―が存在しなければならない。したがって、

語ることはある行為を演じることであって、その行為とは、〈他者〉を前提とし、他者を措定し、練り上げ、どんな情報を与えるよりも前に他者へと、あるいは他者のおかげで与えられる。したがって、もし最初の時点で…私はあなたへの呼びかけにおいてしか存在しないとすれば、私そのものである「私」はこの「あなた」なしでは何者でもなく、他者への関係の外側では、自分自身への言及すら始めることすらできないことになる。(pp.148 強調部は原文では傍点)
他者からも、規範からも「私」自身を完全に語ることが制約される、そういったことでは全くない。そもそも私が(自分自身を含めた)何かを語る際には、そして私自身があるためにはそれらの中に身を置き、関係を取り持つことが必要とされる。それは主体が自在に語ることを不可能にするものかもしれないし、私が語ることを制約するかもしれない。けれども、それを決定するわけではない。両者の間にはやはり隔たりがあって、その隔たりのなかで―そして他者との関わりを前提としつつ―、自分自身を語ること、あるいは語るべきものとして自分自身を作り直すこと(それは文字通り反省的/再帰的なreflexive過程だ)それこそが彼女の主張する倫理なのだろう。

この読みがどこまで適切なものか、自信がもてないところではありますが。カヴァレロ、ラプランシュ…気になります。特にカヴァレロ。邦訳はないようですが、これは面白そうだと。本書で引用されたのはRelating Narrativesという著作のようですが、気が向いたら読んでみたいものです。